第一話 1.縁(2)
ローティーの街で働き始めて三週間が過ぎた頃、今日もシンガーはレイナと共に開店準備をしていた。レイナは食材の仕入れと料理の仕込み。シンガーは主に店内の掃除である。ぬるま湯を入れたバケツで雑巾を絞り、テーブルを拭いていると開店にはまだ早い時間なのに店のドアが開いた。それに気付いたレイナが店の奥から顔を出す。
「おや、お客さんかい?悪いんだけどまだ店は開けてないよ。」
そんな声にもかまわずその客はコートに積もった雪を払い、店内に足を踏み入れた。被っていたフードを外すと、そこから出てきた顔は二十代半ばの若い男性。タレ目がちな甘いマスクに長めの髪は亜麻色。さぞかし妙齢の女性達にもてるだろう容姿にレイナは眉根を寄せる。だが、一方で彼を見たシンガーは驚きで言葉を失っていた。
「よっ、久しぶり。」
「・・・エド?」
呟きはシンガーからだ。レイナが後ろを振り返ると、いつも大人しい印象の彼女が珍しく動揺していた。
「本当にエド?」
「やだなぁ。たった一年会ってないだけで俺の顔忘れたの?」
ホラ、と女性慣れした仕草でエドはシンガーの手を取り、自分の頬に当てる。そして彼女が驚きで油断している隙にその手の平に唇を落とした。その感触に我に返ったシンガーが慌てて手を引き抜く。
「ちょっと!!」
「あはははっ。思い出した?」
そうだ。エドはこういう人だった。シンガーが目尻を吊り上げると、彼は反対に嬉しそうに笑った。
ユフィリルの南にはアンバという商業主義の大国がある。元々シンガーはアンバから旅を続けているのだが、旅に関して初心者の自分に色々と教えながらユフィリルの国境まで同伴してくれたのが、エドと彼の二人の仲間だった。その後アンバで旅芸人をしている彼らとは国境で別れたのだが、何故エド一人がここにいるのだろう。
「久しぶり。元気そうで何よりだけど、突然過ぎてびっくりしたわ。まさかこの国で会えるなんて思ってもみなかった。ダルトとビビも一緒なの?」
「いや、二人はアンバにいるよ。ビビが身重だからね。ダルトは実家を継いだんだ。」
「身重って・・・、妊娠?」
「そ。今年の春に結婚してね。それを機に二人は旅を止めて実家の近くで暮らしてる。」
「そうだったの!?おめでとう!!」
エドは元々ダルト・ビビの三人でアンバを旅しながらお金を稼ぐ芸人だった。今も彼が背負っている弦楽器と兄ダルトの打楽器の演奏に合わせてダンサーのビビが踊るスタイルで様々なイベントなどで活躍していたのだ。だが仲間の二人は定住し、エドは一人で旅を続けているらしい。
一緒にアンバを旅している間お世話になった二人の結婚にシンガーは顔を綻ばせた。そんな彼女にエドも笑みを返す。彼がシンガーの知り合いだと分かったからか、レイナは何も言わずにまた店奥に戻っていた。きっと二人の再会に気を使ってくれたのだろう。
「この街に着いてから黒髪の歌手がいるって噂を聞いて来たんだ。まさかと思ったけど、本当にシンガーでびっくりしたよ。」
長い間逗留したイルの街を出てから約三ヶ月間ずっと一人で旅をしてきたシンガーにとって、かつての仲間との再会は言葉にし難いほど嬉しい出来事だった。
「いやぁ、ホント。良い拾いモンしたよ。」
今日も大勢の客で賑わう自分の店を見渡しながら、レイナは嬉しそうに呟いた。
「しかし、すごい人気だね、彼。」
「だろう。」
カウンター席に座り、レイナと話をしているのは常連客の一人、近所に住む五十歳の男性だ。赤毛を顎の辺りで切りそろえ、女性らしく肉付きの良い体に快活な笑みを見せるレイナは元々男性の目を惹く容姿をしている。ここが女性向けの酒場でなければ男性客ももっと多かっただろう。そういう意味でライバルの少ない穴場として常連客の彼はこの店をよく訪れていた。
二人の目線の先にいるのは今夜も歌を披露しているシンガーだが、それだけではない。いつもと違い店内に響くのは彼女の歌声とガッシュという弦楽器の音色。今日昼にシンガーを訪ねてきたエドが伴奏を買って出たのだ。シンガーよりも長い間芸人として客相手に演奏してきた彼は女心をよく分かっている、とレイナは思う。整った容姿と素晴らしい演奏。加えて時折笑顔と共に女性客に目線を送れば、彼女たちはうっとりと表情を蕩けさせた。
レイナにとってはたまたま雇った歌手とおまけでくっついてきた弦楽器奏者。この二人が今、店の客足と売上を多いに伸ばしている。エドのお陰で女性客が更に増える事だろう。
(あぁ、本当に春までなのが惜しいよねぇ。)
頭の中でそろばんを弾きながら、そう一人ごちるレイナだった。
雪の多いこの街では酒場の営業時間はそれほど長くない。酒場サイハナも他と同様日が変わると共に閉店となる。シンガーはレイナへ挨拶をしてからエドと共に店を出た。そのまま近くの宿屋へ向かう。ここはレイナが紹介してくれた宿屋で、その口添えのお陰で破格の安さで泊まらせてもらっている。長く逗留する事もあり、シンガーにとってとても助かる話だ。その代わり部屋の掃除は自分で行う事になっているが、そのくらいなら申し分ない。しばらくシンガーと共に働く事にしたエドはちゃっかり彼女にお願いし、同じ宿に部屋を用意してもらっていた。こういう人当たりの良さと要領の良さは相変わらずだとシンガーは思う。
夕食は店で済ませているので後は風呂に入って眠るだけ。部屋の前で別れようとしたシンガーにエドは一つ提案をした。
「ね、せっかく久しぶりに会ったんだから、今日はもうちょっと話しない?」
シンガーもダルトとビビの事など聞きたいことは沢山ある。一つ頷き、自分の部屋へと彼を招いた。
暖炉に火を入れて部屋を暖め、一階のキッチンから貰ってきたお湯でお茶を淹れる。カップの一つを備え付けの丸テーブルの向かいに座るエドに渡し、自分は反対側の椅子に腰を下ろした。
「エドはいつユフィリルに入国したの?」
「二人が結婚した後だよ。今年の夏。」
夏か、と思わず自分の思い出と照らし合わせる。だがすぐにそれを打ち消し、段々と大きくなっていく暖炉の火に目を移した。
「まさかまだシンガーがこの国にいるとは思わなかったけどね。」
その言葉にシンガーの肩がぴくりと僅かに揺れた。
元々の予定では半年もあればユフィリルを抜け、ピノーシャ・ノイエへ渡っている予定だった。シンガーがエド達と別れたのは去年の夏の終わり。実に一年半近く経過している。その理由は簡単。すぐに旅立たず、長く世話になっていた街があるのだ。けれどシンガーはその事を口にしなかった。
「エドはこの先どうするの?」
「さぁ、どうしようかなぁ。」
元々アテのある旅じゃないんだ、と彼は言う。
アンバにいる頃から各地を回って演奏を披露してきた。仲間の二人が旅から抜けた事もあって、今まで行ったことのない土地に自由気ままに足を伸ばそうと思ったのだ。
「シンガーと一緒にピノーシャ・ノイエへ渡ってもいいかもね。」
「・・え?」
シンガーの目が驚きで瞬いた。エドはその表情を吟味するようにじっくりと観察する。そこに賛成の色が見られないのが残念だった。
「ダメ?」
問う言葉には先程までとは違い、甘いものが混じる。男性特有の色気が今のエドにはあった。それを感じてシンガーが僅かに体を離し、背もたれへ体を預ける。
「どうして俺が旅先にユフィリルを選んだと思う?」
「・・・この国が、アンバの同盟国だから?」
元々シンガーが大陸から島国であるピノーシャ・ノイエへ渡るのには二つの選択肢があった。一つはバハール国から、そしてもう一つが此処ユフィリル国から船で渡る航路だ。どちらも旅路としては似たような距離だったが、この国は出発地アンバの同盟国だった為、旅人が受け入れられやすいという事情があった。
無難なその回答にエドはゆっくりと首を横に振る。そして彼女を見つめたまま口を開いた。
「君を追いかけてきた。」
「・・・・・。」
色素の薄い彼の眼差しが真剣な色を湛えてシンガーを射抜く。それに何も応える事が出来ず、シンガーは俯いた。再会が嬉しくない訳じゃない。けれど――
「なぁんてね、ウ・ソ。」
「・・・え?」
彼のおどけた口調にシンガーはポカンと口を開けた。その表情が可笑しかったのか、エドはクスクスと笑う。そして最後に目を細めて口の端を上げた。
「キュンとしちゃった?」
「〜〜〜〜〜!!馬鹿!!」
「あははははっ。」
真っ赤な顔でエドを睨みつけても彼を喜ばせるだけで効果はない。からかわれているのだと分かって悔しい思いをするシンガーだが、男女の色事に関しては完全にエドの方が上手だ。
「まぁまぁ、そう怒らないでよ。どちらにせよ春が来るまではお互い此処にいるしかないんだし、仲良くしようよ、ね?俺としてはせめて山を越えてヌーベルまでは同行したいんだ。」
「・・・分かった。」
むっつりと答える彼女の膨らんだ頬にツンッと指を押し当てて空気抜くと、本当に嬉しそうな顔でエドは「おやすみ」と言って部屋を出た。
その後部屋に残されたシンガーは突付かれた頬に手を当てながら、だからこういう人なんだってば、と見事動揺した自分に言い聞かせ、がっくりと肩を落とすのだった。