第二話 1.雪解け(2)
* * *
夕暮れに差し掛かる時刻でなければ燃料を使うランプは使用しない。冬の長い北方のこの地域では窓が小さく造られているので、朝とは言え外からの光だけに照らされた店内は薄暗かった。酒場であるこの店サイハナは夜の方が余程明るい。
早朝の店内を見渡しながら、店主であるレイナは一人ぽつりと呟いた。
「あーあ。行っちゃったねぇ・・。」
冬の間この店の歌姫として働いてくれたシンガーが再び旅へ出たのはつい二時間前のこと。何度も何度も頭を下げる彼女をレイナとエドは姿が見えなくなるまで店の前で見送った。エドが何も言わずにここに残ったのは意外だったが、言葉にすることはしなかった。二人の問題に首を突っ込むほどおっせっかいでは無いつもりだ。
(不思議な子だったねぇ。)
冬の間雇っていたのものの、レイナはシンガーの身辺について詳しいことは知らない。女性一人で旅をしている時点で色々と訳ありなのは分かっていたし、彼女自身訊かれて簡単にしゃべるような性格でもなかった。けれど、疑問を持ったのは別れの瞬間。頭を下げる、という行為は一般市民の間ではあまり見られない。貴族や王族など地位のある者たちの間では当たり前の所作だが、いくらレイナが雇い主であったとしても感謝の言葉と共に頭を下げるのは余りに大袈裟なのだ。客に対してだけなら丁寧な子だな、としか思わなかったけれど、今思うと良家の出だったのかもしれない。
(ま、今更だけどさ。)
自分に言い聞かせて長い息を吐く。
この店で働いたこともエドと再会したことも、そしてフランと出会い別れた事も。全て良い思い出として残ればいい。
そんなことを感慨深く思っていた所で、店の床に伸びた人影に気づいた。入口を見れば、そこに男性らしいシルエットが立っている。逆光で見た目はよく分からないが一度上を見上げたので、どうやら看板の文字を確認しているようだ。
(朝っぱらから何の用だろうねぇ。)
今日は酒の配達日ではなかった筈だ。客ならこんな時間に訪れる訳がないし、手紙の配達ならさっさと中に入ってくるだろう。不思議に思ったが初春とは言え外は寒い。わざわざドアを開けてやるのも億劫で、レイナはその人物がどうするのかカウンターの椅子に座って眺めることにした。
その人物は明かりの無い店内にレイナがいることにようやく気づいたようで、ゆっくりとドアを開けて顔を覗かせる。
「すいません。こちらはサイハナ、ですよね?」
「あぁ、そうだよ。ちなみに酒場だから今は営業時間外なんだけどね。」
丁寧な物腰と穏やかな声。無造作に伸びたブラウンの髪は短く、厚手の皮のコートを羽織っている。歳は二十後半、といった所だろうか。柔和な目元には幼さが見えるが、纏う空気はそれなりの経験を積んだ者が持つそれだ。腰元に剣の柄が見えてレイナは目を丸くした。
「なんだ。あんた騎士かい?」
「えぇ。第十二騎士団の者です。」
「へー。で、その騎士さんがうちに何の用だい?巡回にしちゃあ随分早いね。」
席から立ち中に入るよう促すと、彼はお邪魔します、と言って足を踏み入れた。初めて見る顔だがまさかこの歳で新人ってことはあるまい。さして広くも無い店内を見渡す彼の視線が気になり、レイナは片眉を上げた。
「酒場なんて珍しくも無いだろう。」
「あ、すいません。」
「いや。別に構いやしないけどさ。」
どこか落ち着かない様子の彼に、椅子を勧めるが断られた。どうやら時間を気にしているらしい。
「あの、お尋ねしたいのですが。」
「あぁ、なんだい?」
「ここに、シンガーという女性が働いていると聞いて来たのですが。」
思わずお茶を用意しようとしていた手が止まる。手元から視線を上げ、カウンターの前に立つ騎士をレイナは改めてじっと見た。
「・・シンガーの知り合いかい?」
「えぇ。この時間はお店にいないんですか?」
レイナの口からシンガーの名を聞いて、心なしかほっとした顔を見せている二十代後半の若い男。どこにでもいるような、ブラウンの髪と目。傷の多い手には硬い剣ダコも出来てきて、真面目なのだろうと推測できる。
(まさか・・・)
一発殴ってやりたいと思っていた男が彼なのだろうか。でもそれなら何故シンガーに会いに来るのだろう。彼女は共にいることが出来ない関係だと言っていた。それを承知の一夜だったのだと。てっきり身分違いか不倫相手なのかと思っていたけれど、自分が予想していた男とは大分違う。遊びで女に手を出すような男には見えない。
(いやいや、決め付けるのはまだ早いか。)
レイナはじっと男の一挙一動を観察しながら、口を開いた。
「あの子ならここを辞めたよ。」
「・・辞めた?」
「あぁ。」
大地を思わせる深いブラウンの目が驚きと共に見開かれる。けれどそれはすぐに感情の色を変えた。驚きから後悔、そして痛みへと。そこには大切な者を失った自分への責めと悲しみがあった。レイナもよく知る感情だ。
(この人・・、シンガーが好き、なのか?)
少なくともレイナにはそう見えた。後悔は彼女の旅立ちに間に合わなかった、と思っているからなのでは?痛みは大切に思う彼女を失ったことへの悲しみなのでは?
「辞めて、彼女はどこに?」
はっとレイナは息を呑む。自分を見返す彼の瞳には意志の強さが現れていて、レイナが真実を隠す必要などどこにもなかった。
「ヌーベルへ行くと言っていたよ。そろそろ隣町への山道が解禁される頃だろう?その商隊に着いて行くと。」
「・・ヌーベルへの商隊の出発は今日でしたよね。」
「あぁ・・」
まさか追いかける気なのだろうか。礼を言って足早に店を出ようとする彼を、レイナはとっさに呼び止めた。
「待ちなよ。」
「・・はい。」
「あんた、第十二の騎士なんだろ?ヌーベルは管轄外だ。あんたは此処から離れられないんじゃないのかい?」
目を見張った後何を思ったのか、彼はほんの少し口元を緩めて笑う。
「何笑ってんだい。」
「いえ、すいません。彼女は、随分大切にしてもらっていたんだな、と思って。」
「そりやぁうちの看板娘だったんだ。当然だろう。」
「そうですか。」
どこかほっとした顔をしているのは何故なのだろう。シンガーの幸せをそっと祈るような、そんな表情にレイナの胸が騒いだ。やはりシンガーとこの騎士はただの知り合いではない。少なくともこの騎士は彼女ことを人並み以上に想っている。
「俺は・・・、話がしたいだけです。」
「話?」
「えぇ。今まで自分の想いを押し付けるばかりで彼女の話を聞いてこなかった。だから、彼女が今何を考えているのか。それを知りたいんです。」
あぁ、それは自分にも分かる。シンガーはいつだって、周囲の想いとは裏腹に自分で何でも抱え込もうとする子だった。彼女を大切に想えば想うほど、その重荷を分けて欲しいと周囲は願っているのに。
彼女のことを語る騎士の表情は穏やかで、寂しげだ。
(シンガーあんた、なんで彼の傍にいられないなんて思ったんだい。)
この人ならきっと全てをさらけ出せば共に苦しみ答えを出してくれただろうに。それなのにやっぱり一人で抱え込んで、一人で泣くんだね、あんたは。
「ねぇ、騎士さん。」
「はい。」
「あの子、ピノーシャ・ノイエへ行くんだってさ。」
彼の瞳が驚きで揺れる。
あ~あ。嫌なヤツだったら教えるつもりは無かったのにさ。そう呟いてレイナは笑った。
* * *
あぁ、こいつだ。そう思った瞬間、思わず拳を握り締めていた。
目の前で自分を睨みつけている男を見返す。睨むのも当然。突然見知らぬ男に殴られたらそんな顔にもなるだろう。彼の頬は赤く腫れていて、けれどいきなり頬を殴られても倒れない所は流石騎士。一方こっちは暴力沙汰とは縁の無い旅芸人。久しぶりに人を殴った右拳が痛むが、そこは男の意地で我慢するしかない。
エドは顔に余裕と貼り付けて口の端を上げた。
「アスタって、あんただろ?」
騎士は名指しにされて眉根を寄せた。どうやらビンゴだったようだ。
エドは先程レイナの使いから帰ってきたばかりだった。入れ違いに店から出てきたアスタを見つけ、直感が働いた。そもそも朝っぱらから酒場を訪ねてくる奴は仕事関係か個人的な知り合いしかいないのだ。増してそれが若い男なんて言ったら、一人しか思い当らない。
(こいつがシンガーの・・)
彼女の首筋に赤い花を散らした男。一生忘れられないと彼女に言わせた男。肩を震わせながら泣く彼女の口から漏れたその名前を、あの時エドは聞き逃さなかった。
ヌーベルへ向かう商隊の集合場所は東にある町の出入口。そちらへと足を向ける騎士を、荷物を置いたエドはすぐに追った。そして人気の無い路地まで来た時に声を掛けて殴りつけたのだ。騎士相手に暴力など自殺行為だが、今はそんなこと知ったことではない。後でしょっぴかれようが、アンバに強制帰国させられようが、今はシンガーを抱いて泣かしたこの男を殴ってやることが最優先だった。
「・・君は、シンガーの・・・。」
「へぇ、一度しか顔を合わせてないはずだけど俺のこと覚えてるんだ。領主様のお屋敷には沢山の芸人がいた筈だけど、騎士様は元々記憶力がいいの?それともシンガーに近づく男を忘れらんなかっただけ?」
ぐっとアスタの顔が歪む。図星かよ、とエドは内心毒づいた。現にエドは一度見ただけのアスタの顔なんてほとんど覚えていなかった。けれど彼は直ぐにこちらに気づいた。それは何より彼にとってシンガーが特別な証拠だ。
今思えば屋敷に招かれたあの日、フランと共に現れた彼を見た時からシンガーの様子は明らかにおかしかった。ただの体調不良ではなかったのだ。
婚約者であるフランの葬式の夜に他の女を抱いているなんて不誠実にも程がある。しかも相手の女をアレだけ泣かせて、今更一体何の用だ。
「二つ名の英雄。左遷された元隊長。逆玉を狙って失敗した男。」
「・・・・。」
「ねぇ、どれが本当のアンタなの?」
嫌味たっぷりに言ってみるが、アスタは顔色一つ変えやしない。それがやけに腹立たしかった。まさかシンガーの想い人は二つ名の英雄だとは思いもしなかったが、街の人々から聞く彼の噂は良いもの悪いもの様々で、一見人の良さそうな顔をしたこの騎士の全容を掴むには至らなかった。一生忘れられないとシンガーに言わしめたこの男に、一体どれだけの魅力があるというのだ。
「シンガーにとってアンタって何?」
中傷に対して何も言わない騎士へエドは更に問いかける。一方アスタはその問いに胸が詰まる思いをしていた。
(サキにとって?)
それはこちらが聞きたい。彼女にとって自分は一体何だったのだろう。一時の都合の良い止まり木?慰め合うだけの関係?それとも・・・
黙ったままの自分に亜麻色の長髪を縛った青年が問い詰める。
「じゃあ、アンタにとってシンガーは何?」
(俺にとって・・・)
――君にはまだまだ時間がある。君のただ一人と出会う時間がね。
同時に頭に浮かんだのは月夜の風景と親友の言葉。自然とアスタの頬が緩む。
(あぁ。そうだな。)
自分自身に言い聞かせるように、思い出の中の親友に答えるようにアスタは胸の内で呟いた。そして顔を上げてエドを見返す。
「彼女は俺の、ただ一人だ。」
例えこの先手に入らなくても、それでも彼女だけがアスタのただ一人の女性。全身全霊を掛けて愛を捧げる想い人。これだけは自信を持って言える。
そんなアスタの表情に何を感じ取ったのか、エドは伸びた前髪をくしゃくしゃとかき回し、深い息を吐いた。初春と言えど周囲にはまだ雪が残っており、吐く息は白い。
「あっそ。でもシンガーはこのままアンタと一生会わないつもりだと思うけど?」
レイナの言葉通り、シンガーがヌーベルの港からピノーシャ・ノイエへ渡ればそうなるだろう。アスタはこの国の騎士。ユフィリルを離れることなんて出来ない。エドの言葉を理解したアスタはぎゅっと拳を硬く握った。そして一度だけエドを見て礼を言う。
「ありがとう。」
そのまま彼は踵を返し、街へと戻って行った。その背を見送りながら、エドは空に向かって再び白い息を吐く。
「なーにやってんだか・・」
あのまま彼女の元へ行かせてやれば良かったのかもしれない。そうしてシンガーと再会して話が出来れば、少なくともあのまま別れを迎えるよりもマシだっただろう。それを自分が邪魔をした。つまらない嫉妬と意地で。
(どーすんのかな。あの人。)
街へ戻ったということは少なからずシンガーを追うことはしない筈だ。追った所でシンガーが彼と共にこの街に残るとは思えない。諦めて他の女を捜すのか、時間をかけて彼女を忘れるのか。
(俺はどーすっかなぁ・・・)
エドは一度ヌーベルへと続く山を振り仰いだ。太陽の光を反射している雪山は眩しくて、どうしようもなく溜息が漏れた。