第一話 4.涙(1)
シンガーの下に一通の手紙が舞い込んできたのは初春を迎えようとしていたある朝のことだった。店に届いたそれを主のレイナから渡され、シンガーは息を呑む。手に取ったその便箋はいつもこの街の領主の娘フランの手紙に使用されているのと同じだったからだ。約一ヶ月近く途絶えていた彼女からの便りにシンガーは顔を綻ばせた。
「上の部屋に行っといでよ。」
「え?でもまだ掃除の途中で・・」
「いいさ。ずっと待ってたんだろう?」
フランからの手紙の返信がない事をシンガーが心配していたのを知っている。促すようにレイナが一つウィンクすると、シンガーは笑顔でお礼を言った。
「ありがとうございます!」
急ぎ足で二階へ上がる。レイナの店は一階が酒場、二階が私室となっていて、暖炉のあるリビングはシンガーとエドも休憩や食事を取る際に使用させて貰っている。置いてあるモスグリーンのソファに身を沈め、シンガーは早速手紙の封を開けた。
「え・・?」
思わず小さな声が漏れる。便箋に綴られていたのは見慣れたフランの文字ではない。少女独特の小さく曲線の丸まった文字ではなく、流れるような大人の文字だった。そこに記してあったのは冒頭の時節の挨拶、そしてお礼の言葉。
シンガー様
春の近づくウィンベルの花が咲く季節となりました。ご無沙汰しておりますが、いかがお過ごしでしょうか?
突然の手紙にどうか気を悪くされないでください。今まで私たちの娘フランの為に幾度とお手紙を頂戴していた事、深く感謝を申し上げます。娘も大変喜んでおりました。
「本来ならば直接お礼を申し上げたいのですが、それが叶わぬことをお許しください。」
シンガーは一つ一つの文字を丁寧に読み上げる。アンバで文字を習った身ではあったが、会話よりも文章を読む方が苦手だった。特に日常会話とは違う丁寧な文章は読み辛い。ただ文字を追うよりも、声に出した方が意味を理解しやすかった。
「私達の愛する娘は・・・」
だが、その声が途切れる。目は確かにその文字を捉えていた。意味も解している。けれど頭の中に入ってこない。
「命、失・・・った。」
私達の愛する娘は二日前に亡くなりました。シンガー様もご存知の通り幼い頃からの不治の病です。私も妻も悲しみにくれる身ではありますが、感謝をお伝えしたく、こうしてペンを取った次第です。
娘はシンガー様の唄を聞いてから変わりました。ただベッドの中で過ごすことを厭い、自分から何をしたいかはっきりと口にするようになったのです。私達夫婦にとってそれは喜ぶべき変化でした。
しかし一月前から容態が悪化し、娘は起き上がれなくなりました。目を開けていられる時間が極端に減り、医者からも残された最後の時間を告げられました。私達はそれを伝えることはしませんでしたが、恐らく娘はすべてを分かっていたのでしょう。今までお世話になった人々へと手紙を残していたのです。同様にシンガー様へも手紙を書いておりました。それを同封致します。
シンガー様。娘に親切にして下さって本当にありがとうございました。これからのご活躍とご健闘をお祈りしております。
最後に葬式の日取りと場所、そしてブレスタ子爵の名前が記してあった。丁寧な字で綴られた手紙はどこか非現実的で、シンガーは無意識に声を漏らしていた。
「・・・・嘘。」
元気になった彼女としたいことが一杯あった。故郷の友人たちとは違う、出会ってからまだ間もない少女。けれど一生懸命に恋をしている、自分では真似出来ない心の強さを持ったシンガーの友人。彼女と、もう会えないなんて。
震える手で封筒を手に取る。そこには一回り小さなピンク色の封筒が入っている。それを取り出して見れば、見慣れた少女の文字があった。親愛なるシンガー様へ、と記してある。それを見つけただけでシンガーの目に涙が浮かんだ。
乱暴に手の甲で涙をぬぐい、封筒を開ける。中に入っていたのはたった一枚だけの便箋。それに目を通したシンガーは強く唇を噛んだ。
(フラン様・・)
読み終わった手紙をぐちゃぐちゃにしないよう注意しながら封筒に戻し、そして胸に抱いた。溢れて来る涙は止まらず、絶望的な思いと共に頬を流れていく。
(どうしてなの、フラン様・・・・)
シンガーの頭の中では優しげに微笑む少女の姿と、そして手紙に記された言葉がぐるぐると悲しみにくれる感情を掻き回していた。
* * *
その日は雲一つない快晴だった。空を見上げるシンガーの目には空を横切る鳥一匹見つけられなくて、まるで天へ召されるフランの邪魔をしないよう遠慮しているかのようだ。
ユフィリルでは火葬が一般的だ。煙と共に魂も天へ上ると考えられており、骨は細かく砕いて海や山に撒かれるらしい。生物は皆父なる海と母なる大地から生まれ、そして還る。天に昇った魂は雨と共に地上に落ちて、地へ還った体と共になることでまた生まれることが出来るのだと、命は循環するのだという考え方なのだ。
シンガーの故郷の葬式と似通った所もあれば違う所もあった。まず、仏には家族と血のつながりのある親戚しか面会が許されないこと。木で出来た棺ではなく、美しい刺繍の施された布で巻かれたまま火葬されること。そして花を手向ける風習がないこと。仏は正装をしているというから、きっとフランは美しいドレスを着ているのだろう。親縁ではないシンガーでは見ることは叶わないけれど。
ブレスタ子爵の屋敷にはフランと最後の別れを惜しむ人達が大勢集まっていた。この町の人々から遠方の親戚まで。けれど面会が許されていない一般の人々に出来るのは屋敷から運ばれていく彼女を見送ることだけだ。馬車に乗せられ運ばれていく、色とりどりの刺繍で彩られた白地の布に覆われた少女。もうシンガーの歌を聞いて笑うことのないその姿に、じんわりと涙が浮かんだ。
人々に見送られ、ゆっくりと進んでいくその馬車の後ろに親族が徒歩で続く。その列の中に彼女の婚約者として参列しているアスタの姿があった。
(アスタさん・・・)
二人の距離は十メートルほど離れている。シンガーの位置からアスタの表情をはっきりと見ることは出来ない。けれど痛ましげに歯を食いしばっているのが分かった。泣きたいけれど泣けない、そんな表情。初めて見るその顔に胸がぎゅっと締め付けられる。
(アスタさん。)
彼女を失った悲しみにくれているのだろうか。それともフランが危惧していた通り、自分を責めているのだろうか。
フランからの最後の手紙。そこに書かれていた一つ一つの言葉がシンガーの頭を駆け巡る。
(フラン様、私は・・・・)
私は彼を、アスタさんを今でも愛しています。
けれどフラン様、私は彼を選びません。この北の地にもようやく春が来ました。そして私はまた旅に出るのです。この旅の果てに待っている場所は私の全てで、私の愛する全てなんです。そこに唯一アスタさんだけがいないけれど。
だからフラン様。あなたの最後のお願いを叶えられない事を許してください。その代わり今日だけは、今日一日だけは――