第1章⑤「妹が魔王っぽくなってきた件」
ある日の帰り道、村はずれの小さな空き地で、一匹の子猫が座っているのを見つけた。
「猫…!」
イリナは目を輝かせた。ピーターを助けてくれた村長の猫ではなく、見知らぬ野良猫だ。灰色の毛並みで、少し警戒した目をしている。
「我が眷属にしてやろう!」
イリナは猫に近づこうとした。
「我輩は魔王だ。恐れることはない」
しかし猫はさっと身をかわして、茂みに隠れてしまった。
「あっ…」
イリナは手を伸ばしたまま立ち尽くした。
「逃げられたか…」
どこか寂しそうな声だった。
「やっぱり我輩は、怖がられる存在なのか……」
ユーリはイリナの肩に手を置いた。
「そんなことないよ。猫は誰に対しても最初は警戒するものなんだ」
「でも…逃げた…」
「それは魔王だからじゃなくて、近づき方の問題さ。動物は優しく時間をかけて接することが大事なんだよ」
「近づき方…か」
イリナは何かを悟ったように目を見開いた。
「強さだけじゃなく……接し方が大事なのか?」
「そうだね。どんなに力があっても、使い方が大切なんだよ」
また別の日の帰り道、小さな茂みから悲鳴のような鳴き声が聞こえてきた。
「なんだ?」
近づいてみると、魔物が暴れていた。この辺りではよく見かける無害な種類だが、今は何かに怯えたように激しく跳ね回っている。
そして茂みの奥—魔物が向かっている方向には、あの灰色の子猫が身を縮めていた。
「あっ!猫だ!」
イリナは目を見開いた。
「魔物が猫を襲おうとしている!」
イリナは身構えた。
「我が雷撃で粛清してやる!」
その手から小さな電光が走った。魔力の兆しだ。
「待って!」
ユーリは急いで止めた。
「違う、暴れてるのは怪我してるからだ」
「怪我…?」
イリナは魔物をよく見た。確かに後ろ足から血が出ている。痛みで正気を失い、猫に当たり散らしているようだった。
「これは…助けるべきか?でも猫が危険だ」
「イリナはどうしたい?」
「我輩は…」
イリナは迷った後、決意を固めた。
「我輩は…魔王だ。この程度の魔物ぐらい、制御できなければ…」
言うが早いか、イリナは駆け出し、両手を広げて魔物と猫の間に立ちはだかった。
「止まれ! 我は魔王なり。汝を支配する者なり!」
魔物は一瞬怯んだ。
だが、痛みと恐怖に正気を失っているのか、再びイリナへ向かって突進してくる。
「くっ!」
イリナは咄嗟に防御の魔法を唱えた。
薄い青い光のバリアが現れ、魔物の突進を受け止める。
「兄上、鎮静の魔法を!」
イリナの突然の行動に呆気を取られていた俺だったが、イリナの命令で正気に戻る。
バリアを維持しているイリナのもとへ駆け寄りながら、俺は鎮静の呪文を唱えた。
魔物の動きが、ゆっくりと静まっていく。
イリナをじっと見つめながら、魔物は小さく首を傾げた。
「……何が、起きている?」
俺は、イリナの起こした奇跡をただ呆然と見守っていた。
暴れていた魔物は、徐々におとなしくなっていく。
イリナは慎重に歩み寄り、魔物の傷をそっと確かめた。
「兄上…治癒の魔法を」
「うん」
ユーリはイリナと一緒に簡単な治癒魔法を唱えた。ユーリの知識とイリナの魔力が合わさると、不思議と強力な魔法になる。
魔物の足の傷が少しずつ塞がっていった。
「これで…よし」
イリナは満足げに頷いた。魔物はしばらくじっとしていたが、やがて恐る恐る立ち上がり、足を試すように少し歩いた。
「治ったな!」
イリナは嬉しそうに言った。
魔物はイリナを見上げ、小さく鳴いた。それから…驚いたことに、イリナの足元にすり寄ってきた。
「なんだ…? 我輩に…懐いたのか?」
「みたいだね」
魔物はイリナの周りをくるくると回り始めた。
「……おまえ…我が眷属にしてやってもよいぞ?」
魔物は嬉しそうに鳴いた。
その夜、イリナの部屋に入ると、小さなベッドの上でイリナが眠っていた。そして驚いたことに、その枕元には灰色の子猫が丸くなっていた。
「あれ…?」
昼間、逃げた猫だ。どうやって家に入ってきたのか。窓が少し開いていたから、そこからだろうか。
「我の領土に勝手に……」
イリナが寝言で呟いた。猫はピクリとも動かず、イリナの髪に顔をうずめている。
「つ、強すぎる……この小さき魔獣、ただ者ではない……」
さらに寝言が続く。可愛らしい光景だ。
「村長の飼い猫か?いや、野良猫か…」
ユーリがそっと近づくと、猫はひと目でユーリを見たが、すぐにまた目を閉じた。イリナの傍がよほど気に入ったらしい。
「我の膝で眠るとは.....こやつ......危機から救ったゆえか?」
イリナは寝たまま猫を腕で抱き寄せた。猫も気持ち良さそうに喉を鳴らしている。
なんだかんだ言って、イリナは生き物に好かれる素質があるようだ。
ユーリはそっと部屋を出た。
廊下の窓から見える夜空には、満月が輝いていた。月明かりが村全体を優しく照らしている。
この村で、魔王の少女が育っている。
世界を滅ぼすはずの存在が、村人たちを守ろうとしている。
運命を覆し、新しい歴史を作り出そうとしている。
「魔王って、結局何なんだろうな」
ユーリはふと呟いた。
「私の研究によれば、破壊と創造の力の象徴」
後ろから声がした。振り返ると、セリスが立っていた。
「こんな時間に何してるの?」
「データ収集。月の満ち欠けとイリナの魔力の関係を調べているの」
「相変わらずだな」
「ところで…イリナは成長してるわね」
「そうだな」
「でも覚醒はまだ起きていない。本当の魔王の力が開放される時が来たら…」
「その時は、その時だよ」
「楽観的ね」
「楽観的じゃないと、魔王を育てられないさ」
セリスは珍しく微笑んだ。
「まあ、私も見守りたいわ。『優しい魔王』という矛盾した存在が、世界をどう変えていくのか」
「矛盾してないさ。優しさこそが、最強の力かもしれないんだから」
「哲学的ね」
「いや、単なる兄の直感だよ」
――ふたりが話しているとき、イリナの部屋では小さな魔王が猫を抱きしめて夢を見ていた。
世界一優しい魔王の夢を。
これが、魔王育成物語の第一歩。まだ始まったばかりの物語。
村で、畑で、森で。
魔王の少女は今日も育っている。