熱いシャワー
家族柄もあり、幼少期を成績優秀で過ごした久米ユウスケは、大人になるにつれ人間関係において難しさを感じるようになる。寒い日、熱いシャワーを浴びて、ビールを飲む。飲み足りなさから、キャバクラへ行くと、不思議な女のモモと不思議な話をする。
熱いシャワー
久米ユウスケは熱いシャワーを浴びた。天気予報は今年最も強い寒波を謳っており、大雪となった。足元には雪の名残として湿り、体の芯をきつく締めあげた。
浴槽の温度を上げることに脇目も振らないほど、久米は早く風呂に入りたかった。浴槽に浸かった時に、久米は自身の準備不足を思い知ることになる。満足がいく温度ではなかった。
四十度を超えない為のリミッターを赤いボタンを解除し、シャワーの首を鷲掴み、頭上から降り落とす。
湯と皮膚上の薄い氷が混ざり、うっすらとした痛みを迸った。久米は、思わず息吹を吹き返すような吐息を洩らした。
久米は、久米であることに疲弊していた。最近交わした会話の数々が、気を抜いた隙を狙って思い起こされ、煩悶した。仮面を脱いで、洗いたい気分だった。
久米ユウスケは、由緒正しい一族の三男坊として厳格に育てられた。一族の会合となると、それを嫌でも感じられなければいけない環境だった。あまりに雰囲気が凛とし過ぎていて、野暮な事柄で瓦解しまうのが、久米は幼い頃から恐ろしかった。排他的な注目が集まるのがなによりも怖い、そんな環境だった。
久米の父親は、単身赴任や転勤等で、家にあまり居ない人物だった。なので久米の幼い頃のことは母親との出来事になるのだが、母親の心から温もりの一塊を感じたということを記憶から持ち出してくることができなかった。決して冷徹にされたとか無下にされたという訳ではないのだが、どことなく近寄りがたいという感覚があった。たとえ子どもですら、心に線を引いて、距離を保つといった接し方だった。
二人の兄は、どちらとも優秀だった。学校といわば社会で従順に動ける人材育成の場で、常に勝ち続けた。小世界の地位を確立させ続けたのだった。しかも、優秀な人物に陥りがちな学力という目の前の幻惑に囚われることは、二人にはなかった。その奥にある世界をイメージする想像力までも携えていた。スポーツや行事ごとにまで精を出し、そこである種の社会性、協調性を得たのだった。人にどうすれば好意を抱かせるかということを身を持って把握していた。
優秀な二人の兄を持って久米ユウスケの周囲からの期待は跳ね上がった。周囲の声としては、お兄さんみたいに勉強頑張るんだぞ、追い越せ追い抜けお兄ちゃんだな、お兄ちゃんみたいにいい人になるんだ、などパターンの種類としてはそのぐらいのものだった。聞き慣れた文言は、全て同じこととして久米は思えた。しかし、それらは外部の総称の言葉だった。内部(特に母親)は違った。誰も久米に期待なんぞしていなかったのだ。母親は身の回りの生活面では細やかに彼を気遣ってはいたが、成績や性格なものに関しては無関心といってよかった。その事柄に気がつくまで、久米は承認欲求に引きづられて自分のことをよく話した。しかし返答は至って一辺倒なもので、久米は自分の消費するエネルギーとその対価とを天秤にかけ不均等を把握し、母親に自分のことをあまり話さなくなっていった。上の二人の兄も母親の無関心から、自分の本心みたいなものを打ち明けるようなことはなかった。
そんな母親の無関心から怠惰に育つことが起きそうなものではあるが、逆で振り返ってもらったときに魅せる自分であらなければ、と二人の兄は気が抜けない思いで青春時代を過ごしていたのだった。その余裕のなさから、久米に対して気にかけるということを省いて、自己のことを考えていたのだった。
そんな環境下で、久米は麒麟児として成長していった。身体の発達が早く、小学生後半になる頃には百七十cmをゆうに超えていた。その強靭な肉体を使う運動は、周囲に比べてずば抜けていた。足は他人が寄りつかないほど速く、力では相手を正面からねじ伏せることができた。学力では、急激にできるようになった。勉学の差が出始める中学生二年生久米自身なにか変化させたという自覚は無かったのだが、確かな手ごたえというものがあった。覚えなければいけないことが脳に集約され、法則や理屈などは脳に皺なく折りたたまれていた。おそらく成長期の不安定な身体の変化が安定し、脳が動きやすい状態に落ち着いたのだろう。勉強がそれほど出来ないと自己評価をしていた久米にとって、思ってもみない幸運であった。以前はかなり苛ついていたのだった。二人の兄と比べて出来が悪いということが、目の前の答案に向かう集中力をぐらつかせた。何故できないと内で木霊する声が、周囲の嬉々とする子どもたちと対比のように映っていた。苛つきや鬱屈をすべて暴力で、抑え込んでいた。強靭な肉体を宿したのは、その為のように久米には思っていたのだ。誰も逆らうものは居なかった。その状態でも久米にとってはユートピアだったのだが、勉強までできるようになり、苛つきや鬱屈を発散させる必要が無くなったのだった。
そのぐらいからだったのだろう。久米が、他人との繋がり方が分からなくなっていったのは。その問題は、小手先の技術を身に付けた今現在にも通ずるのだった。本質的に何も改善していなかった。
冷えていた皮膚と熱いシャワーが交じり、対象的な物質同士がぱちぱちと音をたてる。小さな雷が体の表面で鳴っているようだった。赤みが帯びてきたところで久米ユウスケはシャワーの水を止めた。タオルで体を拭くまでの数秒、床を見ていた。髪の毛から滴る水滴が目に入った。
風呂場から出た久米は、冷蔵庫からビール缶を取り出してテレビの前に陣をとった。この間買っておいたビール缶は一つだけ残っていて、救われる思いだった。シャワーを浴びて色々と煩悶を繰り返しているさなか、そのことが平行して気になっていたのだった。というものの、ストックがないと思っていたので、一つ残っていたことを、暗闇の中の微かな灯火のように思えた。
缶の開封の音が駆け抜けて、テレビの断続的な音が始まる。そこに映し出される世界に、久米はぼんやりとしたものを感じた。ぼんやりの正体は、現実感との乖離と置き換えることができるんだが、その言葉だけではいい表せない何があった。さきほどまでの物思いがそうさせるのか、一本のビールからくるのかは分からなかった。リモートコントローラーを使って、番組をザッピングしてみる。プロ野球のシーズンの一戦、四十代女性がしている手話講座、異様に映るほど盛り上がりをみせるクイズ番組、その他等々……。久米ははじめクイズ番組を観ていた。わかる答えのものとわからない答えのものがあったのだが、なぜそんなににも盛り上がるのかが一番わからなかった。それについて久米はテレビを付けたときの浮遊感が原因だと考えた。触れることのできる核心と触れることができない付属の膜。奇妙な感覚が邪魔して、うまく入ってゆくことができなかった。
残りのビールを顔を上に向けて飲み干した。一本しかないこともあって、そのような仕草になってしまったのだった。
「モモです」
薄暗い店内に蛍光のネオンの細かい線の数々、隣に座った女の声は不思議な弾み方をした。声量の強弱や音色の高低を捉えられなかった。草原で一瞬だけ見えた動物が何の動物だったか、そういう類の声だった。その時久米は風呂から上がってからの自分の行動を思い返していた。テレビを観ながらビールを飲んでいて、飲み干して、飲み足りなくなってこの店に来たのか。全然来るつもりじゃなかったけど、なぜか来てしまった。
二回来たことがある店だった。雪が降った日ということもあり、客は久米一人だった。
「どうも」
と久米は言って、女に目を向けた。光沢を付属させた長い黒い髪、切れ長の目と薄い唇、身長が高く、全体としてスレンダーな印象を持つ女性だった。
「お名前はなんていうんですか?」先ほど感じた浮遊感のある声で、モモは尋ねた。
「久米です」
「久米さん」
モモは久米から目を逸らして、聞いた名前から人柄を思考するかのように、顔を上に向けてぽつりと反復した。その様子を観ながら、久米は奇妙な感覚になった。快や不快といったわかりやすい感覚とは無縁の寂しさを感じない置いてきぼりを食う感覚だった。嫌な気はしなかった。
「久米さんは優しい人だと思うの」
少し時間を空けてから、モモは言った。
「そんなこと言われたことがない」
久米がそういうとモモはクスりと笑った。
「私は優しさとは想像力のことだと思うの」飲んでいたグラスをテーブルの上に置いた、グラスの中の氷とハミングするように、モモは言った。
「月並みだとは思うけど、相手の立場に立って自分の言うことを考える。想像力を駆使すると言ったらいいのかな。その場が円滑にいくための言葉、例えば嬉しい言葉、気が利く言葉とかもあるよね。でも例えば、叱るということもあるよね。その時で区切ると、相手のテンションを奪うようなことなんだけれども、今後知らずに生きてゆくことを考えて、知っているほうが有意義な時を過ごして行けると思ったときにかける言葉だと思うの。怒るとはまた違う」
「ごめんなさい。私たまにこうなっちゃうの。だからこの仕事で人気がでないの」
モモは気まずくなってそう言った。
「俺と同じだ」
「なにが?」
「人気がないの」
「なんかそれマジなかんじするだから笑えない」とモモは言って困ったように笑った。久米はモモに対して正直な印象を持った。
「じゃあ、優しいさって必要だと思う?」久米は尋ねた。
「ある程度は必要だと思うけど、どうなんだろうね」
「どうなんだろう」
頭の中にどうなんだろうを響かせて、久米はハイボールを一口飲んだ。
「変な感じになったね」モモは言う。
「うん、間違えなく」
「じゃあ、もうこのまま変な感じでいい今夜」
モモは自作の童話を始めた。その童話についてに、久米はなにも感想は言わなかった。作家とか目指してるのかと聞くと、モモは首を振った。ただ考えてるだけなの。だから誰かに評価されたいとかもないし、テーマとか生き方に繋がるとかを考えずに、ただ物語を思い思いに連ねてるだけなの。だから話すのも初めてだし、なぜ話したのかわからない。
どこの国かわからない、誰だかわからないナイーブな少年がいました。ナイーブな少年は毎日がつまらないと思っていて、つまらない原因は自分がつまらないからだと思っていました。いつかはわからないある日、ナイーブな少年は森で小人と会いました。普段は人見知りをするのですが、小人にたいしては自分のことを話したり、小人の話を聞いたり、楽しく一緒に遊んだりしました。
それからというのもナイーブな少年はよく森に行きました。お母さんやお父さんやお兄さんは、ナイーブな少年にどこへ行っているのか、と尋ねました。ナイーブな少年は口を開きませんでした。ナイーブな少年はただでさえ自分の存在が周りに面倒だと思われていると思っていたので、小人と遊んでいるなんてことを言ったら、大変なことになるだろうと思っていたのでした。
小人と過ごす日々は楽しく、また小人と過ごさない時間はよりいっそうつまらなくなりました。つまらない日々の中で、嫌なことがあった日には、森に帰りたい森に帰りたいと思いました。
しかし、実際には森も小人もいなかったのです。ナイーブな少年はそのことをわかっていました。それでもなお、森に帰りたい森に帰りたいと今日も思い続けているのでした。おしまい。




