第一話 4.涙(2)
※R15です。一部性的な描写が含まれます。
苦手な方は避けてください。
アスタは一枚の便箋を眺めながら夜道を歩いていた。昼間の葬式に参列し、その後子爵邸に戻った際にフランの両親であるブレスタ夫妻から渡されたものだ。夫妻からは過剰なほど礼を言われた。まだ若く、病気と闘う彼女の為に自分は何一つ出来なかったと言うのに。
彼女は強かった。泣き言一つ言わずに自分の運命を受け止め、アスタがいつ会いに行っても微笑んで迎えてくれた。
怖くない筈がないのだ。夫妻が言うように自分の運命を悟っていたのなら尚更。気の利いた言葉をかけることも出来ず、ただ隣に居てやることしか出来なかった。何時まで経っても自分は無力なままだ。そして失われていく。あの戦争の様に。
アスタは可愛らしい文字の並ぶ便箋から顔を上げ、ある建物の前で足を止めた。そこはローティーの街の中でも高級に数えられる四階建ての宿。初めて訪れるその場所に、アスタは一度宿の看板を確認した。
(ここ、か・・・)
フランからアスタに宛てた手紙。そこに書かれていたのは自分の傍に居てくれたことへの感謝と、そして一つのお願い。自分の葬式の夜、この宿に泊まって欲しいと言うものだ。彼女の思い出のある宿なのだろうか。その理由については書かれていないので分からない。けれどもう彼女の為にしてやれることなど他にないのだ。そのささやかなお願いを断る理由などなかった。
清潔感のある白塗りの壁、室内を照らすのは十分な数が揃えられた暖かなランプの光。中に入れば騎士服を着たアスタを恭しく宿の従業員が出迎える。名前を告げて部屋を取ろうとした彼に老齢の従業員がおっとりとした笑顔で「お待ちしておりました」と頭を下げた。
「え?」
「お部屋のご用意は済んでおります。どうぞこちらへ。」
その言葉に眉根を寄せるが、アスタは黙ってついて行った。もしかしてフランからブレスタ夫妻が事前に話を聞いていて、アスタの名前で宿を手配していたのだろうか。
通されたのは四階の端の部屋。雪深いこの時期はこの辺りを訪れる旅行者は少ない。同じ階に並ぶ他の部屋は空室のようだ。細かな彫刻で飾られた木製の扉を開け、従業員は中へ入らずに頭を下げた。
「どうぞ、ごゆっくり。」
「あぁ、ありがとう。」
室内はすでに明かりが灯されている。暖かい空気が流れてくるので暖炉も付いているようだ。客の到着前に準備をしていることからも此処が高級宿であることが知れる。室内に一歩踏み込めば、音もなく扉が閉められた。
(こういう所は落ち着かないな・・)
王城も貴族の邸宅もそして高級宿も。どれも自分には似つかわしくないものばかり。使い古され雑然とした第十二騎士団の屯所の方がずっと居心地がいい。そんな自分に苦笑しつつ上着を脱いでリビングを進む。パチパチと音を立てて燃えている暖炉の薪。落ち着くその音に顔を上げると、アスタははっと息を呑んだ。
大きな暖炉前にあるのは大きなL字型のソファと木製のローテーブル。そこに先客がいた。
こちらに背を向けて座っているその姿は女性のもの。背の中ほどまである長く艶やかな黒髪が紺色の服の上にかかっている。だがアスタの位置から見えるのはそれだけ。顔も肌の色も分からない。けれどアスタにはそれが誰だか一目で分かった。
かつての自分の恋人。そしてブレスタ子爵の屋敷で姿を目にした酒場の歌姫。
(なぜ・・・・・)
何故彼女が此処にいるのだろう。ここはフランに行けと言われた宿だ。フランと彼女が文通していたことは知っている。だからと言って彼女が今夜此処にいる理由にはならない。
なんとか口にした声は情けなくも震えていた。
「・・・サキ。」
じっと暖炉の火を見つめていたその女性が立ち上がって振り返る。呼ばれたシンガーは微笑むことも出来ずにアスタを見つめ返した。
沙樹、とはシンガーの本名だ。“此処”でその名前を知っているのはアスタしかいない。シンガーは彼が真っ先に自分をその名前で呼んでくれた事にひどく胸が締め付けられていた。故郷を思う寂しさと失った恋への切なさと、そしてほんの少しの喜びで。
数ヶ月ぶりに傍で見た彼はひどく疲れた顔をしていた。かつて自分が滞在していたイルの街で毎日のように会っていた頃とは随分印象が違う。それだけ彼にとってフランの存在が大きかったのだろう。シンガーはそう思った。
「どうしてここに・・・」
予想していたアスタからの問いに、シンガーは彼を待っている間心の中で何度も繰り返した答えをそのまま口にした。
「フラン様に頼まれました。」
「フランに?」
「今日だけは自分の代わりにアスタさんの傍にいてあげて欲しいと。」
目の前のアスタの顔が苦しげに歪んだ。
シンガーは一つ嘘を付いた。アスタと同様手紙で頼まれ、此処にいる。宿を指定したのはフラン。部屋を取ったのはシンガーだ。彼女の願いは自分の代わりに彼の傍に居て欲しい、という事。そこにシンガーが制約をつけた。『ずっと傍に』とのフランの頼みを『今日だけ』に変えたのだ。他の誰でもない、自分の為に。
アスタは言葉を探してしばらく目線を落としていたが、やがて静かにソファまで移動した。シンガーが横にずれて空いた席に、疲れたように体を沈める。彼の目は亡羊と燃える暖炉の火に向けられた。
「・・・・俺は、彼女に何もしてやれなかった。」
ぽつりと呟かれた苦悩の言葉に、シンガーは何を言うでもなくただ耳を傾ける。こんな風に力なく自分を責める、後ろ向きな姿は初めて見る。第八騎士団の隊長として、自分の恋人としてイルの街で過ごしていた時の彼からは想像もつかない姿だ。けれどシンガーは驚かなかった。シンガー自身もあの頃とは違う。僅かだがアスタの過去を、<大地の獅子>としての顔を知ってしまったのだ。シンガーの知らない戦争で彼が傷つき、奪ったものへの責務で今も苦しんでいることも。
シンガーは迷いながらも革張りのソファの上に投げ出されていた彼の左手を両手で握った。その温度にアスタは一瞬身を震わせる。そしてまるで怯えた小さな子供のような目でシンガーを見た。
「フラン様はとてもアスタさんに感謝していました。毎日がとても楽しかったと。」
「・・・っ。」
アスタの目から零れ落ちたのは僅かな雫。無意識にそれを拭おうとシンガーが手を伸ばすと、彼はそれを優しく振り払った。握られていた彼の左手もシンガーから離れていく。
「ごめん。でも、これ以上は近づかないでくれ。」
「・・・。」
初めてのアスタからの拒絶。当然だ。二人の間にあった特別な関係は全て過去のこと。もしかしたら、アスタは今夜誰の顔も見たくない心境だったのかもしれない。フランの願いに便乗して浅ましくも会いに来てしまったけれど、亡くなってしまった可愛い元婚約者の事を想って過ごしたかったのかも。
そんな彼の心情にも気づく事が出来なかったのは、きっとシンガーが自分のことしか考えていなかったから。
(最低だ。私・・・)
シンガーは体を離し、唇を噛む。もうこれ以上は此処にいられない。すぐにでも宿を出よう。
しかし腰を浮かせた瞬間、耳に届いた呟きにシンガーは思考を奪われた。
「・・君を、離せなくなる。」
衝動だった。頭の中は空っぽで、そこにはフランのことなど欠片もなくて。腕の中にあるのは懐かしいアスタの体温。
シンガーはソファに座ったままアスタの頭をかき抱くように両腕で包んでいた。
「サキ!」
「いいんです。今日は、フラン様のお願いだから。」
「・・・・サキ。」
シンガーが、いや沙樹が腕の力を抜き、互いに見つめあう。震える指先が彼女の頬を撫で、そして唇が重なった。遠慮がちに触れるアスタの唇。けれど二度、三度と交わす内に段々と深くなり、熱くなり、いつの間にか沙樹の体はソファに沈んでいた。
数ヶ月ぶりのアスタの熱が沙樹を侵食する。その熱に浮かされて頭が上手く働かない。呼吸の合間に吐き出された声は甘く掠れている。
「アスタさ・・」
「サキ。」
名前を呼ばれ、たたそれだけの事で心臓が跳ねた。アスタだけが呼ぶ、アスタだけしか知らない本当の名前。涙で濡れたブラウンの瞳に映っているのは沙樹だけ。自分の黒い瞳に映るのもアスタだけ。それが信じられないほど心地いい。
再び重なる唇。その合間に大きな手が沙樹の服の合間から侵入し、背中を撫でた。それだけでぞくりと背筋に駆け上がる感覚。
今夜もらった手紙の通りに此処に来て、こうなるとは思っていなかった。けれど心のどこかで期待していたのだ。フランの願いを免罪符にして、アスタの傍にいて、抱きしめてもらえることを。
自分は浅ましいと思う。卑怯だと思う。でも隠しようもないこれが“沙樹”の本心なのだ。
「あっ・・」
首の付け根を強く吸われて、思わず声が漏れてしまった。覚えのあるチリッと滲む様な痛み。
(あ、痕が・・・)
きっと自分の項に赤い痕が残っていることだろう。過去恋人であった時、アスタは人目につく場所に痕を残すことはなかった。沙樹は酒場で歌う客商売であるため、その辺りのことは考慮してくれていたのだ。けれど痕をつけたという事は、アスタも今夜のことは後腐れない関係で終わらせるつもりなのだろう。
でもそれで良いのだ。ずきりと痛む胸に言い聞かせる。
「サキ。」
「んぁっ・・」
耳元で囁かれ、耳朶を舐められ、沙樹は体を震わせた。耳は弱いのだ。一瞬のうちに頭が真っ白になり、下腹部が熱く痺れる。いつの間にか沙樹の服は全てソファの下に落ちていて、けれど寒くはなかった。アスタから与えられる刺激と熱で、暖炉の前にいるのが暑いくらいだ。アスタも早く服を脱いでくれたら良いのに、とそんな馬鹿みたいな考えまで浮かぶ。
彼の唇と手のひらが沙樹の体に優しく触れる。鎖骨から降りた唇が胸の頂を捉えた時、体全体に痺れるような刺激が走った。
「ぁあっ!」
どれだけ声を上げてもアスタは止まってくれない。それ所が甘い声に煽られて彼の動きが大胆になっていく。
「サキ、サキ、サキ・・・」
「アスタさん。あ、やぁ、アスタさん!」
好き、と言えない代わりに数え切れないほど名前を呼んだ。
与え続けられる熱に朦朧としながら、ずっと自分が欲しかったのはこの腕なんだと、この腕だけなんだと気づかされた。
本当は気づきたくなんてなかったのに。