第三話 1.封筒(1)
白い砂浜と夕暮れに染まるオレンジ色の海。それがピノーシャ・ノイエに着いて最初に見た光景だった。
「不思議。北上している筈なのにこちらの方が暖かいなんて。」
その日の夕方に定期便がハマナ島の港に到着し、荷物を抱えた乗客達が次々と下船していく。その列に並びながら、肌に触れる春らしい空気に沙樹の頬が緩む。てっきりユフィリルよりも寒いと思っていたのに、既に雪も無く、白い砂浜なんてまるで南の島のような光景だ。
彼女の隣にいたアスタも初めて感じる島国の潮風に目を細めた。
「難しいことは分からないけど、気流の関係だって聞いたことがある。この時期、この辺りは暖かい季節風が吹くそうだよ。」
「へぇ。」
そんなことを話している内に自分達の番が来て、沙樹から港へ繋がれた渡し板の上を歩く。先に下りてアスタを待っていると、彼は世話になった船員達と挨拶を交わしていた。
(不思議。)
再びその三文字が頭に浮かぶ。船に乗る時はいなかった彼が、降りる時には共にいる。それは不思議で、嬉しいこと。今の自分は一人じゃないのだ。嬉しくて嬉しくて、まだその先は考えたくない。
「お待たせ。行こうか。」
「はい。」
最後に二人で船員に別れを告げて港町に入る。日暮れ前なので外を歩いている人はそれ程多くは無いが、ハマナ島は観光客の多い島だけあって宿屋を探すのは苦労しなさそうだ。まず、二人は宿を取ってから今後の旅程を話し合うことにした。二人とも地図を持ってないため、路面店で購入してから手近な宿屋へ向かう。
まだ観光シーズンではない為か、一番最初に訪れた宿屋で空室はすぐに見つかった。二人で一室を取り、ドアを開けると――
(え・・・・えぇ~~~~~!!!)
アスタはさっさと室内に足を踏み入れ荷物を下ろしているが、沙樹は入り口で固まってしまった。二人で一室を取ったことは問題ではない。ただ、その部屋に置かれていたのは大きなベッドが一つだけ。
(も、もしかして・・・ダブルベッド?)
おかしな事ではない。二人は恋人同士なのだから。けれど初めて見る代物に思わず唖然としてしまう。
「サキ?入らないのか?」
「あ、す、すいません!!」
はっと我に返り、慌てて中に入ってドアを閉める。だが、その顔は真っ赤だ。二人を迎えてくれた宿屋の女主人に二人の関係を“そう”だと見られても嫌な訳ではないのだが、どうにもこうにも恥ずかしい。夕食は宿屋で取るつもりだったが、後で顔を合わせても平静でいられるだろうか。
「どうした?真っ赤だ。」
「あ・・・」
くすっと小さく笑ったアスタの手が沙樹の頬に伸びる。そこをひと撫ですると、次に顔にかかっていた黒髪を耳にかける。まるで耳まで真っ赤になっていることを確かめるように。
「ごめん。一緒は嫌だった?」
「あ、いえ、違います。けどちょと・・・」
「ちょっと?」
「・・・・・照れくさかっただけです。」
彼の顔をまともに見れず、下を向いたまま消え入るような声で呟けば、再びアスタの口から小さな笑いが漏れる。
「・・可愛いな。」
「え?」
呟きが聞こえなくて顔を上げれば、どことなくアスタも顔が赤い。目が合うと彼はすっと離れてドアのへ向かう。
「いや、なんでもない。荷物を置いて楽にしてて。お茶を貰ってくるよ。」
「はい。ありがとうございます。」
パタンとドアの閉まる音を聞いて、沙樹の口から長い溜め息が出る。持っていた荷物を床に下ろして、部屋の窓を開けた。そこから見るのは日が落ちてオレンジから紫へと色を変えていく空と海。そして低い屋根の多い町並み。
(やっと此処まで来たんだ。)
そう思うと感慨深い。元の世界では海外旅行なんてしたことのなかった自分が、まさか三カ国に渡って旅をするなんて。
(アンバでピノーシャ・ノイエの事を知って、ユフィリルで此処への手形を貰って・・・)
「あっ。」
無意識の内に小さく声を発し、窓から離れて自分の荷物の下へ行く。絞り口を開けて取り出したのは懐紙に包まれた封筒。茶色のそれに入った手形はもうしばらくは必要ない。船を下りて街に入る際に役人に見せたので、一先ず入国手続きは済んでいる。ユフィリルの役場が作ったリストと照らし合わせるだけのもので、実に拍子抜けだったが。
そしてもう一つの白い封筒。これが先ほど唐突に思い出したものだ。
――ピノーシャ・ノイエへ無事入国したら開けて下さい。
これをくれた少女の言いつけを守り、これまで開封はしなかった。けれどもういいだろう。そう思って手をかけるが、一瞬考えて止めた。
(・・アスタさんが帰ってきてから開けよう。)
そう思った時だ。ドア越しに彼の声がしたのは。
「サキ。」
「あ、はい!」
部屋のドアを開ければ両手にカップを持ったアスタが立ってた。
「お帰りなさい。」
「・・ただいま。」
思わず出た沙樹の迎えの言葉にアスタが微笑む。こんなやり取りは本当に久しぶりで、沙樹の胸がトクンと音を立てる。きっとアスタも同じなのだろう。
窓際に置かれた備え付けの四角いテーブルに座り、手渡されたのは温かい花茶。独特の香りがするもので、ジャスミンティーに近い様な初めて口にする味だった。
「あの、これ・・・」
互いに一息ついてから、沙樹は白い封筒を差し出した。アスタはそれを受け取り、表書きに何もかかれていない事を確認してから裏を返す。そして驚きに目を見開いた。
「これ、どうしたんだ?」
「えっと。ユフィリルで航行手形を取るのに協力してくれた方がいるんです。その人に、ピノーシャ・ノイエについてから開封するように、と貰いました。」
「・・・これをくれた人の名前を聞いてもいい?」
「エマ、という女の子です。」
沙樹がヴァンディス殿下と共に旅をした際、一時的に彼が幼少時に過ごしたと言う別邸に身を寄せた事があった。エマはそのお屋敷で働いていたメイドの一人で、沙樹の世話を色々としてくれた年下の可愛らしい少女だ。
じっと何かを考えるように封筒を見つめていたアスタだったが、その答えを聞くと封筒を彼女に返した。
「・・・そう。今開けるのか?」
「はい。開ける前に一度お話をしてからと思っていたので。」
「うん。ありがとう。」
アスタに見守られながら、蜜蝋でしっかりと封がされたその端を切り取り丁寧に開けていく。中に入ってのは便箋が一枚だけ。それをアスタにも見えるようにテーブルの上に広げた。
「“困ったことがあれば此方を訪ねてください。エマ”。」
お手本のようなくせのない綺麗な文字で書かれていたのはたった一文。そしてその下に手書きの地図があった。
「これ、どこの地図でしょう?」
「リューシュ、というのが街の名前みたいだな。ちょっと待って。」
沙樹が便箋を避けると、買ったばかりの地図をアスタがテーブルの上に広げる。港町から地図を辿れば、リューシュというのは隣街だった。
「近いね。ここに行く馬車があれば多分二時間ぐらいで着く距離だよ。明日は此処へ?」
「・・・そうですね。何の情報も持っていないので、せっかくだから此処を訪ねてみようと思います。」
沙樹はちらりとアスタの様子を伺う。その視線に気づいたアスタは首を傾げた。
「どうした?」
「あの・・、聞かないんですね。」
「ん?何を?」
「この封筒をくれた人のこと。」
訊かれたのは彼女の名前だけ。普通は情報の出所が信頼できるものなのかどうか、気になるものではなのだろうか。そう思ったのだが、沙樹の言葉にアスタは苦笑した。
「サキはイディア家を知っている?」
「・・・イディア家?」
聞いた事があるような・・・やっぱり無いような。記憶を辿るがいまいちピンと来ない。表情からそれが読み取れたんだろう、「やっぱりね」とアスタが言った。
「あの・・・」
「イディア家はユフィリルの古参の貴族だよ。騎士団の、俺のように一時期でも国の中枢に関わったことのあるものなら良く知っている名だ。」
ユフィリルには黒の契約者という一般には知られていない存在がいる。彼らは王族を守る影であり、騎士団とは違い公に出来ない事柄を処理する者達だ。当然隊長だったアスタも彼らの存在を知っている。イディア家が優秀なアムベガルドを排出している名家だという事も。だがアスタでさえ知るのはごく一部だけで、アムベガルドの事を全て把握しているのは王族のみだと言う。共に仕事をしたことのあるアムベガルド達に教えられた名も恐らく本名ではないだろう。
彼女が持っていた白い封筒に押された家紋。そこにイディア家を現す鳶とレライという植物の蔓が刻まれているのには心底驚いた。ユフィリルの国民でさえない彼女が何故アムベガルドとの繋がりを持っているのか、と。けれど貰った相手の名前を聞いた時、彼女はイディアの名を口にしなかった。だから気づいたのだ。沙樹は相手がアムベガルドだと知らない。恐らくその存在自体知らぬ筈だ。けれどアムベガルドの事は当然国家機密。それ故、アスタも古参の貴族と説明するに留めた。
騎士と同じくユフィリル王家に忠誠を誓ったイディア家。その娘が渡した情報ならば、騎士であるアスタが疑う余地などない。
「イディア家が君を陥れるようなことをする筈はないと知っているからね。その封筒に書かれた場所に行っても問題ないと思うよ。」
「そうでしたか。」
ほっと沙樹が息をつく。一先ず旅の目標が出来たことで安心出来たのだろう。
「話もひと段落したし、夕食でも食べに行こうか。」
「はい。ピノーシャ・ノイエって何が美味しいんでしょう?」
「島国だからね。海産物かな。」
「そっか。楽しみですね。」
地図と封筒をしまい、部屋を出る。食堂へ向かうと美味しそうな匂いがして、二人は自然と顔を見合わせて笑った。