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第二話 3.船(1)

 早朝の港は活気に溢れていた。まだ夜の明けぬ内から漁に出るのは“此方”でも同じのようで、今は仕事を終えて港に戻ってきた多くの漁船が並んでいる。まだ雪の残る早春だというのに、半袖姿の沢山の男達が漁船から大きな籠に入った今日の成果を運び出している。飛び交う漁師達の怒号に近い声、迎える女性達の笑い声、カモメのような海鳥の鳴き声、そして止むことのない波の音。様々な声や音が入り混じり、ここは賑やかだ。

 そんな港の風景を横目にシンガーは見送りに来てくれたビル夫妻と挨拶を交わしていた。


「すいません。わざわざ見送りなんて。」

「何言っているの!水臭いじゃない。やっぱり旅立ちには見送る人がいないとね。」


 元々面倒見がいい人なのだろう。そう言ってコニーは色々と手土産を渡してくれた。手で皮を剥けるフルーツや瓶に入った飲み物、流石女性と言うべきか。ハンドクリームまである。早朝という事もあって息子のテスはまだ自宅で寝ているようだが、こうして誰かに見送ってもらえるとは思っていなかった分とても嬉しい。


「あぁ。そろそろ船が出るな。」


 ビルの言葉に後ろの帆船を振り返れば、船員が黄色い旗を振っていた。あれが出発間近の合図だ。先程まで積荷を運んでいていた男性達がぞろぞろと船に乗り込んでいく。大きな帆が張られ、波止場に埋められた太い丸太と船を繋いでいるロープが解かれ始めていた。港で別れを交わしていた乗客達も各々荷物を持って船へ向っている。


「ではここで。結局最後まで皆さんのご好意に甘えてしまって。ありがとうございました。」

「そんなこと気にしなくていいのよ。またヌーベルに寄ることがあったら父さん達の所に顔を出してあげて。喜ぶわ。」

「えぇ。是非。」

「一人旅は大変だろうけど気をつけて。」

「ありがとうございます。それじゃ。」


 コニーとビルにそれぞれ頭を下げ、手を振って別れた。同じ船に乗る乗客の列に並び、渡し板の前で乗船切符と通行手形を船員に見せる。それが無事に終われば後は船に乗るだけ。使い古された幅五メートル程の木製の渡し板はギシギシ鳴って少し怖かったけれど、乗ってしまえば大型の船だけあって安定感があった。

 空は快晴。早春の海風は肌に冷たいけれど、我慢できないほどじゃない。早々に客室へ向かう乗客の姿もあったが、シンガーは出航まで船の甲板に居ることに決めた。船に乗るのは勿論初めて。忙しそうに動き回っている船員達の邪魔にならない端を見つけ、そこから港に居た時よりも随分と高くなった目線でヌーベルの町を見渡した。山々に囲まれた小さな港町。遠くに望む山はまだ白く、それを越えれば今までシンガーが旅をしてきた場所へ繋がっている筈だ。

 シンガーが最も長く滞在した国。沢山の人達との出会った国。そして大切な人を見つけた国。


(さようなら。)


 心の中でそっと呟く。誰にも届かないけれど、それでいい。誰かに向けた言葉ではなく、ユフィリルで多くの時間を過ごした自分自身への別れの言葉だから。

 寂しさはある。不安もある。けれどもう、自分は船に乗ってしまった。自らで選んだ未来へ続く船の上に。ここを降りることはもう許されない。他の誰でもない、自分が許さない。


(さようなら・・・。)


 私が初めて愛した人の、大切な故郷くに






「さて。そろそろ戻らなきゃな。」


 船員が黄色い旗を下ろした姿を見て、ビルがそう零した。そろそろ起きてくるだろう息子や姪っ子を思い浮かべ、隣でコニーが苦笑する。


「起きてシンガーさんがいないって気づいたら、あの子達煩いでしょうね。」

「特にシルヴィエがな。」


 シルヴィエの『構いたがり』にシンガーが嫌な顔を見せず付き合ってくれたおかげで、すっかり姪っ子は彼女に懐いていた。たった二日間の出来事だったが、きっと大泣きするだろう。それを考えると少し家に戻るのが億劫に感じる。

 せっかく港まで来たのだから、何か新鮮な魚介でも買って帰ろうか。そんな話をしていると、さっと自分達の前を横切る影があった。大柄とはいえない身長の、大きな荷物を持った男性。その後姿に見覚がある。そう思った瞬間、ビルは口を開いていた。


「おい、お前・・・」






 ピ――――ッ


 高い笛の音が響く。出発の笛だ。蒸気船だったなら汽笛が鳴らされる所だが、この船は風で進む帆船。笛は甲板中央にいる若い船員が吹いている木製の小さなホイッスルだった。これが最初の笛。この合図でまずは係留のロープが全て回収され、渡し板が外される。だがその時、船員のざわついた声がシンガーの下にまで届いた。何事かと周囲の声に耳を済ませれば、どうやら二・三人ギリギリで乗り込んできた客がいたらしい。


(電車の飛び込み乗車みたい。)


 『飛び込み乗車はお止めください』という電車のアナウンスを思い出して、思わずくすりと笑ってしまう。

 しばらくすると無事に渡し板が外され、船を港に繋ぐものが無くなった。そして二度目の笛。


 ピ――――ッ


 今度は船内の船員達がいっせいに持ち場につく。訓練された軍人の演習を見ているような動きに、ついシンガーも見入ってしまう。それは周囲の乗客も同様のようで、一種のパフォーマンスを楽しむ観客と化していた。


 ピ――――――――――ッ


 最も長く鳴らされた最後の笛。すると掛け声と共にゆっくりと船が動いた。手すりに両手をつき下を覗くと、波止場ぎりぎりの所で筋肉隆々の男性達が船を押していた。人力!?と驚いたが、エンジンが無ければ確かに最初は人力で動かすしかない。同時に船上の船員達は帆と繋がったロープを引き、帆が上手く風を受けるよう調整している。風を利用しているがそれを動かすのは皆人の力なのだと改めて関心してしまった。

 本当にゆっくりとした速度だが、徐々に港から船が離れていく。船を見送る人々の中にビルとコニーを見つけてシンガーは手を振った。コニーは大きく、ビルは軽く手を上げて振り返してくれる。


「――――!!」

「?」


 その時、何故か自分が呼ばれた気がして、シンガーは二人を見た。だが、ビル夫妻は手を振っているが口は開いていない。気のせいだろうか。不思議に思った所で、シンガーは人ごみの中に陽を浴びて柔らかく輝く亜麻色の髪を見つけた。


「エド・・・。」


 港ギリギリの所にエドが立ってこちらに向かって大きく手を振っている。先程の声は彼だ。見慣れた旅姿の彼がシンガーの名前を呼んでいた。目が合うと、エドの表情が変わる。少し遠いこの距離からでもはっきりと分かる。彼は微笑んでいた。

 どうしてここに。そう思ったが、今更そんなこと聞く必要なんてない。あんなふうに別れてしまったのに、彼が自分の為に此処まで来てくれた。それが泣きそうなくらい嬉しかった。


「・・・あり・・がとう。」


 本当は彼に聞こえるくらい大きな声で叫びたかったけど、震えて声量が出なかった。目の端から涙が零れ、それを見たエドは一度頷いてくれた。分かってる。そう言っているかのように。


「ありがとう。エド。」


 離れていく港。次々に零れる涙。いつの間にかエドの姿もビルとコニーの姿も見えなくなって、シンガーは上着の袖で涙を拭った。先程まで港を眺めていた乗客達も、段々と客室へと移動を始めている。人々の足音が少なくなってきて、ようやくシンガーは顔を上げた。もう少しこの風景を眺めていたいけれど、一先ず荷物を部屋に置こうと、甲板に下ろしていたバッグを肩にかける。


「船は初めて?」


 後ろから掛けられた声に、シンガーは一瞬怯んだ。声の主は男性だから船員だろうか。歌い手は客商売とは言え、仕事中でもないのに知らない異性に声を掛けられるのは得意ではない。それに今は同伴者のいない一人旅。自分の身は自分で守らなければ。コニーから受け取った手土産の入った麻袋を胸元でぎゅっと握り、硬い表情で振り返る。


「あの、何か――・・・」


 何か用ですか?そう言おうとしたシンガーの口が止まった。振り返った先に見えたのは目を疑う光景。

 声を掛けてきたのは間違いなく男性だった。雪国では珍しく短く刈ったブラウンの髪。皮の上着から覗いている首や腕は太く、良く見れば小さな古傷が残っている。使い古された皮のブーツ。厚手の綿のパンツは大きなポケットが幾つもついていて機能性が良さそうだ。大きな背嚢を背負った彼は、少し困った顔で微笑んでいた。

 彼の名前を知っている。けれどそれが中々口から出てこない。信じられないからだ。彼が今、目の前に居ることが。ユフィリルを出たこの船に同乗していることが。

 一歩一歩彼が自分に近づいてくる。でも、そんな筈は無い。だって彼はユフィリルの騎士だ。だからユフィリルから離れられる訳が無いのに。


「ど、して・・・」


 カラカラに乾いた喉から搾り出された声は、やはり掠れていて上手く言葉にならない。シンガーは金縛りにあったようにそこから動けなかった。

 やがて目の前に立った彼のブラウンの目に映った自分の姿に、あの夜を思い出して再び涙が滲む。そうしてやっと彼の名前が、シンガーの口から零れ出た。


「アスタさん・・・・」


 両目から涙を零すシンガーに名前を呼ばれ、アスタはゆっくりとした動作でその両腕を彼女へと伸ばした。

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