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第1章②「妹が魔王っぽくなってきた件」

夕暮れ時、俺たちは日課の「魔王観察」を終えて家路についていた。と、言っても、それは俺がイリナの様子を観察するというより、セリスが黒い革表紙のノートにイリナの一挙手一投足を克明に記録していた時間のことだ。


「兄上、今日の観察は終わりか?」


「うん、お疲れさま」


「ふん、我輩の偉大さを記録するのは当然だがな!」


セリスは満足げにノートを閉じた。


「魔王因子の発現は着実に進行しているわ。特に感情の起伏が大きい時に魔力の波動が出ているのが特徴的ね」


「それって悪いこと?」


俺は少し心配になって尋ねた。


「いいえ、正常な成長過程よ。でも…」


セリスは珍しく言葉を選ぶように間を置いた。


「でも?」


「伝説の魔王たちは、皆『覚醒』という段階を経ているわ。感情が爆発し、制御不能となった時に…」


「我輩も覚醒するのか!」


イリナは目を輝かせた。まるで遠足を楽しみにする子どものような無邪気さだ。


「イリナ、それは危険なことなんだよ」


俺は優しくイリナの肩に手を置いた。


「むぅ、危険?」


「そう、覚醒した魔王は…」


セリスが淡々と続けた。


「歴代の魔王は恐怖と破壊をもたらしたわ」


「セリス!」


俺は思わず声を上げた。そんな残酷な話を6歳の子どもにすることないだろう。でもイリナは…


「ふむ…それは効率が悪いな」


意外な反応だった。


「え?」


「だって、我輩の民草が減るじゃないか。」


「あら、興味深いわね」


セリスが目を細めた。


「イリナ、その考え方、とても大事だよ」


俺はほっとして頭を撫でようとした。が、ふと違和感を覚えて手を止めた。


「イリナ…その角、また大きくなってない?」


イリナの額には、以前より明らかに大きくなった二本の角が突き出ていた。金色に輝く小さな角は、今では人差し指ほどの長さになっている。


「ふふふ、我輩の威厳の証、立派になったであろう?」


「見せて」


俺は慎重にイリナの角に触れた。柔らかい皮膚から生えた角は硬く、少し温かい。魔力が宿っているのを感じる。


「痛くない?」


「痛くはないが…時々かゆい」


「かゆみか…」


セリスもメモを取りながら近づいてきた。


「純粋な魔王の証ね。魔族の王の血筋だけが持つ特徴よ」


空が完全に暗くなり始め、家々の窓に明かりが灯り始めた。俺たちも家に急いだ。




家に着くと、イリナは急いで洗面所へ走った。


「兄上! シャンプーの時間だ!」


「わかった、すぐ行くよ」


シャンプーは大事な日課だ。イリナの角を傷つけないよう、特別な石鹸で丁寧に洗うのが俺の仕事。


洗面所では、イリナが既に湯船に浸かって待っていた。小さな体に似合わぬ堂々とした態度で、湯船の王様のように座っている。


「民よ、来るのが遅い!」


「はいはい、魔王様」


俺はイリナの後ろに座り、優しく髪を濡らした。角の周りは特に注意深く。


「兄上、我輩は本当に魔王なのか?」


突然の質問に、手が止まった。


「…どうして?」


「だって、真の魔王なら、もっと怖くて、強くて…」


「イリナは十分強いよ」


「だが皆、我輩を怖がらない! 村の子も、兄上も!」


ポチャンと水の音がした。イリナが不満そうに水面を叩いたのだ。


「それがどうして悪いことなの?」


「魔王は恐れられてこそ魔王だろう! 兄上もセリスも言っておった!」


確かにセリスはそんなことを言っていた。だが俺は…


「でもね、イリナ。本当の強さって、恐れさせることじゃないと思うんだ」


「むぅ?」


「本当に強い人は、周りを幸せにできる人だと思う」


シャンプーの泡をイリナの頭に乗せながら、俺は言葉を選んだ。


「もし俺が選べるなら、恐れられる魔王より、愛される魔王になってほしい」


「愛される…魔王?」


「うん。皆が喜んで従う、優しい魔王。強くても、その力で人を助ける魔王」


イリナは黙って考え込んだ。泡の帽子をかぶった姿は、どこか可愛らしい。


「難しいことは分からんが…兄上がそう言うなら…」


「無理に従わなくていいよ。イリナが自分で考えて、自分の道を選べばいい」


「我輩は…兄上と一緒がいい」


ぽつりと呟いたイリナの言葉に、胸が温かくなった。


「ありがとう、イリナ」


「ふんっ! 当然の報いじゃ! 我の仁慈に感謝するがよい!」


急に恥ずかしくなったのか、イリナは顔を真っ赤にして叫んだ。


「はいはい」


「…でも、愛される魔王、悪くはないかもしれん」


小さく呟く声が聞こえた気がした。




寝る前、イリナの部屋でどんな絵本を読むか選んでいた時だった。


「兄上、我輩はどこから来たのじゃ?」


唐突な質問に、俺は絵本を選ぶ手を止めた。


「それは…」


「我輩には記憶がない。だが魔王ならば、もっと立派な城や、従者がいてもよいはずだ」


「イリナとは森で出会ったんだよ」


この質問は覚悟していた。いつか聞かれる日が来ると。


「森?」


「うん。五年前、俺が山で薬草を採っていた時、森の奥から泣き声が聞こえてきたんだ」


「泣き声…我輩の?」


「そう。小さな赤ちゃんが、光の中で泣いていた」


実際は、漆黒の闇の渦から赤い光を放つ赤子が現れたのだが、その部分は伏せておいた。


「そこにはイリナしかいなかった。俺はイリナを抱き上げて、村に連れて帰ったんだ」


「兄上は…我輩の本当の兄ではないのか?」


イリナの目に涙が浮かんでいた。


「血は繋がってないかもしれないけど、俺はイリナの本当の兄だよ」


俺はイリナを優しく抱きしめた。


「でも、我輩は魔王で…兄上は人間で…」


「そんなの関係ない。家族は血が繋がってるかどうかじゃない。大切に思う気持ちが繋がってるかどうかだ」


イリナの小さな体が震えた。


「我輩を…捨てないか?」


「捨てるわけないじゃないか」


「角が生えていても? 魔力が暴走しても?」


「どんなことがあっても、イリナはイリナだよ。俺の大切な妹だ」


イリナはぐっと俺の服を掴んだ。


「約束するか?」


「約束する」


「魔王の名にかけて誓え!」


「魔王イリナの名にかけて誓います」


俺は真剣に答えた。するとイリナは満足げに頷いた。


「よろしい。我輩も兄上を捨てぬことを誓おう」


「ありがとう」


「…眠い」


イリナはあくびをした。


「じゃあ、今日の絵本は…これにしようか?」


俺は『優しい竜の物語』という絵本を手に取った。


「うむ…」


イリナはもう半分眠っていた。


俺は絵本を読み始めた。それは、恐れられていた竜が、実は村人を守るために火を吹いていたという物語。最後には村人と仲良くなる。


読み終える頃には、イリナはすっかり眠りについていた。小さな寝息を立てる姿は、魔王というより、ただの可愛い女の子だった。


「おやすみ、イリナ」


俺はそっとイリナの額にキスをした。角が指に触れる。


この子が本当に魔王だとしても、俺は構わない。俺はこの子を守り、育てる。


たとえ世界を敵に回すことになっても、俺はこの子の味方だ。


いつか魔王の力が目覚めたとき、正しく使えるよう導いてみせる。


そして——世界一優しい魔王に育ててみせる。


部屋を出て、自分のベッドに身を沈めながら、俺は固く誓った。


どんな困難が待ち受けていようと、イリナのためなら、何だってやってみせる。


そう心に決めたまま、俺も深い眠りへと落ちていった。






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