第二話 3.船(4)
遠くから活気のある声が聞こえてくる。温かいベッドの中で目を覚ました沙樹は、部屋の中が真っ暗なことに気づいて再び目を閉じた。だが昨夜は十分な睡眠が取れたようで、二度寝するには頭の中に残っている眠気の量が足りない。
(あぁ、そっか。昨日は昼寝しちゃったから・・・)
船に乗ってアスタと再会して、彼と話す内に泣き疲れて一度眠ってしまったのだ。それならいつもより早い時間に目が覚めるのも分かる。
(そうだ。ここ船の中なんだ。)
気づいて沙樹は瞼を開いた。物資を輸送することが主な目的であるこの船に設けられた客室には窓がない。例え昼間でもランプを点けなければならない程、部屋の中は真っ暗なのだ。まだ夜明け前なのかと勘違いしていたが、とっくに寝過ごしている可能性もある。
慌てて体を起こそうとして、けれどそれに失敗した。この感覚には覚えがある。
「・・・アスタさん。」
沙樹のお腹に彼の太い腕ががっちりと巻きついている。後ろから抱きしめられて眠っていたのだ。以前ローティーの宿で迎えた朝と同じ光景に沙樹は笑みを零した。あの日と今は状況がよく似ているけれど、沙樹の心は全く違う。あの日は別れの日だった。けれど今は堂々とこの人の傍に居ることが出来る。
再び耳を掠める人々の声。目を覚ました時に聞こえてきたのは船員達が働く物音だったのだ。沙樹は手を伸ばして床に置いたままの自分のバッグから時計を取り出した。
この世界の時間はかなり曖昧で、一日は二十時間に分けられている。けれど一分、二分という間隔は無く、あるのは一時間とその半分だけ。つまり沙樹の感覚で言えば三十分毎にしか区切られていないのだ。一時、一時半、二時、二時半というように。だからと言って特別生活に不便を感じることは無かった。この世界で生活していると時間なんて店を開け閉めする目安ぐらいでしかないのだから。
ゼンマイ仕掛けの時計は早朝四時を指している。起きるのに早過ぎるという時間ではない。沙樹はアスタを起こさないよう、ゆっくり拘束から抜け出そうと体を捻る。だが、それは再び失敗に終わった。
「あれ?」
「んー・・」
アスタの腕が更にきつく腰を抱いたのだ。別れて再会して、そして本当の意味で想いが通じた昨日。ならば夜に体を重ねるのも当然で、二人は裸のままベッドの中に居る。正直、今この状況はいろいろな意味で良くない。
眠りから覚醒し始めているアスタは沙樹の肩口に額を押し付けてきた。
「あ、あの手を・・」
「んー。なんで?」
「なんでって・・。」
どきまぎしながら首を後ろに捻れば、ようやく瞼を開いたアスタと目が合った。その目元は優しく緩められ、耳元に柔らかな声で名前を囁かれる。
「サキ。」
「・・はい。おはようございます。」
「うん。おはよう。」
(あぁ。またこの顔だ。)
沙樹の好きな、屈託のないアスタの笑顔。自分と居る時にこの笑顔を向けられれば、たちまち虜になってしまうのはいつも自分の方で。そんなことを考えている間に腕の中でくるりと体の向きを変えられ、彼の唇が降ってくる。
「んっ。」
「何考えてた?」
「べ・・別に何も。」
「そう?」
短くそれだけ言うと再び唇が重なる。次第に彼の大きな手が沙樹の腰を撫で始めた。当然触れるのは素肌。かさついた大きな手が体の曲線を辿れば、昨夜の官能を呼び覚まされて体の奥がじわりと熱くなる。
このままではマズイと沙樹は慌てて口を開いた。
「あ、あああの・・!!」
「ん?」
「朝、朝ですよ!」
「うん。朝だね。」
「いや、だから、その・・・」
あっさりとそう言われ、沙樹は彼の手を止める言葉を失った。アスタもまだ夜だと勘違いしているのではと思ったが、どうやらこの行動はそれ故ではないらしい。
それにしたって、朝ならば近くの客室に泊まっている他の人達も起き出してくるだろう。船員だってこの傍を通るかもしれない。客が少ない時期なので、アスタがとったこの部屋の両隣は空室だが、甲板からの物音が聞こえてくることから考えても防音が優れているとは言い難い。
要は周囲に人がいるこの状況で、朝からこんな事をするのは恥ずかしいのだ。けれどそんな彼女の葛藤に気付いているのかいないのか、アスタはあっさり沙樹に覆いかぶさり笑みを深める。
「まだ早いから、もうちょっと。」
「~~~~!!!」
唇が重なったのが会話終了の合図。舌を絡められ、肌を撫でられ、次第に抵抗する気もなくなって沙樹はアスタを受け入れた。恥ずかしいけれど心の奥では分かっているのだ。今この状況に自分が幸せを感じていることを。
* * *
航行二日目となる今日も晴天に恵まれ、沙樹は気持ちの良い潮風に吹かれていた。初春の北海なので風は冷たいが、見渡す限りの空と海の青はそれが気にならない程の開放感と爽やかさで心を弾ませてくれる。寒さを感じないのは傍にいるアスタのお陰かもしれないけれど。
二人は今、朝食前に一度甲板に出て船の外の景色を楽しんでいた。周りには同じ事を考えた客がちらほらいて、他には船員が忙しそうに働いている。沙樹達から三メートル程離れた所では父と娘の親子が手を繋いでいた。
実はこの世界で手を繋いで歩く、というのは親子関係のみで、恋人同士には繋ぐ風習がない。だからと言って離れて立っている訳でもなくて――
(こ、これはこれで、恥ずかしいんですけど・・・)
今、アスタの腕は沙樹の腰に回されていた。日本人の沙樹としては肩や腰に手を置いて外を歩く方が慣れない習慣だ。アスタがぴったりと寄り添っているお陰で冷たい風が吹いても寒くない、という訳なのである。
「あ、あの、アスタさん・・・」
「・・・。」
「アスタさん?」
恥ずかしいので腕を離してもらおうと声をかけるが、アスタは返事をしてくれない。体が密着しているこの距離で聞こえていない筈がないのに。そう思って眺めていた海から左隣にいる彼へ視線を移せば、当の本人はにっこりと微笑んでこちらを見ていた。
(ま、まさか・・・・)
嫌な予感がしながらも、沙樹はそれを確かめるべくもう一度口を開く。
「アスタさん。」
「・・・・。」
「・・・・・・・・アスタ。」
「何?」
(やっぱり~~~~~~!!!)
昨日のやり取りをすっかり忘れていた。余程「さん」付けで呼ばれるのが嫌らしい。希望通りに呼んでくれなければ返事をしないなんて子供っぽい抗議方法だが、その意図に気づいて顔を赤くする自分を見下ろす彼の顔は実に満足そうだ。こんな子供っぽい一面があるなんて知らなかった。けれどこんな姿を見せるのが自分だけだと思うとやっぱり嬉しい――なんて思ってしまう自分は相当彼にゾッコンだと思う。
(なんだか夢みたい・・・)
別れを選んで、逃げ出して。それでも彼は追いかけてきてくれた。それ所か異世界なんて非常識なことを言い出しても、その言葉を信じて受け入れてくれた。最後まで傍に居てくれると言ってくれた。
――でも、忘れられない。・・・一生。
一生、と言ったあの言葉は嘘じゃない。エドにはそんな未来のこと分からない、と言われたけれどそれでも気持ちが変わらない自信があった。この先元の世界に戻る方法が見つかって二度と会うことが無くなったとしても、シンガーはアスタのことをずっとずっと想うだろう。それは予想や予感じゃなくて確信。きっともうこれ程強く想う相手は現れない。
「風が出てきたね。中に入ろうか。」
「・・はい。」
結局腕を離して欲しいと言えないまま、共に船内へと移動する。そしてふと思った。手を繋ぎたい、と言ったら彼はどんな顔をするのだろう、と。