第三話 3.魔女(3)
* * *
寒気を感じて沙樹は瞼を開いた。中々引かない眠気の中、今の状況に気づいてはっとする。
「さむ・・」
呟くと同時に鳥肌の立った腕をさすっていた。寒い筈だ。どうやら帰ってきて着替えもせずにそのままベッドの上で寝ていたらしい。
「あぁ、もう・・」
化粧も落としてないし、歯も磨いてない。電気もつけっぱなしだ。時計を見れば夜中の三時。
会社から帰ってきて疲れていると、時折夕食も食べずに眠ってしまう事がある。今夜が正にそうだった。慌てて服を脱いでくたびれたパジャマに着替える。あぁ、ストッキングが脱ぎにくい。けれど勿体無いので伝線しないように丁寧に下していく。ストッキングは水色のカットソーと一緒にネットに入れ、皺が付いてしまったベロアのスカートはハンガーにかける。洗顔と歯磨きを終えた所でやっと一息ついた。
(今日が金曜日で良かった・・。)
変な時間に目が冷めてしまったけれど、翌日が休日ならいつもよりも長く眠れるから問題ないだろう。
念の為玄関の鍵が掛かっている事を確認し、電気を消して冷たくなったベッドの中に潜り込んだ。
(そうだ。明日はなっちゃんと買い物の約束してるんだった・・・。)
遅くとも九時には起きなくちゃ。そんな事を考えている間に、再び眠りに落ちていた。
最近髪を切ってショートボブになった奈津子が向かいに座った沙樹を見て首を傾げた。
「なんか疲れてる?」
「ん?んー。最近仕事詰まってて。結構残業続いてるんだ。」
「そっかぁ。大変だね、社会人は。」
沙樹は高卒で就職したが、高校の友人達は皆大学や専門学校へ進んでいる。今日共に居る奈津子は大阪の大学へ進学し、三連休を利用して実家へ帰省している所だ。せっかく東京に帰ってきているから会おうよ、とメールを貰い、二人は互いの家から近い駅で待ち合わせして馴染みのカフェでお茶をしていた。
「大学は楽しい?」
「うん。まだ一年だしね。高校と違ってびっくりするぐらい自由な時間があるから楽だよ~。」
「へぇ。いいねぇ。そういえばバイトするって言ってなかった?何にしたの?」
「うん。大学の近くにあるパン屋さん。いっつも店の前通る度に良い匂いしてたから気になってたんだよねぇ。ベーグルがめっちゃ美味しいの。」
「終わりにパンもらえるの?」
「貰える貰える!!コンビニと違って冷めてても美味しいからさぁ。ついつい沢山貰っちゃうんだよねぇ。だから大抵朝ごはんはそこのパン食べてる。」
「いいなぁ。やっぱりバイトするなら食べ物関係が良いよねぇ。」
「マジそう思う。夏にでもこっち遊びにおいでよ。夜はあたしんち泊まれば良いし。パンでも何でも美味しいトコ案内してあげる。」
案内してくれるのが観光地ではなく、美味しい食事処だと言うのだから奈津子らしい。
「行きたい!!美鈴達には連絡取ってる?」
「うん。メールしたけどこの三連休は出かけてるみたい。でも皆学生だから絶対夏とか暇あるから大丈夫。そういや、美鈴さ~・・・」
アイスレモンティーのグラスに刺さったストローをクルクル回して手元を遊ばせながら、奈津子の話に相槌を打つ。ジンジャエールが入った彼女のグラスはもう直ぐ空になりそうだ。久しぶりに会った友人同士、話したいことは沢山あるからきっとおかわりするだろう。これならファミレスに行ってドリンクバーを頼んだ方が安上がりで良かったかもしれない。
「沙樹。この後どうする?買い物でも行く?」
「うん。いいよ。あ、前になっちゃんが言ってたセレクトショップ。駅前に出来たの知ってる?」
「うっそ!マジ!行く行く!大阪にも同じ店あるんだけどさぁ。欲しかったパンプスが関東限定だったらしくて買えなかったんだよねぇ。」
「じゃあ、飲み終わったら行ってみよっか。」
他愛の無いおしゃべりはそれだけで楽しい。会社と違って気を使う必要も無いし、一人暮らしが長い沙樹だからこそ、こんな時間は大切にしたい。
(あぁ、今日が終わらなければいいのに。)
些細な事で笑いあいながら、そんなことを思う。
「サキ。」
名前を呼ぶのは優しくて低い声。奈津子とはまるで違う、男の人の声だ。あれ?と疑問に思って目を開ければ、目の前には同じベッドの中で上半身を起こして自分を見下ろしているアスタの姿があった。
屋敷の主であるウェンは二人に一つずつ部屋を用意してくれたのだけれど、結局昨夜アスタの部屋で話し込んでいる内に同じベッドで眠ってしまったのだ。それを思い出して、沙樹は先ほどの光景が一体何だったのかを理解した。
(あぁ、夢・・・・)
そうだ。自分はまだ“こちら”に居るんだ。先程の夢が想像から来るものなのか、それとも過去の記憶から来るものなのか。分からない程あまりに当たり前で日常的な夢だった。久しぶりに“あちら”の夢を見てしまったのは、帰還方法に一歩近づけた自分の希望故かもしれない。
――最近、よく夢を見る。仲間達の夢だ。
(シンイチさんも、こんな風に仲間の夢を見たのかな・・・。)
日記に書かれていた夢の話。そして置いてきてしまった事を後悔している仲間の事。
――妻に、息子に、そして生まれてくる孫に一体何を残してやれるのか。
もしも自分がシンイチと同じ道を辿るのなら、何かを残したいと思う相手はアスタしかいない。でも、自分は一体何を残してあげられるのだろう。ただ、去っていくだけの自分が。
「サキ?」
「・・・おはようございます。アスタさん。」
「うん。おはよう。」
色んな事が頭の中を巡っていてベッドの中から起き上がれない沙樹の髪を、アスタの大きな手が撫でていく。温かい体温。心地の良い手の感触。どちらもこの世界に来る迄は知らなかったのものだ。けれど、先程の夢で沙樹は一つ自覚してしまった。
(やっぱり私・・・、皆に会いたい。)
沢山の時間を共に過ごしてきた友人達。共に音楽を楽しみ、時に叱咤激励し、あっと言う間だった高校時代を鮮やかな思い出にしてくれた大切な皆。次々と浮かぶ大切な人達の顔が目の奥を熱くする。
(帰りたい。)
心の中で呟いたその一言が沙樹の目を濡らした。そっとシーツで涙を拭う沙樹に気づかないフリをして、アスタはしばらく沙樹の髪を撫でていた。
* * *
コウモリの羽根や毒入りキノコをぐつぐつ煮込んだ紫色の鍋をかき回している訳じゃない。そうと分かっていても魔女、というだけで一般人とは違うものを想像してしまうのは沙樹だけではないだろう。それだけに目の前の小さな家が平凡で素朴なのがあまりに予想外で、沙樹は言葉を失っていた。
(本当に、此処が?)
「沙樹?着いたよ。」
「あ、はい。すいません・・・。」
のろのろとアスタの手を借りながら馬の背から降りた。
沙樹はアスタに手綱を引いてもらい、マライヌ島現領主ウェンから教えて貰った森の魔女の下へ来ていた。シンイチの日記にあった様に先に手紙を出して訪問の許可を貰うべきかと思ったけれど、今の東の魔女はそんなこと気にしないらしい。その為、日記を借りた翌日に心の準備をする暇も無いまま此処を訪れる事となったのだ。
アスタには昨夜一通りの事を説明している。沙樹が魔女の下へ話を聞きに行きたいと言えば、彼は二つ返事で同伴を了承してくれた。だからだろう。心の準備が出来ていなくても、沙樹が迷わずこの場所にくる決心がついたのは。
マライヌ島はそれ程大きな島ではない。島のあちこちに木々はあるが、島の東に位置する森といえば一箇所しかなかった。森自体も小さく、二時間もあれば馬で縦断する事が可能な程だ。魔女と呼ばれてはいても世俗から外れて暮らしている訳ではないから、森の入口から十分もすれば辿り着く。小屋と言って良い程小さな木製の家は壁が蔓で覆われる事も無く、庭も玄関も小奇麗に保たれていた。庭には四・五匹の鶏と小さな畑。どこからどう見ても田舎にある小さな家。心許ない表情をしていた沙樹にウェンが教えてくれた通り、魔女と言っても特別な存在ではないようだ。
呆気に取られて家を眺めている沙樹を急かす事も無く、隣に居てくれたアスタに視線を移す。それに気づいた彼は黙って頷いてくれた。それに背中を押されて、沙樹は庭を覆っている柵の扉を開けて中へ進む。まだ初春だというのに庭には小さくて白い花が沢山咲いていた。多数の細い花弁を持つタンポポが白くなったような花だ。ひとつひとつが沙樹の知っているタンポポよりも小さく、まるでそこだけ雪が積もっているみたいに見える。冬と春が混在しているような不思議な光景だった。
玄関扉は上部が丸い曲線を描いていて、ここも壁や屋根と同じように木製。取っ手部分は鉄だろうか。ベルもノッカーも無いので、沙樹は閉じられた扉の前で大きな声をかけた。
「すいません。どなたかいらっしゃいますか?」
しばらく待っても返事が無いので、今度は扉をノックした後に再度声をかけてみる。その時、バタバタとした足音が近付いて来たかと思うと女性の声がした。
「はーい。今開けまーす。」
期待と不安で沙樹の胸が大きく鼓動する。同時にキィと手前にドアが引かれた。
薄暗い室内から現れたのは赤茶色の目をした三十代ぐらいの女性。落ち着いた若草色のワンピースにオフホワイトのエプロン、膝下までの皮ブーツ。腰ほどまで伸びた黒髪は高い位置でお団子にして纏めている。
初めて魔女を見た沙樹が最初に抱いた感想は、小さな子供が居そうな家事に忙しい主婦、だった。