第2章 ① 「魔王使者、混乱す。」
「忠誠の花々よ、咲き誇れ!」
朝の柔らかな光が降り注ぐ庭で、イリナは両手を広げて高らかに宣言していた。
黒いマントが風になびく幼い姿は、なるほど確かに魔王然としている。
だが、その正体は――植えた花をどう配置するか真剣に悩む、ただの6歳児でもあった。
「そうだ! ここを中心に放射状に配置すれば、我がちからの象徴となろう!」
イリナは花の苗を手に、庭中を走り回っていた。
既に花壇はおろか、通路にまで苗が植えられ、草花の海と化していた。
「イリナ、ちょっと!」
庭に出てきたユーリは目を丸くした。
昨日までは普通だった裏庭が、一晩で花園に変貌していたのだ。
見れば見るほど不自然だった。
通常なら何週間もかかる苗が既に膝丈まで成長し、色とりどりの花が開いている。
これはイリナの魔力によるものだと一目でわかった。
「また魔力を使ったのか」
ユーリはため息をついた。
確かに最近、イリナの魔力は日増しに強くなっていた。
一週間前は小さな火花程度だったものが、今では植物を一晩で成長させるほどになっている。
魔王の器として着実に進化しているのだろう。
額の角も少し大きくなったように見えた。
「兄上! 我が緑化計画は着々と進行中である!」
「それはいいけど、通路ふさいじゃだめだよ」
ユーリは頭を抱えた。
「ここ、村人が通る道だし」
「ふむ、民草の往来か」
イリナは腕を組み、考え込むように顎に手を当てた。
「よかろう、我が慈悲により、通路の一部を許可する!」
ユーリは優しく笑いながら、イリナの頭を撫でた。
「そうじゃなくて。最初から人が通る分は空けておかないと」
そんな兄妹のやり取りを、門の外から眺めている人影があった。
白い髪を風になびかせ、無表情な少女——セリスだ。
「おはよう、セリス」
ユーリが気づいて手を振った。
「珍しいね、朝から」
「観察の続きよ」
セリスは感情を全く表に出さないまま言った。
「魔王教育、進捗は?」
「まあね」
ユーリは苦笑いした。
「今日のテーマは『怒る前に話す』なんだけど」
「問答無用こそ我が信条!」
イリナが胸を張って割り込んできた。
「そこを変えたいんだよね」
ユーリはため息をついた。
セリスは眉をわずかに上げた。
「興味深い実験ね」
彼女は冷静に言った。
「魔王の本質を変えずに、行動様式だけを変容させようとする試み」
「実験じゃないって」
ユーリは少し苦笑した。
「ただ、イリナには優しい子に育ってほしいだけだよ」
「我はすでに慈悲深き支配者だぞ!」
イリナが誇らしげに宣言した。
「それじゃ、この花たちを移植してあげようか」
ユーリは提案した。
「通路は空けて、もっと素敵な花壇を作ろう」
「ふむ……それも一理ある」
イリナは少し考えた後、頷いた。
「よかろう。我が民草のために道を確保せよ」
ユーリはクワを持ち出し、通路に植えられた花々を丁寧に掘り起こし始めた。
イリナも小さなスコップを手に、真剣な表情で手伝っている。
「魔王様、今日も好調ね~」
通りかかった村の女性が微笑みながら声をかけた。
「うむ! 我が支配力は日に日に向上しておる!」
イリナは胸を張って答え、女性は「かわいい」と笑いながら通り過ぎていく。
「誰も突っ込まないんだよな……」ユーリはつぶやいた。
「興味深い社会現象ね」セリスは観察メモを取りながら言った。
「集団的受容。村全体が『魔王』という異質な存在を、日常の一部として取り込んでいる」
「難しく考えなくていいよ」
ユーリは肩をすくめた。
「みんなイリナが好きだから、それだけだよ」
「それ自体が不思議な現象よ」
セリスは顔を上げた。
「本来なら、恐れられるべき存在なのに」
その時、突然、空に異変が生じた。
真昼の青空が、まるで布が裂けるように歪み始めた。
歪みの中心から、紫がかった黒い光が漏れ出し、次第に大きく広がっていく。
「な……なんだ?」
ユーリは身構えて、反射的にイリナを背後に庇った。
セリスは冷静に空を見上げた。
「空間転移魔法ね。誰かが来るわ」
黒い裂け目はさらに広がり、そこから一人の男が降り立った。
漆黒のマントと長い尖った耳、そして硬質な表情——明らかに人間ではない何かだった。
威圧感を纏った男は、静かに地上に足を下ろすと、村を見渡した。
「ここ……か」
低く、どこか不機嫌そうな声。男は周囲を警戒しながら、ゆっくりと歩き始めた。
「あらまあ、旅芸人さん?」
通りかかった老婆が、にこやかに声をかける。
男は一瞬、言葉を失った。
「違う……私は魔界の使者だ」
「まあ、魔王様の親戚?」
老婆は全く動じない。
「よく来たねえ。お茶でも飲んでいきなさい」
使者の眉間にしわが寄った。
しかし返答する前に、別の声が彼の注意を引いた。
「ふふふ……」
小さな笑い声。
使者が振り向くと、そこにはイリナが立っていた。
小さな体に不釣り合いな威厳を纏い、黄金の瞳で使者を見上げている。
「よく来たな、魔界からの使者よ」
イリナは高々と宣言した。
「我が育成の成果を見るがよい!」
使者は一瞬、困惑したが、すぐに正気を取り戻し、片膝をついてイリナに敬礼した。
「次代魔王候補、イリナ様。魔界より参りました、使者オロウと申します」
彼は丁寧に頭を下げた。
「陛下の進化の兆しを見届けに参りました」
ユーリが緊張した面持ちで前に出る。
「どうも……イリナの兄のユーリです。あの、今はちょっと『優しさ』の教育中なので……」
「優……?」
使者は首を傾げた。
「ああ、育成、ね」
村長が突然現れた。
白髪の老人は温和な笑顔を浮かべ、使者に向かって手を振った。
「よく来たねえ、魔界の方。うちの村は平和だから、あまり騒がしくしないでくれると助かるよ」
「村長!」
ユーリは驚いて振り返った。
村長は、まるで天気の話でもするかのように平然と続けた。
「魔王様のお客さんなら大歓迎だよ。ほら、みんなでお迎えしようじゃないか」
使者オロウは完全に混乱していた。
彼は周囲を見回し、村人たちが普通に暮らしている様子を不思議そうに観察していた。
「ここは……どういう場所なのだ?」
彼はぽつりとつぶやいた。
「ただの村だよ」
ユーリが答えた。
「イリナはここで育ってる」
「魔王候補が……」
オロウは言葉を選びながら言った。
「ただの村で?恐れられることもなく?」
「ふふふ……」
イリナは得意げに笑った。
「我を恐れぬ者など存在せぬ!この村の民草は皆、我に忠誠を誓っているのだ!」
「ほら、また始まった」
村の少年が小声で言った。
「魔王様、かわいい~」
少女が笑いながら言い、子供たちは全く恐れる様子もなく走り去っていく。
使者の混乱は頂点に達していた。
「見よ!」
イリナは誇らしげに言った。
「彼らは皆、我に忠誠を誓っているのだ!」
その時、エリオと呼ばれるユーリの友人が通りかかった。
茶色の髪をした陽気な青年は、状況を一瞬で把握すると、にやりと笑った。
「おっ、また魔王の親戚?」
エリオはオロウに向かって手を振った。
「君も魔王になれるの?」
「な……」
オロウは言葉を失った。
「違うわよ」
セリスが冷静に言った。
「魔界からの使者よ。魔王候補の発達を観察に来たんでしょ」
「ああ、なるほど」
エリオは頷いた。
「それで、魔王様の世界征服計画はどう?」
「え、いや、そんなことは……」
ユーリが慌てて制しようとしたが。
「世界征服?」
オロウが身を乗り出した。
「それは魔王としての本能に目覚めたということか?」
「ふふふ……」
またしても、イリナは得意げに笑った。
「我の偉大なる計画は既に始まっておる!見たまえ!」
彼女は誇らしげに庭の花々を指した。
「まずは植物を支配し、次に動物、そして人間世界!」
「それ、ただの花壇だから」
ユーリはため息をついた。
「ねえねえ、魔王様!」
突然、村の子どもたちが駆けてきた。
「ごっこ遊びしよう!」
「ふむ」
イリナは腕を組んで考えた。
「よかろう。我に遊びを教えるがよい」
子どもたちは歓声を上げ、イリナの手を引いて広場へと連れていった。
使者は呆然と、その様子を見つめていた。
「彼らは……魔王を恐れていない」
オロウはつぶやいた。
「村の子どもたちはイリナと一緒に育ってきたからね」
ユーリは柔らかく笑った。
「彼らにとっては、ただの友達なんだよ」