勇者召喚
六時間目の古典の授業中だった。
窓の外では、運動部の掛け声が遠く響いていて、教室の蛍光灯はいつも通り白々しく俺たちを照らしていた。
教師の声は子守唄のようで、俺は頬杖をついたまま、半分眠っていた。
その瞬間、足元の床に光が走った。
「な、なんだこれ!」
誰かが叫んだ。
机が、椅子が、クラスメイトが、そして俺自身が、青白い幾何学模様の中に飲み込まれていく。
視界が歪んで、内臓が浮き上がるような感覚があって、それから――気がつくと、俺たちは石造りの広間に立っていた。
天井は高く、そびえ立つ柱には金細工の装飾が施され、正面の玉座には豪奢な髭を蓄えた中年男が座っている。
その両脇には鎧を着た騎士たちと、ローブの老人。
床には俺たちを取り囲むように、巨大な魔法陣が淡く光って描かれていた。
典型的だな、と俺は思った。
あまりにも典型的すぎて、逆に現実感がない。
「勇者様方、よくぞお越しくださった」
玉座の男、おそらく王が立ち上がって言った。
クラスメイトたちは混乱して声を上げ、泣き出す女子もいた。
だが俺は、むしろ妙に冷静だった。
(ああ、来たか。ようやくか)
心のどこかで、俺はずっとこういう日を待っていたのかもしれない。
退屈な教室、退屈な家庭、退屈な未来。
そのすべてから逃れられる日を。
王の説明は予想通りだった。
魔王が暴れている。
世界が滅びる。
だから異界から勇者を呼んだ。
協力してほしい。
元の世界には、魔王を倒せば返してやる。
ご丁寧に「ステータス」とやらを確認できる水晶玉まで用意されていて、クラスメイトたちは一人ずつ、その前に呼ばれていく。
神官に促されて最初に進み出たのは、クラスの中心人物である西宮春樹だった。
明るくて、運動神経も良くて、誰にでも優しいやつ。
俺の数少ない友達と言ってもいい。
いや、友達というよりは、利用しやすい相手と言ったほうが正確か。
(春樹は単純だからな。笑顔で接していれば、何でも信じてくれる)
水晶玉に春樹が手をかざした瞬間、ローブの老人が叫んだ。
「お、おお……っ! 勇者だ! 真の勇者がおられるぞ!」
広間にどよめきが走った。
春樹は照れたように頭を掻いて、それでもみんなを安心させるような笑みを浮かべている。
聖剣の使い手、全能力値が桁違い、そういう類のやつだ。
次々とクラスメイトが鑑定されていく。
治癒の聖女、剣聖、大魔導士――誰もが「特別」を授かっていく。
極めつけは、教室で一番地味だった山田ですら、時空魔法の使い手だと判明したことだ。
本人が一番驚いていた。
(はいはい、ご都合主義ね。クラス全員が能力持ち、と。まあ、俺も何か貰えるんだろう)
俺は腕を組んで、自分の番を待っていた。
何が貰えるだろうか。
地味でも、応用が利くやつがいい。
たとえば話術系とか、鑑定系とか。
表でうまく立ち回るための道具になる能力が望ましい。
やがて、神官の視線が俺に向いた。
順番が、俺に回ってきたのだ。
促されるまま、俺は前に出た。
水晶玉に手をかざす。
冷たい感触が指先に伝わって、それから――何も起こらなかった。
水晶玉は、ただ透明なまま、そこにあった。
ローブの老人が眉をひそめた。
もう一度試してくれと言われ、俺は手をかざし直す。
やはり、何も起こらない。
三度目。四度目。
「……これは」
老人の声が小さくなった。
王の表情が曇り、騎士たちが目配せをする。
「能力なし、ですか」
第1話 勇者召喚(改行修正版③)
俺は誰かに見下ろされて、その視線に「ありがとう」と返すような人生を、死んでも送るつもりはない。
(俺は……俺だけ、こんな扱いを受け入れる気はないぞ)
窓ガラスに、自分の顔が映っていた。
穏やかに微笑む、人当たりの良い少年の顔。
みんなが知っている「楓」の顔だ。
優しくて、愛想が良くて、害のない友人。
その顔の奥で、別の何かがゆっくりと目を覚ましていく。
夜になれば、俺はあてがわれた部屋で眠ることになるだろう。
クラスメイトたちは興奮して、夜遅くまで自分の能力について語り合うだろう。
誰も俺のことなど気にしない。
気にしたとしても、それは哀れみという形でしかない。
哀れまれる側の人生。
そんなものは、俺の人生の選択肢にない。
「楓、夕食だってさ。一緒に行こう」
春樹が呼びにきた。
俺は窓から振り返って、いつもの笑顔を作る。
「ああ、行こうか」
(俺は、絶対にこのままじゃ終わらない)
歩き出す足取りは軽かった。
誰の目にも、能力をもらえなかったショックから立ち直りつつある、健気な少年に見えただろう。
その夜、俺の部屋に、あいつが現れることになる。
ただ、そのときの俺はまだ、知らなかった。
誰かがそう呟いた。
クラスメイトたちの視線が、一斉に俺に集まる。
同情、戸惑い、安堵。
様々な感情がそこに混ざっていた。
安堵、というのは、自分じゃなくてよかった、という意味の安堵だ。
(は?)
俺は水晶玉から手を離した。
(は? 待て、待て待て待て)
心臓が嫌な音を立てた。
冷や汗が背中を伝う。
だが、表情には出さない。
出してはいけない。
俺は唇の端を持ち上げて、軽く笑ってみせる。
「あー、参ったな。俺だけハズレかよ」
わざと冗談めかした口調で言った。
クラスメイトたちが、ぎこちなく笑う。
春樹が心配そうな顔で近づいてきて、俺の肩を叩いた。
「大丈夫だよ楓、何かの間違いかもしれないし、後でもう一回確認すれば」
「ああ、サンキュー春樹。お前は優しいな」
(うるさいな。今は触るな)
王と老人が小声で何か話し合っている。
聞き耳を立てなくても、内容は想像がつく。
役に立たない一般人をどう扱うか、ということだろう。
送還する魔法はない、と最初に言われている。
つまり俺は、能力もないまま、この異世界に放り出されるということだ。
クラスメイトたちはやがて、それぞれの能力について目を輝かせて話し始めた。
誰がどんな魔法を使えるか、どんな武器を持つか、どんな冒険が待っているか。
彼らはもう、俺のことを忘れかけている。
能力なしの楓は、彼らの華やかな物語の中に、もう居場所がない。
俺は窓際に立って、見知らぬ世界の空を眺めた。
二つの月が浮かんでいた。
一つは見慣れた白い月によく似ていて、もう一つは赤く血のような色をしていた。
空は紫に染まり、星々が異様な配置で瞬いている。
本当に、ここはもう地球ではないのだ。
(ふざけるな)
胸の奥で、何かが煮えたぎっていた。
(ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな)
なぜ俺だけなのか。
なぜ俺だけが、何も貰えなかったのか。
クラスのお荷物だった山田にすら、時空魔法が与えられたというのに。
俺は別に、優れた人間ではないかもしれない。
けれど、彼ら全員より劣っているわけでもないはずだ。
いや、違う。
比較なんてどうでもいい。
問題は、これから先、俺がどう生きるかだ。
能力者たちに守られながら、彼らに頭を下げて、彼らの慈悲で生かしてもらう?
冗談じゃない。
彼らの戦いの邪魔にならないよう、城の片隅で雑用でもしながら、感謝の言葉を絶やさず、笑顔で頭を垂れて生きていく?
――想像しただけで、腹の底が冷えた。
哀れみ。
同情。
施し。
あいつらが俺に向けるであろう、あの生暖かい目。
「楓は能力ないけど、いいやつだよな」
とでも言われて、輪の隅に置いてもらう。
その光景が、はっきりと目に浮かぶ。
反吐が出る。
俺は誰かに見下ろされて、その視線に「ありがとう」と返すような人生を、死んでも送るつもりはない。
(俺は……俺だけ、こんな扱いを受け入れる気はないぞ)
窓ガラスに、自分の顔が映っていた。
穏やかに微笑む、人当たりの良い少年の顔。
みんなが知っている「楓」の顔だ。
優しくて、愛想が良くて、害のない友人。
その顔の奥で、別の何かがゆっくりと目を覚ましていく。
夜になれば、俺はあてがわれた部屋で眠ることになるだろう。
クラスメイトたちは興奮して、夜遅くまで自分の能力について語り合うだろう。
誰も俺のことなど気にしない。
気にしたとしても、それは哀れみという形でしかない。
哀れまれる側の人生。
そんなものは、俺の人生の選択肢にない。
「楓、夕食だってさ。一緒に行こう」
春樹が呼びにきた。
俺は窓から振り返って、いつもの笑顔を作る。
「ああ、行こうか」
(俺は、絶対にこのままじゃ終わらない)
歩き出す足取りは軽かった。
誰の目にも、能力をもらえなかったショックから立ち直りつつある、健気な少年に見えただろう。
その夜、俺の部屋に、あいつが現れることになる。
ただ、そのときの俺はまだ、知らなかった。




