第1章③「妹が魔王っぽくなってきた件」
「我に跪け!」
朝の広場に、またしても元気な声が響いた。イリナが村人に挨拶しているつもりだ。
「イリナ、それじゃダメだって何度言えば…」
俺は頭を抱えた。昨日も一昨日も同じことを教えたはずなのに。
「では…我に従え!」
「それも違う!」
「むぅ…では何と言えばよいのだ?」
イリナは不満げに頬を膨らませた。
村人のオバさんが笑いながら近づいてきた。
「まあまあ、魔王様も大変ね」
「いつも騒がしくてすみません」
「いいのよ。村が明るくなったもの」
オバさんはイリナの頭を優しく撫でた。イリナは最初驚いたような顔をしたが、すぐに気持ち良さそうな表情になった。
「よし、もう一度挨拶の練習をしよう」
俺は諦めずにイリナの前に立った。
「おはよう、イリナ」
「む…おはよう、兄上」
「そう、それでいいんだ。『おはよう』だけでいいんだよ」
「だが、そこに威厳がない!」
「威厳より大事なことがあるんだ」
「なにか?」
「心を通わせること」
イリナは首を傾げた。
「もっと具体的に言うと?」
「うーん、そうだな…」
考えていると、通りかかった村長が手を振った。
「おお、イリナちゃん、今日も元気そうじゃな」
「ふむ、村長か。貴様、今日も命あることを喜ぶがよい!」
村長は大笑いした。
「はっはっは! さすが魔王様じゃ。ありがたく思うぞ」
「む、感謝されると困る…」
イリナは急に恥ずかしくなったのか、俺の後ろに隠れた。
「ふふ、照れ屋さんじゃの」
村長は微笑んで去っていった。
「…これでいいのか?」
イリナが小さな声で尋ねた。
「うん、十分だよ。村長も喜んでたじゃないか」
「だが、我輩のセリフは間違っていたのでは?」
「まあね。でも気持ちは伝わってたよ」
「気持ち…」
イリナはしばらく考え込んでいた。
それから数日、俺たちは「優しき魔王の心得」を実践する日々を送った。
挨拶の練習は少しずつ進歩していた。
「貴様ら、今日も命あることを喜ぶがよい!にこっ」
「…まあ、前よりはいいかな」
村人たちも「ありがとね~」と笑顔で答えてくれる。
次は「優しさとは何か」というテーマに取り組んでいた。
「イリナ、"優しさ"って、どんな意味だと思う?」
「滅ぼさないこと!」
「…もうちょい具体的に!」
「生かしておくこと?」
「それも違うなぁ」
俺たちは村の広場のベンチに座っていた。そこへセリスがやってきた。
「ユーリ、イリナの教育は進んでる?」
「まあね。今は"優しさ"について教えてるところなんだ」
「ほう、興味深いテーマね」
セリスもベンチに座った。
「イリナ、魔王は強いものよね」
「当然だ!」
「では強いからこそ、弱いものを助けることができると思わない?」
「助ける? なぜだ?」
「強者の余裕というものよ。弱者を思いやれるからこそ、真の強者と言える」
「ふむ…」
イリナは考え込んだ。
「ただ踏みつけるだけなら、誰でもできるわ。でも助け上げるのは、本当に強い者だけができること」
「なるほど…」
俺はセリスの言葉に感心した。こういう言い方なら、イリナにも伝わるかもしれない。
「じゃあ、実践してみよう」
ちょうどそこへ、村の老人が重そうな荷物を持って歩いてきた。
「あれ見て、イリナ。強者なら何をすべき?」
イリナはしばらく考え、おもむろに立ち上がった。
「おい、年寄り!」
「イリナ、呼び方!」
「む…おじいさま! その荷物、我輩が持とう!」
老人は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「おや、魔王様、ありがとうございます」
イリナは得意げに荷物を受け取った。少し重そうだったが、頑張って持っている。
「どこまで行くのだ?」
「あの家までじゃよ」
「よし、行くぞ!」
イリナは意気揚々と歩き始めた。俺とセリスも後に続く。
「なかなかいい感じじゃない?」
セリスが小声で言った。
「ああ、こういうのが"人助け"の第一歩だといいんだけど」
老人の家に到着すると、イリナは荷物を玄関先に置いた。
「ふう…なかなか重かったぞ」
「ありがとう、魔王様。こんな老いぼれにも気を遣ってくださるとは」
老人が頭を下げると、イリナは急に戸惑ったような顔をした。
「む、礼を言われると…なんだか変な感じだ」
「どんな感じ?」
俺が尋ねると、イリナは胸に手を当てた。
「なんだか…ここが温かい」
「それは嬉しいってことじゃない?」
「嬉しい…か?」
「人を助けると、自分も嬉しくなるんだよ」
「不思議な感覚だな…」
イリナは不思議そうに呟いた。
老人は家から出てくると、イリナに飴玉を一つ渡した。
「お礼じゃよ」
「む! 貢物か!」
「イリナ…」
「いや、その…ありがとう」
イリナは照れくさそうに飴を受け取った。
「ふむ、優しくすると、見返りがあるのか…」
「それだけじゃないよ」
「しかし悪くない…」
その日から、イリナは村の中で「人助け」を実践するようになった。もちろん、独自の解釈で。
「おい、そこの小さき民草! 我輩に跪くがよい!」
村の子どもが転んで泣いていると、イリナが駆け寄った。
「…いや、泣くな。その傷を見せよ」
子どもは泣きながらも膝を見せた。小さな擦り傷がついている。
「ふむ…大したことはない。だが痛みは理解する」
イリナはポケットから、俺が作った薬草の軟膏を取り出した。
「これを塗れば痛みは去る。我輩特製の魔法の軟膏だ…いや、兄上が作ったものだが」
子どもの傷に軟膏を優しく塗る。少し恥ずかしそうにしながらも、真剣な表情だ。
「ありがとう、魔王様!」
子どもは泣き止み、笑顔になった。
「む…礼は…いや、それでよい。もう泣くな。魔王の民にふさわしい強さを見せよ」
子どもは元気に立ち上がり、走って行った。遠くで待っていた母親が俺たちに頭を下げた。
「イリナ、いいことしたね」
「当然だ。我輩の民だからな」
「優しい魔王になったね」
「ふん、当たり前だ! …兄上が言ったろう? 強いからこそ、弱い者を気遣えると」
「そうだね」
俺は胸が熱くなるのを感じた。イリナは本当に成長している。
そんな日々を過ごす中、ある問題が発生した。
エマちゃんの弟が村の広場で迷子になった時のことだ。
イリナと遊んでいた子どもたちが、一斉に広場に集まった。
「魔王様! 大変です! ピーターが見当たらないんです!」
3歳のピーターは、一人でどこかに行ってしまったらしい。
「なに! 我輩の民が行方不明だと!?」
イリナは真剣な顔になった。
「心配するな! 我輩が探し出してやる!」
「イリナ、待って」
俺も駆けつけた。
「まずは冷静に考えよう。いつからいなくなったの?」
子どもたちが話すには、広場で遊んでいる間に、ふとピーターの姿が見えなくなったらしい。
「よし、皆で手分けして探そう」
村人たちも集まってきて、捜索が始まった。
「ピーター! どこだ!」
イリナは村はずれの小道で必死に呼びかけていた。小さな体で精一杯声を張り上げる。
「見つからないな…」
俺はため息をついた。すでに一時間以上探している。村の中心部から広場、パン屋、井戸、どこにもピーターの姿はなかった。
「我輩の民なのに…見つけられぬとは…」
イリナは悔しそうに唇を噛んだ。
「焦らないで。必ず見つかるよ」
「いや、我輩が魔王なら…」
そのとき、エリオが走ってきた。
「ユーリ! 村の西側も探したけど見つからなかった!」
「そうか…」
「でも、村の子が『森の方に蝶々が飛んでいくのを見た』って言ってたぞ」
「蝶々?」
「ああ、ピーターが蝶々を追いかけるの好きだったよな」
俺は森の方を見た。日は傾きかけている。
「森か…危険だな」
「むっ! 森に行ったのか!」
イリナの目が大きく見開かれた。
「まだわからないけど…」
「行くぞ、兄上!」
イリナは森へと駆け出した。
「おい、イリナ! 危ないって!」
俺とエリオも後を追う。
森の入り口は薄暗く、木々の間から風が吹き抜けていた。
「ピーター! 答えよ! 魔王の命令だ!」
イリナの声が森に響く。返事はない。
「足跡を探そう」
俺は地面を注意深く見た。柔らかい土に、小さな足跡らしきものが。
「これかも…」
「我輩が先頭だ! 従え!」
イリナは勇敢に前に進む。その背中は小さいのに、なぜか頼もしく見えた。
森はだんだん暗くなってきている。時折、木の枝がこすれる音や、小動物の気配に、イリナが警戒して立ち止まる。
「怖いのか?」
「ば、バカ! 魔王が怖がるわけないだろ!」
でも、ちらりと俺の方を見る目には不安が浮かんでいた。
「一緒だから大丈夫だよ」
「む…当然だ。我輩の従者だからな」
進むにつれて足跡は薄れ、やがて見えなくなった。
「どっちだ…」
イリナが困った顔で周りを見回す。そのとき、枝が折れる音がした。
「誰だ!」
イリナは身構えた。茂みから現れたのは…一匹の子猫だった。
「にゃあ」
「猫か…」
イリナはほっとした顔をする。
「待て、この猫、村長の家の…」
村長の飼い猫だ。どうして森の中に?
猫は俺たちを見るとまた茂みの中へ消えていった。
「追え! あの猫、何か知っているかもしれん!」
イリナは猫を追いかけた。
「おい、待て!」
しばらく追いかけると、猫は小さな空き地で止まった。そこには…
「見ろ! 靴だ!」
確かに子供用の靴が落ちている。ピーターのものだ。
「近くにいるはずだ!」
俺たちは声を張り上げて呼んだ。
「ピーター! どこにいるんだ!」
「我輩の民よ、姿を見せよ!」
しかし、返事はない。
「兄上…」
イリナの声が震えていた。
「なんだ?」
「もし、ピーターを見つけれなかったら、ピーターは…」
イリナの目に涙が浮かんでいる。
「これからだよ。まだ見つかるはず」
俺は必死にイリナを励ました。
そのとき、猫が「にゃあ」と鳴いて、大きな倒木の方へ歩いていった。
「あっちか?」
倒木の向こうに回り込むと…小さな人影が丸くなっていた。
「ピーター!」
俺たちは駆け寄った。ピーターは膝を抱えて震えていた。頬には涙の跡。
「ピーター! 無事か! 答えよ!」
イリナは半泣きで叫んだ。
ピーターはゆっくりと顔を上げ、イリナを見て目を見開いた。
「ま、魔王様…こわかった…」
「心配するな、我輩がここにいる!」
イリナは小さく胸を張った。
「何があったんだ?」
俺も近づいて尋ねた。
「蝶々を追いかけてたら…道がわからなくなっちゃった…それで、暗くなってきて、怖くて…靴も脱げちゃって…」
「そうか…大丈夫だよ。もう安全だから」
猫は満足げにピーターの足元でくるくると回っていた。
「この猫が案内してくれたのか」
「魔族の仲間に違いない」
イリナは真面目な顔で言った。
俺がピーターを抱き上げようとすると、イリナが手を上げた。
「待て、兄上。我輩がやる」
「え? でも重いよ?」
「構わん。我輩の民だ。我輩が守る」
イリナは真剣な顔でピーターに近づいた。
「ピーター、我輩の背に乗れ」
「え…?」
「心配するな。我輩は魔王だ。力はある」
イリナは背中を向けてしゃがんだ。ピーターは恐る恐るイリナの背に乗った。
「よし、掴まっていろ!」
イリナはふらつきながらも、しっかりとピーターを背負って立ち上がった。かなり重そうだけど、必死に耐えている。
「行くぞ、兄上!」
「うん、ゆっくりでいいからね」
帰り道、イリナの足はよろめき、何度か転びそうになる。でも、決して降ろそうとはしなかった。
「イリナ、交代するか?」
「いらん! 我輩が…最後まで…」
汗で前髪が貼りついているのに、イリナは必死に前に進む。
月が出始める頃、ようやく村の灯りが見えてきた。
「もうすぐだ! 頑張れ、イリナ!」
「ふん、当然だろう…我輩は…魔王だからな…」
疲れた声だったが、誇りに満ちていた。
俺たちは村へと戻った。イリナは一度も弱音を吐かなかった。
村に着くと、皆が安堵の表情でピーターを迎えた。エマちゃんの母親も駆けつけてきた。
「ピーター! 大丈夫だった?」
ピーターを受け取ると、母親はイリナにも深々と頭を下げた。
「魔王様、ありがとうございます」
「む…当然だ! 我輩の民を守るのは当然だからな!」
照れくさそうに言いながらも、イリナは誇らしげだった。
村人たちから自然と拍手が起こった。
「流石は魔王様!」「本当に優しい魔王様だね!」「村の子どもたちの守り神だ!」
「イリナ、よく頑張ったね」
俺はイリナの肩に手を置いた。顔を伏せているイリナだが、その横顔に安堵の表情が見える。
「当然だろう。我輩は魔王だからな」
イリナは胸を張ったが、その声は少し震えていた。
「本当に立派だったよ」
「ふん、褒めても何も出ないぞ」
イリナは照れくさそうに顔をそらした。
「そっか」
「魔王様、今度うちでクッキー作りませんか? ピーターも喜ぶと思うんです」
エマちゃんの母親が提案した。
「クッキー? む…それは我輩の民への褒美として適切か?」
「もちろんです! 魔王様特製クッキーなら、皆喜びますよ」
「ふむ…よかろう! 我輩特製の『闇のクッキー』を作ってやろう!」
子どもたちは期待に胸を躍らせ、村は温かな笑顔であふれた。
その夜、家に帰る道すがら、イリナは妙に静かだった。
「どうしたの?」
「兄上…今日、我輩は魔王らしかったか?」
意外な質問に、俺は立ち止まった。
「うん、とっても魔王らしかったよ」
「だが、魔王は人を助けるものではないはず…」
「イリナが作る新しい魔王像でいいんだよ」
「新しい…魔王像?」
「そう。世界一優しい魔王。イリナにしかなれない魔王だ」
イリナは少し考え込んだ後、小さく頷いた。
「ふむ…それもよかろう。我輩だけの魔王道か…」
肩を並べて歩きながら、俺は今日の出来事を思い返していた。
そして、確信した。
この子は、きっと世界一優しい魔王になれる。
夜空には星が瞬き、雲間から零れ落ちた月光が、イリナの小さな角を優しく照らしていた。
それはまるで、これから始まるイリナの旅路を、静かに祝福しているかのようだった。