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第二話 3.船(3)

 世界、と言われて思い浮かぶのは何か。

 アスタが育ったユフィリルでは世界は三つに分かれているとされている。一つ目は自分たちが暮らしている『地上』。二つ目は神々が住む『天上』。そして最後は死者の魂が向かう地上と天上の『狭間』。生きている人間が存在する世界は『地上』のみで、今自分の腕の中に居る彼女が言う『この世界ではない場所』が一体何を示しているのか、アスタには見当もつかなかった。

 まさか彼女が幽霊とか、そんなオチではないだろう。こうして抱きしめていれば彼女の体温も鼓動も伝わってくる。この温かさが死者である筈がない。

 このまま彼女がフッと消えてしまいそうな錯覚に囚われ、両腕に力を込めた。彼女の首筋に顔をうずめる。以前項につけた自分の痕はすっかり消えてしまっていて、その白い肌にもう一度吸い付きたい衝動に駆られる。だが駄目だ。有無を言わさず彼女を抱いた所でまた同じことの繰り返し。自分は彼女と話をする為にここまで追いかけてきたのだから。


「・・続けて。」

「はい。」


 沙樹もアスタと同じように目の前の肩に額を預けた。

 不安はある。本当のことを話して気味悪がられたらどうしよう。信じてもらえず罵られたらどうしよう。嘘つきと軽蔑されたらどうしよう。けれどもう、隠すことは出来ない。迎える結果がどうであろうと前に進むしかない。

 閉じる瞼に一瞬力を込め、震える唇を何とか開く。


「私の生まれた世界は、地球という名前です。」

「・・チ、キュウ?」

「はい。私の国の言葉で言えば地球。世界の共通語ならばアース。私の故郷である日本という国は、今私達がいるこの世界のどこを探してもありません。」

「・・無いってどういう事?」

「世界そのものが違うからです。」


 アスタは抱きしめていた腕を緩めて彼女の顔を見る。その表情は不安に翳っているが、嘘を言っているようには思えない。


「俺は・・・学者じゃないし、剣しか知らないような人間だから難しい話は分からない。けど、一つ訊かせてくれ。サキは・・・、“此処”じゃないその場所へ、帰るのか?」


 揺れる黒い瞳に映るのは寂しさと悲しさと、そして覚悟。沙樹はアスタから目を逸らさず、無言で頷いた。ここだけは逃げてはいけないと分かっていた。


「二年前、気づいたらこの世界に居たんです。どうやって此処に来たのか、どうして来たのか、それは分かりません。ある日突然目を覚ましたらアンバの教会のベッドで眠っていて・・・・。だから、正直どうやって帰ったらいいのかも分かりません。」

「・・・。帰る方法を探す為に旅を?」

「はい・・・。」


 ようやく分かった。彼女が自分との別れを選んだ理由。今は良くとも、彼女はいつか自分の世界へ帰る。どれだけ望もうと、どれだけ長い時間を過ごそうと、その別れはいつか必ず訪れる。共に生きた時間が多い程、気持ちが大きい程、別れは辛く悲しいだろう。ならばいっそのこと‥。立場が逆なら自分だってそう考えるかもしれない。


(途方も無い話だ。)


 “彼女は実は神でした。だから天上へ帰ります。”

 そう言われているのと同じことだ。世界が違う、というのはそれ程絶対的な違いがある。


「そこに、君の大切な人が居るの?」

「・・・はい。私、孤児なので家族はいませんが。お世話になった同僚や仲の良い友達が、います。思い出の場所も大切なものも、全てあそこにあるんです。」

「そうか・・。」


 行くな、とは言えなかった。戦争で何もかもを失ったアスタを再び立ち上がらせてくれたのは尊敬する上官や共に戦った仲間達。彼女にとってのそれらがその世界にあると言うのなら、引き止める事など出来はしない。今自分が生きているのは彼らのお陰。それは何物にも換えがたい宝物。彼女にもそれは必要なのだ。


「サキ。」

「はい。」

「君が何者だって構わないって、言ったよね?」

「・・・はい。」

「その気持ちは今でも変わってないよ。いつか君は故郷へ帰って、・・俺の前から完全にいなくなってしまうのかもしれない。」

「・・・・。」

「でも、それならそれでいい。」

「え?」


「許される限りで構わない。君の傍にいさせてくれないか?」


 震える。指先が、唇が、そして胸の一番奥が。それは大きな波となって沙樹の中のしがらみを攫っていく。

 アスタが受け入れてくれた。出自のままならない、足もとのおぼつかないような居場所にいる自分を。そして許してくれた。今まで多くのことを黙って嘘をついていた事を。こんなことがあっていいのだろうか。それとも自分は夢を見ているのだろうか。叶う筈のない願いがぎゅっと詰まった夢を。

 沙樹の意思とは関係のない所で黒い瞳からぽろぽろと涙が零れていく。アスタの親指がそれを優しく拭った。それでも涙は止まらなくて、頭の片隅で最近自分は泣き過ぎだと他人事のように思う。


(こんなに幸せな夢なら、きっと覚めても後悔しないわ。)


 沙樹は自分からアスタの胸に縋りついた。少しでもこの時間が長く続くようにと。それを受け止め、アスタはそっと彼女の耳元に囁く。


「俺を、君がこの世界で別れを告げる最後の男にしてくれ。」


 嬉しくて嬉しくて言葉にならず、沙樹はただ何度も頷いた。しばらく黙って抱き合って、やがて沙樹の意識は優しい闇へと沈んでいった。






 自分の腕の中で眠る愛しい女性の髪を撫でる。黒く真っ直ぐで艶やかな黒髪。アスタは穏やかな気持ちで一束掬い上げた髪に口付けを落とした。


(違う世界、か・・・。)


 正直、彼女の話の半分も理解出来ていないと思う。それでも自分にとって重要なことは分かっているつもりだ。彼女が故郷へ帰りたいと思っていること。その為に二人の時間には限りがあるという事。


(それでも良いと、言ったのは俺だ。)


 本当はそれで良い筈が無い。本音はずっと未来永劫一緒に居たい。彼女を愛し、家族を持って共に暮らしたい。けれどその為には彼女自身が幸せでなくては。時間が限られているというのなら、別れの時まで彼女を精一杯大切にしよう。この時間だけは誰にも邪魔させない。

 泣き疲れてしまった沙樹をベッドの上に横たえ、シーツをかける。その横に自分も滑り込んだ。少しの時間も惜しいと言う様にそのまま彼女を抱きしめる。

 未来を思って別れを選んできた彼女にとって、追いかけてきた自分の存在は随分酷だったろう。それでも今は共に居たい。隣にいて彼女の笑う顔を見ていたい。彼女が泣く時には傍に居たい。


 例え違う世界の人間だったとしても、彼女はアスタのただ一人だから。





 * * *


(夢じゃなかった・・・)


 目の前でフルーツの皮を剥いているアスタを見てそう思う。今彼が手にしているのはライチを拳大にしたような見た目で、皮は柔らかいので手だけで剥くことが出来る。船に乗る前にコニーが渡してくれた手土産の一つだ。

 皮を剥いて実を頬張る。そのなんてことのない仕草を見て、アスタが確かに今此処にいるのだと妙に納得してしまった。自分の日常の中に彼が居る光景は、まるでイルの街に居た頃に戻ったかのよう。


「食べる?甘いよ。」


 アスタが皮から取り出した白い実を差し出す。それを手で受け取ろうとしたのに、何故か首を横に振られてしまった。


「アスタさん?」

「口開けて。」

「えっ・・・!!」


 カーッと熱くなる顔。彼の意図が分かって、驚きで開いたままの口にアスタがそっと実を差し入れる。そして人差し指で押し込んだ。唇に触れる少しかさついた指の感触。


「んっ!?」

「おいしい?」

「ア、アスタさん!」


 くっくっとアスタが笑う。まるで悪戯に成功した少年のように。あまりに楽しそうな様子に、沙樹はそれ以上彼を責めることが出来ない。こうしているとまるで今まで苦しみも悲しみも、何もかもが嘘のようだ。

 アスタは実の最後の一個も沙樹に食べさせると、満足したのか果汁の着いた指を手元の布で拭いた。その仕草をじっと見ていた時、ふと思い出した顔があった。


「そう言えば、私知らなかったんですけど・・」

「ん?」

「アスタさんが<大地の獅子ペディカ・ム・ダイアン>って本当ですか?」


 すると隣でアスタは眉を下げ、困ったように笑う。


「まいったな。その二つ名を賜ったのは確かだけど、俺には過ぎた名だよ。」


 ユフィリルの国民達には英雄として伝えられている二つ名。先の戦争で多くの功績を挙げ、長く続いた争いを終息に導いた騎士の一人。初めて聞いた時はアスタのように穏やかな気性の人には似合わないと思ったけれど、自分も目にした事のある多くの古傷が残る彼の体を思えばおかしな事ではない。

 英雄だと言われるほどの戦績を重ねてきた長い長い時間、彼がどれだけ傷つき、涙を流してきたのか沙樹は知らない。けれど、自分を英雄だとは決して言わないその性格があまりに彼らしくて、どこかほっとした。どれだけの人が<大地の獅子>と呼ぼうと、アスタは自分の知っているアスタなのだ。


「ならもしかして、カイルと知り合いですか?」

「カイルって・・、第十騎士団のカイルの事?」


 その疑問に頷き返す。こんな所で繋がりがあるとは思っていなかったのだろう。アスタは目を丸くした。


「何でサキがカイルを知ってるんだ?」


 アンバからユフィリルに入国する際、沙樹はヴァンディス王子に出会った。その護衛として同行していたのがカイルだったのだ。三十前半だが整った顔立ちからあまり年齢を感じさせない騎士で、伸ばした金髪と飴色の目が印象的な人だった。明るく笑顔の多い彼を思い出して、自然と表情が緩む。


「アンバの国境で偶然会って、それからしばらくお世話になったんです。」

「・・・・・俺の事何か言ってた訳か。」


 沙樹とは反対にアスタはこめかみを押さえて苦い顔をした。その理由を聞かずとも察し、言い辛そうに彼の顔を窺いながら言う。


「その・・、カイルの好きな人だってことは聞きました。」

「~~~!!」


 なんとも言い返せず、アスタは頭を抱えた。

 同僚のカイルは当然男性だ。そのカイルのかつての想い人がアスタ。つまり彼は男色家なのである。だからと言ってアスタが彼を嫌悪していた訳ではない。彼は自分をどん底から引き上げてくれた。未来を諦めるなと言ってくれた。大切な仲間、そして旧友なのだ。彼がかつて自分を好きだと言ってくれた事も今では良い思い出だし、恥ずべきことではないと思っている。

 だがしかし、それを自分が惚れた女性に知られるというのは、いささか複雑な心境だ。


「その、誤解しないで欲しいんだけど・・・」


 まともに彼女の顔を見れず、ちらりとアスタは沙樹を窺う。そして消え入るような声で呟いた。


「俺は別に、男に興味はないよ・・・?」


 すると途端に沙樹がふっと噴出した。手のひらで口を覆い、肩まで震わせている。余程情けない顔をしていたのだろうか。誤解されていないか結構本気で心配しただけに、彼女の反応は心外だった。ちょっと不貞腐れた顔でアスタは口を尖らせる。


「・・なんで笑うかな。」

「す、すいません・・。大丈夫です。カイルの片想いだったって事は聞いてます。」

「なんだ・・・」


 笑いの発作は中々収まらないようで、今だくすくすを笑う沙樹を見てアスタの中に悪戯心が芽生える。


「そんなに笑うことないじゃないか。」

「あ、ごめんなさい。そんなつもりは・・・」

「なんだか妬けるな。」

「え?」


 アスタは徐に空いている彼女の手を取った。突然触れた体温に、沙樹は驚いて顔を上げる。


「カイルは呼びすてなのに、どうして俺はさん付けなの。」

「アスタさ・・・」


 アスタは手に取った彼女の指にそっと口付けた。熱く柔らかい感触。目の前で自分の手に唇で触れられ、沙樹の顔は耳まで真っ赤だ。

 焦って彼の名前を呼べば先程までの情けない表情など掻き消けした、真剣まなざしに心臓が大きな音を立てる。

 アスタはそのまま何も言わずにじっと彼女を見つめた。居た堪れなくなって先に口を開いたのは沙樹の方だ。


「あ、あの・・・」

「アスタって呼んでみて。」

「で、でも」

「サキはカイルの方がいい?」

「そんな事・・」

「じゃあ呼んで。」


 声も言葉も優しいのに、有無を言わせない迫力がある。そんな彼から目を話すことが出来ないまま、沙樹は無意識に彼に握られたままの手に力を込めた。


「・・・・。アスタ・・」

「うん。」


 呼べば途端に彼がデレッと顔を崩す。目を細めて笑うとアスタの印象は本当に幼くなる。表裏など無いこの笑顔が、沙樹は好きだ。


「サキ。」

「・・・はい。」

「もっと。」


 ねだられて思わず笑ってしまう。小さな子供の様だなんて言ったらまた機嫌を損ねてしまうだろうれど、今のアスタは自分よりも年下の青年のようだ。いつもはしっかりとした大人である筈の彼が見せる、甘えた表情。


「アスタ・・んっ。」


 愛しい人に嬉しそうに恥ずかしそうに名前を呼ばれ、我慢できなくなったアスタが唇を塞ぐ。数分前に食べていた甘くさわやかな果実の味が彼からもして恥ずかしい。自分とは違う肉厚の舌が咥内を撫でていく。その度に沙樹の体の芯が喜びで震えた。唇から、舌から彼の熱が伝わり、自分の中心がぐずぐずに溶けていく。それは優しくて苦しくて、そして――


(甘い・・)

 

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