第二話 2.髪飾り(3)
* * *
翌日。シンガーは出国の手続きと船出の準備に追われる事となった。
コニーの夫、第十二騎士団で働いているビルにまず案内されたのはヌーベルの町の中心にある大きな役所だ。赤茶のレンガで造られた長方形の建物で、入口と出口のドアが別々に取り付けられていた。左端の白く塗られたドアから入り、右端の緑色のドアから出る。不思議なつくりに見えるが、人の出入りの多い建物は大抵入口と出口が別に造られているらしい。王城は違うけど、と零したビルの言葉にやはりこの人もユフィリルの騎士なのだと改めて実感した。
この時期ピノーシャ・ノイエへの便に乗る一般客が少ないのは本当のようで、出国手続きの為に待つ人の列はそれ程多くなかった。日本のように順番待ちの番号札なんてないので、付き添いのビルには待合室のベンチに座ってもらい、自分は列の後方に並ぶ。
待っている間は何気なく自分の前に並んでいる人々を眺めていた。大抵が仕事で国外へ出る男性で、中には親子連れもいる。ヤクルのように実家がピノーシャ・ノイエなのかもしれない。
(うーん。緊張してきた・・。)
国をまたいで旅をするのは初めてのことではない。アンバとユフィリルは地続きなので、関所を通ってこの国へ入国した。その時は幸運にもユフィリルのヴァンディス王子と一緒だったので楽に関所の手続きをパスすることが出来たが、今回は当然そうもいかない。シンガーははっきりとした身分がこの世界にはない。だから、もし役所の人間に怪しまれたらそこでお終いなのだ。
シンガーはバッグから大切にしまっていた懐紙を取り出した。中にあるのは厚手の紙が一枚と封筒が二つ。厚手の紙はアンバの教会でお世話になった神父がくれた紹介状。茶色い封筒の中に入っているのはヴァンディス王子の兄、ブレディス王子が用意してくれた身分の保証書と通行手形。そしてピノーシャ・ノイエへ着くまで開けるなと言われている白い封筒。この白い封筒だけは再度懐紙に包み、バッグの中へしまった。
保証書と通行手形は王室の人間が用意してくれたものだ。書類に不備などあるわけがないし、無事に手続きは済むだろう。けれど全てが終わるまでやはり心配は尽きない。
(大丈夫、大丈夫。)
自分に言い聞かせ、深呼吸する。十五分程経ってやっと自分の番が回ってきた時には、大分不安は薄れていた。
「お疲れ様。」
「・・何をしたわけでもないんですけど、なんだか疲れました。」
「ははっ。そんな顔してるよ。」
シンガーの心配は杞憂に終わり、通行手形に無事ヌーベルの町の受領印が押された。後は料金を払って買った乗船切符と共に明日、船へ持って行けばいいだけだ。
緑色のドアを出た二人は役所のある通りから一本東へ移動し、様々な店が立ち並ぶ商店街へと足を運んでいた。三日も船の中に閉じ込められるのだから色々入用になる筈だ。
「船の中にはベッドのある個室もあるし、料理も乗船の料金に含まれてる。それでも保存食なんかは邪魔にならない程度は持って行った方がいいと思うけど。」
「船酔いの薬なんてあるんですかね?」
「なんだ、島国出身の癖に船酔いすんのか?」
「うーん。あんまり自信がないです。」
取り合えず近くの薬屋に寄って貰う。薬は高価なのであまり多くは買えないが、船酔い以外にも胃薬や頭痛の薬なんかも一緒に購入した。丸薬はあまりなく、殆どが粉薬なのが難点だ。昔かかったユフィリルの医者にも粉薬を飲むのがヘタで呆れられた事があるぐらいだから。
他にも店に立ち寄って長期保存が利くジャーキーやドライフルーツ、干し芋などを購入した。最低限の着替えやタオル等は元々持っているから、これ以上は不要だろう。
(本当は地図も欲しいけど・・・)
ちらりと隣のビルを伺う。ピノーシャ・ノイエ出身だと言っているのに、地図を欲しがるのはやはり矛盾しているだろうか。ここで無理して買うよりは、向こうに着いてから買った方がいいかもしれない。船が着くハマナ島は観光客が多いというから、それ向けの安い地図も当然売っているだろう。
(やっぱり地図は向こうで買おう。後は・・・)
「ビルさん。」
「ん?」
背の高いビルを見上げる。彼のワインレッドの髪に日光が当たり、鮮やかな赤色に空の青が映える。シンガーは眩しげに目を細めた。
「一つ、お願いがあるのですが。」
その言葉にビルは一度頷き、二人は北の方角へ歩き出した。
視界の半分を埋める柔らかい水色の空。そして真っ青な海。自分の知っている海よりも遥かに潮の匂いが強い。ヌーベルの海岸に砂浜は少なく、その殆どが岩場だ。シンガーは人気の少ない岩場に一人腰を下ろしていた。
買い物を終え、ビルに頼んで案内してもらったのがこの海岸だった。彼は先に家に帰っている。最初はシンガーが一人になることに渋っていたが、ヤクルも、彼の長男のヤロも船で働いているので昨夜からお世話になっている彼らの家は此処から近い。明るいうちに必ず帰ると約束して、彼とは先程別れたのだ。荷物は彼が持って帰ってくれたので、シンガーはほぼ手ぶらに近い。
日本に居た頃旅行なんて行ったことのないシンガーは東京の海しか知らない。その為海岸も埋め立てられて人工的に造られたものしか見たことがなかった。ここも漁港だけあって全てが自然のままではないが、ごつごつした岩場と時折姿見せる小さな甲殻類や海鳥を見るのは中々新鮮だ。
(いよいよ明日、か。)
明日、昼前にこの港から船に乗る。既に港に停泊して準備が進められている大きな帆船がシンガーの目にも見えた。白い帆と船体に大きく描かれた魚の絵。魚は一見イルカのような形をしているが、よく見れば背ビレがなく尾ビレが異様に長い。あれは海神の使いだと信じられている実在する深海魚で、船旅が無事であるよう祈りを込めて描かれるのだという。周囲の小さな船にもきっと同じ絵が描かれているのだろう。シンガーがいるのは漁港からは百メートル以上離れている岩場なので、それを確かめることは難しいけれど。
(長かったなぁ・・・)
ユフィリルに入国してから一年半以上。“此処”では一月が約四十日あるので地球の感覚ならば二年以上になる。歩みは遅いが、それでも前には進んでいるのだ。様々な人と出会っては別れ、最後はいつも一人だけれど。
(だめだめ。弱気になったら。)
ビルに頼んで海岸に来たのは何も船や海を見たかったからではない。一人になりたかったから。一人で決意を固めたかった。前を向きたかった。
周囲を見渡し、誰も居ない事を確かめてからシンガーは息を吸った。
“空に向かって拳を掲げろ 手の中のその夢は
汗にまみれたその夢は 太陽もかすむ眩しい光
空に向かって想いを叫べ 我慢なんかしたってどうせ
お前の頭ん中はいつも あの日の夢で一杯だから“
口から出たのは日本のロックバンドの一曲。この世界にロックやポップスに分類される音楽はないので、いつもバラードやジャズ、それに近い曲調の歌ばかりを披露していた。歌詞も綺麗な言葉を並べた、差し障りのないものだけを選んできた。けれど実際は様々なジャンルの曲が好きだ。この曲も昔からお気に入りの一曲だった。
“大荷物持って何処へ行く お前の武器はこんなもんか
銃もナイフも捨てちまえ 前を歩く偉人達は
いつだって拳一つで 壁を砕いて生きてきた
戦車が怖いか 少年少女 厳つい見た目に騙されるな
腹の中が空っぽならば くだらねぇ鉄クズなんだ
餓えても愚鈍に前へ行く お前等の方が強いだろう”
唄っている内に自然に表情が緩んでくる。軽快なテンポに心が弾んでいるのは、開放感のあるこの場所のせいもあるのかもしれない。
“空に向かって拳を掲げろ 握りしめたその夢は
涙で濡れたその夢は 太陽も避ける熱の塊
空に向かって想いを叫べ 我慢に何の意味もない
誰の頭ん中だって きれいなもんが詰まってんだから“
自転車をこぎながらこの曲を口ずさむのが好きだったなぁ、と思い出す。船の上で歌ってみても気持ちがいいかもしれない。視界の先に空と海しかない光景は壮大だろう。
“膝をつくな 少年少女
いくら地面を探してみたって 舗装路なんかどこにもない
お前が歩いたその軌跡が 続く奴らの道になったら
そりゃあ格好いいだろう
だけど無人の荒れた野で たった一人で泣いたって
その背中は格好いいさ それを無駄だと笑うのは
手の中が空っぽな奴だ 胸の中が空っぽな奴だ
空に向かって拳を掲げろ 手の中のその夢は
汗にまみれたその夢は 太陽もかすむ眩しい光
空に向かって想いを叫べ 我慢なんかしたってどうせ
お前の頭ん中はいつも あの日の夢で一杯だから
空に向かって拳を掲げろ 邪魔する奴がいるのなら
そのまま殴っちまえばいい 太陽が笑って許してくれる
空に向かって想いを叫べ 喉が枯れる程喚き倒して
遠くの星に届いたら ざまあみろと笑ってやれ“
「ちょっと、すっきりした。」
歌詞の通りに叫び倒せば、もっとすっきりするのだろうけど。シンガーは立ち上がりながら後ろを振り返った。その先にはヌーベルの町並みが見える。流石にあまり大声を出して周囲に聞こえてしまうのは不味い。今はこれくらいで十分だ。
(よし。)
大きく深呼吸して海を見つめる。この先にずっと求めてきたものがきっとある。それに向かってただ前に進めばいい。
そうして懐かしい場所に、懐かしい顔に会いに自分は戻るのだ。