第1章④「妹が魔王っぽくなってきた件」
数日後、村の広場では賑やかな声が飛び交っていた。
「早く、早く!」
「魔王様、準備はいいですか?」
子どもたちが集まり、イリナを囲んでいる。中央には小さなテーブルが置かれ、その上には数々の材料が並んでいた。
「クッキー作りの儀式じゃ! 静粛に!」
イリナが小さな胸を張って宣言する。エマちゃんのお母さんが温かく見守る中、イリナの初めてのクッキー作りが始まろうとしていた。
「我輩が特製の『闇のクッキー』を作るのだ! 喜べ!」
「やったー!」
子どもたちは大はしゃぎ。ユーリとセリスも少し離れたところから見ていた。
「ほほう、魔王のお菓子作りか。興味深い研究対象ね」
「セリス、たまには研究じゃなく、純粋に楽しめばいいのに」
「これは純粋な好奇心よ」
セリスは無表情ながらもメモを取る手を止めない。
「さて、まずは小麦粉を…」
エマちゃんのお母さんが説明を始めると、イリナは真剣な表情で聞き入った。
「小麦粉か…ふむ、これが闇の素となるわけだな」
「そうですね、魔王様。これがベースになります」
「では…材料を混ぜるのだな!」
イリナは意気込んで材料を混ぜ始めた。しかし、力の入れ方が強すぎて、粉が舞い上がる。
「わっ!」
顔中、粉だらけになったイリナを見て、子どもたちは笑い出した。
「笑うな! 我輩の威厳はどこへ…」
イリナは恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「大丈夫ですよ、魔王様。初めてなら誰でも失敗します」
エマちゃんのお母さんが優しく言った。
「ふむ…失敗も経験か」
「そうそう。さあ、また挑戦しましょう」
二度目は慎重に、イリナは材料を混ぜていく。ユーリは思わず微笑んだ。魔王の子が、こんなにも一生懸命クッキーを作る光景。誰が想像しただろう。
型抜きの段階になると、イリナは迷わず「星」と「月」の型を選んだ。
「これは我輩の支配する天空の象徴!」
「素敵ですね!」
生地を伸ばし、型で抜いていく。イリナの小さな手が一生懸命に動く。
「兄上、見ているか!」
「ばっちり見てるよ」
「よし、これで焼くのだな」
オーブンに入れると、甘い香りが広がり始めた。子どもたちはワクワクしながら待っている。
「我輩の闇の魔法でクッキーが生まれる…」
イリナがつぶやいた瞬間、村長が姿を現した。
「おお、いい匂いじゃな」
「村長! 見ておれ! 我輩の力を見せてやる!」
「楽しみじゃ、魔王様」
村長はにこやかに笑う。これからこの村では、魔王の子がクッキーを焼く光景も日常になりそうだ。
そして、オーブンからクッキーが取り出された。
「出来た! これぞ我輩の闇のクッキー!」
少し焦げ目がついた星と月のクッキー。見た目は少し不格好だが、その香りは確かに美味しそうだった。
「まずは我輩が試食する!」
イリナは意気揚々とクッキーをかじった。
「どう?」
「うむ…これは…」
イリナの表情が変わる。
「すごい! 我輩の力が詰まっておる!」
子どもたちも一斉にクッキーを手に取った。
「美味しい!」
「魔王様のクッキー、最高!」
満足げな声が広場に響く。イリナも嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「兄上も食せ!」
イリナがユーリにもクッキーを差し出す。
「ありがとう」
ひと口かじると、甘さと香ばしさが口に広がった。焼き加減も悪くない。
「美味しいよ、イリナ」
「ふふふ、我輩の魔力を感じるであろう?」
「うん、感じるよ」
村長も一口食べて満足げに頷いた。
「これは立派な魔王のクッキーじゃ」
イリナの目が輝きを増す。
「よし、もっと作るぞ! 我が民に配るのだ!」
そうして二回目、三回目のクッキー作りが始まった。イリナは次第に慣れていき、焼き上がりも良くなっていく。広場には笑顔と甘い香りが溢れていた。
その日の夕方、ユーリたちが家路につく途中、イリナが小さな声で言った。
「兄上…今日は楽しかった」
「そうだね」
「我輩は魔王なのに…皆、喜んでくれた」
「それはイリナがみんなに喜んでもらおうとしたからだよ」
「魔王が人を喜ばせるなんて…変じゃないか?」
「変かな? 俺は素晴らしいことだと思うよ」
イリナはしばらく考え込んでいた。
「兄上…魔王は世界を滅ぼすものなのか?」
突然の質問に、ユーリは足を止めた。
「何を急に?」
「先日、セリスの本で読んだんだ。『魔王は世界を滅ぼすために生まれ、勇者はそれを止めるために生まれる』と…」
「そんなこと書いてあったのか…」
「我輩は…世界を滅ぼすために生まれたのか?」
イリナの目には不安が浮かんでいた。
「イリナ」
ユーリは膝をついて、イリナの目の高さになった。
「誰かに決められた運命なんてない。自分の道は自分で選ぶんだ」
「でも、魔王は…」
「魔王だって、自分の生き方を選べる」
「本当か?」
「本当だよ」
イリナは小さく頷いた。
「それに、もし本当に…世界を滅ぼそうとするような魔王になったら」
「…なったら?」
「俺が止めるよ」
イリナは驚いた顔をした。
「兄上が…勇者になるのか?」
「違う。兄として止める」
「兄として…」
「だから安心して、自分の道を進めばいい」
イリナはしばらく考え込んでいた。
「わかった。我輩は…我輩だけの魔王になる」
「それでいいんだよ」