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第一話 4.涙(3)

 朝焼けの始まるほんの少し前。山際の空がうっすらと明るくなっている。沙樹は熱の残った体を起そうとして、けれどそれが上手くいかなくて苦笑した。今だ眠りについているアスタの両腕がシンガーの腰に巻きついているのだ。彼を起こさぬようそっとその拘束から抜け出し、ベッドに座ったまま、裸の自分を隠すこともせずにアスタの寝顔を見下ろした。

 ソファの上で、そしてベッドに移動して、昨夜二人は何度も抱き合った。そうしていつの間にか眠りに落ちていた。沙樹の体には今まで見たことがないくらい赤い花が散らされていて、昨夜の激しさを物語っているようだ。

 沙樹はそっと薄く開いたアスタの唇に自分のものを重ねた。一晩で何度重ねたか分からないそれ。それでも足りない。まだ足りない。けれど――


「アスタさん・・・。」


 穏やかな寝顔。誰よりも愛しい人の。

 イルで彼と別れた後、何度この腕に抱かれる自分を想像しただろう。その温もりを思い出す度、悲しくて寂しくて仕方なかった。離れたくなかったと何度も思った。好きで好きで好きで仕方がなくて。昔の恋とは違う。苦しい別れが沙樹の胸を引き裂いた。けれど選べなかった。彼と共にいる未来を、沙樹は選べなかった。そして、それは今も変わることはない。


「・・・。」


 泣きたくなんてないのに。両目から溢れる生暖かなものが止められない。今しかないから、だから、この言葉だけはちゃんと言わなくてはならないのに。

 手の甲で滲む目を拭う。深呼吸して顔を近づけ、そっとそっとアスタの耳元に“こちら”の言葉で囁いた。


「・・マー・サリ・ハルム・アルウェン。」


 裸のまま音を立てずにベッドから降りた。

 今度こそ再会のない別れが訪れる。





 * * *


 朝。アスタが目を覚まし、真っ先に気づいたのは自分の腕の中が空っぽなこと。

 違和感を覚えて目を開ければ見えるのは乱れたベッドシーツだけ。明け方まで抱いていたシンガーの姿はない。その喪失感に思わず声に出して呟いていた。


「夢だったのか・・・?」


 この腕には確かに彼女を抱いた感触が残っているのに。あの艶やかな黒髪も柔らかな白い肌も、何もかもを覚えているのに。泣き声さえ甘くこの耳に響き、全てが愛しく離れられない。そう思った。だから彼女の柔らかい肌に痕をつけた。他の誰でもない、子爵家で見た彼女の隣に居た若い男のものでもない。これは自分のものだと、自分だけのものだと主張するように。

 けれど彼女はいない。あの日冬を迎えるイルの丘で別れを告げたように、また彼女は自分との別れを選んだのだ。


「サキ。」


 呼んでも誰も応えない。あるのは彼女の温もりが残るシーツだけ。


「サキ・・・。」


 何故なんだ。何故一緒にいてくれない。俺を愛していないのなら、何故この部屋で待っていた。何故――


 彼女は今頃、あの男と共にいるのだろうか。そう思うだけで胸が張り裂けそうだった。これほどまでに誰かを求める心はあの戦争で全て捨ててきたと思ったのに。


――君は大切な人を見つけるといい。


 耳に蘇るのは数年前仲間から告げられた言葉。


 見つけたよ。彼女だと思った。でも駄目だった。やっぱり駄目だった。

 俺には『ただ一人』なんて手に入れられないんだよ、カイル。





 * * *


“ひとりぼっちが笑う 僕は寂しくなんてないよ

 捨ててきたもの達は 拾っても何も語らない


 ひとりぼっちが呟く 僕は寒くなんてないよ

 お日様は大地を照らす その中に僕はいないけれど


 ひとりぼっちが叫ぶ 僕は臆病なんかじゃないよ

 光を選んだこの道が 間違っているはずがない


 ひとりぼっちが立ち止まる ちっとも怖くなんてないよ

 僕が後ろを振り向かないのは 何も持ってないからじゃない


 ひとりぼっちが泣いた 僕は強くなんてないよ

 誰か僕の声に気づいて この手をひいて欲しいんだ“



 確か何かのCMで使われた歌だったと思う。クレイムアニメーションで作られた少年がたった一人で道をひたすら歩く。そんな映像を今もぼんやりと覚えている。曲調は明るいが歌詞は正反対に寂しげで、そのギャップが一時期世間で話題になった曲だった。特に好きな曲だったわけじゃない。けれど頭に残る、そんな一曲。


 一晩過ごした高級宿から、レイナの口聞きで借りている宿に戻ったシンガーは風呂に入り、ぼんやりと部屋でこの歌を口ずさんでいた。まだ時は早朝だ。壁の薄い安宿だが、小さく口ずさんでいるだけなら隣の部屋にも聞こえないだろう。実際聞かれては困るのだ。シンガーはこの曲を“故郷”の言葉で歌っていたから。


 シンガーは旅をしている。その目的は故郷に戻ること。そしてその故郷とは旅の目的地としてエド達に明かしているピノーシャ・ノイエではない。惑星の名前で言えば地球。国の名前なら日本。シンガーが今いるユフィリルがある世界とは別の、所謂異世界だ。本名は沙樹。一年半前まで日本の東京でOLをしていた普通の女。

 何故“ここ”に来てしまったのか、その理由は今でも分からない。けれどここに長く居過ぎた、と思う。日本に、友人や同僚達がいるあの場所に帰りたい。その想いは今でも変わらないけれど、その願いが苦しみに変わるほど愛しい人に沙樹は出会ってしまった。

 この国ユフィリルの騎士、アスタ。年上で優しくて不器用で、胸の内に沢山のものを抱えている彼。何度否定しても最後には彼に惹かれてしまう。傍に居たいと、抱きしめて欲しいと願ってしまう。

 自分は寂しいのだろうか。先程の歌のように。ひとりで平気、大丈夫と言い聞かせてみても、結局は寂しくて悲しくて、誰かに手を引いて欲しいのだろうか。


(違う・・・)


 誰か、じゃ意味がない。彼でなくては駄目なのだ。それを嫌というほどあの温かい腕の中で思い知ったばかりなのに。


 コンコンッ


 控えめに鳴らされたノックにシンガーは思考から意識を戻した。まだ陽が顔を出したばかりの時間だ。誰かが訪ねて来るには大分早い。はい、と返事をすると顔を出したのはエドだった。


「おはよう。」

「おはよう。随分早いのね。」

「・・ちょっといい?」

「うん。どうぞ。」


 下からお茶を貰ってこようか?と聞くと、エドはそれを断った。珍しく笑顔のない彼の様子が気になるが、頷いてシンガーは暖炉前の椅子に腰を下ろす。


「どうして昨夜は店に来なかったんだ?」


 昨夜は一度もレイナの店には顔を出さなかった。だから心配させてしまったのだろう。まさか本当のことを言うことも出来ず、シンガーはエドから目を逸らしたまま答えた。


「ごめん。昨日は唄う気にならなくて。」

「なんかあったのか?」

「え・・あ、昨日はフラン様のお葬式だったでしょ。だから。」


 葬式に呼ばれたのはシンガーだけだったが、レイナとエドには参列することを予め言ってあった。シンガーの心情を察してくれたのか、エドは納得したように頷いた。


「・・あぁ。そっか。悪い。」

「ううん。」


 すると向かいに座っていたエドが立ち上がった。そして彼の手がそっとシンガーの顎を持ち上げる。


「だから、泣いたの?」


 涙はとっくに乾いていたけれど、シンガーの目の周りはうっすらと赤く腫れていて、今朝まで流した涙の跡が残っている。アスタとの逢瀬を思い出したシンガーは咄嗟にその手を振り払い顔を背けた。同時にエドの息を呑む声が耳に届く。


「何・・これ。」

「え?」


 逸らした顔、同時に現れた白い首筋。そこには赤い花が散っている。アスタがシンガーを抱いた印が。


「あっ・・・」


 エドの視線に居た堪れなくなって、その場所を手で隠して立ち上がる。けれど逃げるシンガーよりも追うエドの方が素早い。首筋に当てた手と反対の腕を掴まれ、彼の方を向かされてしまう。


「昨日どこにいた?」

「・・・。」


 何も言わずに目を逸らすシンガーにエドは掴む手に力を込めた。


「泣きたい時は俺を呼べよ。」

「エド・・・」

「俺じゃ、役不足か?」

「・・・ごめん。」


 今しかない、シンガーはそう思った。ずっと言えなかった決意を口にするにはこのタイミングしかない。


「エド。」

「・・・。」

「私・・、やっぱり一人で行こうと思う。」


 あの日、ブレスタ子爵邸でアスタに再会してからずっと考えていたこと。なんとなく、エドが自分に好意を寄せてくれているのは分かっていた。けれどアスタに出会って、いくら目を逸らしても自分の想いが変わらないことを知った。だからこそ、彼には甘えられない。

 エドと再会してヌーベルまで一緒に行きたいと言ってくれた事は本当に嬉しかった。けれど駄目だ。心の深い場所にアスタがいることを自覚してしまった今では、一緒には居られない。

 するとエドが珍しく大きな声で言葉を荒げた。


「何でだよ!?一緒に行くって約束したじゃないか!」

「ごめん。」

「ごめんじゃ分からない。理由を言えよ。」


 彼の亜麻色の目がシンガーを射抜く。彼が真剣に自分と居たいと思ってくれているのなら、誤魔化してばかりでは駄目なのだ。何時までも逃げていては駄目なのだ。

 シンガーは逃げそうになる足を叱咤して、色素の薄い目を見返した。


「私は・・、これ以上、エドに甘えられない。」


 途端にエドの目が苦しげで縋るようなものに変わる。


「・・・俺は、甘えて欲しいよ。」

「エド・・」

「何の為にここまで来たと思ってるんだ。俺は・・、お前の本音が聞きたい。」


 ぐいっと掴まれた腕を引かれ、そのままエドの胸に飛び込む形になる。シンガーは咄嗟に間に腕を入れて彼から離れようとした。けれど反対に彼の両腕は逃がすまいと拘束を強める。


「や・・」

「俺が欲しいのは、お前だよ。シンガー。」


 そう耳元で囁かれ泣きそうになった。甘い甘い彼の拘束。けれどそれに縋ってはいけない。もう自分に嘘はつかないと決めたのだ。


「・・・・好きな人が、・・・いるの。」


 それが昨夜の相手だと、シンガーの首に赤い花をつけた男だと分かったのだろう。エドの腕に一瞬力がこもる。


「・・恋人なのか?」


 シンガーは首を振った。恋人じゃない。過去は過去で今は今だ。例え何度抱かれても、今彼はシンガーのものでは決してない。それでも――


「でも、忘れられない。・・・一生。」

「そんな未来のこと分からないじゃないか!」


 苦しいほど彼の胸に体が押し付けられる。互いの想いの強さなど分からない。エドの想いもシンガーの想いも、強くて激しくて、報われない。


「ごめん、エド。私・・ダメなの。私は、あの人しか欲しくない。あの人しか・・・」

「シンガー・・・。」


 アスタの胸の中で流せなかった涙が次々と零れてくる。エドは逡巡した後ぎゅっと唇を噛んで拘束していた腕を解いた。そして声をかけずにそのまま部屋を出る。

 パタンと扉が閉まる音と同時にシンガーは床に崩れ落ちた。


「アスタさ・ん・・・」



 シンガーは泣いた。アスタのこと、フランのこと、エドのこと。様々な事で頭はぐちゃぐちゃだった。

 漏れる嗚咽を我慢出来ず、肩を震わせ、両手を握りしめて泣いた。


 この世界に来てから、多分一番泣いた。

 


【第一話 登場人物紹介】


・シンガー(25):本名沙樹。異世界に迷い込んだ元OL。酒場で歌い手として生計を立てながら元の世界に戻る為の旅を続けている

・アスタ(28):ユフィリル第十二騎士団の騎士。<大地の獅子>の二つ名を持つ元第八の隊長


・エド(27):アンバ出身の旅芸人。亜麻色の髪と目を持つ二枚目

・レイナ:シンガーとエドが働いている酒場サイハナの女店主

・ディーク=ブレスタ:子爵位を持つローティーの街の領主

・フラン=ブレスタ(17):子爵の一人娘。アスタの婚約者


〈騎士団〉

・クレイ=ハーマン:智将として名を馳せた第十二騎士団隊長

・ドレイク:無遠慮で粗暴な振る舞いの第十二騎士団副隊長

・ビル(27):第十二騎士団の同僚

・カイル(32):<黄金の鷹>の二つ名で有名な金髪美形の騎士。シンガーの恩人でアスタの旧友。

・アーロン(50):<黒狼>で親しまれている第八騎士団の元副隊長。

・グラン=ハンバット:亡きユフィリルの英雄<赤獅子>。第八騎士団元隊長。


【地名】

〈ユフィリル〉

・ユフィリル:大陸北西部に位置し、数年前の戦争の跡を残す、農業とガラス工芸が盛んな小国。

・シブネル:第十二騎士団駐屯地がある北方の町。

・ローティー:タイトン山を挟んだシブネルの隣街。

・ヌーベル:最北端の港街。

・イル:第八騎士団駐屯地がある東部の田舎街。


〈周辺諸国〉

・アンバ:ユフィリルと同盟を結ぶ、大陸南部の商業主義の大国。

・ピノーシャ・ノイエ:大陸北東にある列島

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