終章 第1話 アビス
◇◇◇
私、御園透架は走っていた。
世界はいまだ昏き青に覆われている。
今から20分前に時を遡る。
小金崎さんが水凪の捜索に向かってから随分な時間が経過していた頃のことだ。
地下体育館にて焦りを募らせる私の元に、在校生の通信を担当しているという東雲先輩から連絡が入る。
その内容は――学園外にて新開水凪さんを保護して保健室に送り届けたこと、学園内にて倒れていた小金崎灯さんを回収し、同様に保健室へ搬送したというものだった。
水凪が無事だと伝えられて私はホッと胸を撫で下ろすのだが、安堵も束の間――その連絡から数分後の出来事、私は続く連絡の内容に凍りつくことになる。
連絡の内容、それは。
――水凪が保健室から消えたというものだった。
連絡の内容を耳にした私は、その後の一切を衝宮さんに押し付け、背中にかけられる静止の声を振り切り、地下体育館を飛び出していた。
私は冷静さを欠いていた。
無我夢中で、先のことは何も考えていなかった。
私は走った。
衆人環視の状況からの脱出。
いまだ続く怪物との戦闘。
水凪の行方――懸念される要素が多すぎる。
しかし、私は迷わなかった。
それは私の感覚器官、細胞、精神――魂にいたるまでの全てが、運命とも奇跡とも形容できる出会いが――私を突き動かしていたから。
普段使わないようにしている透明のカラーを解放して、ただひたすらに水凪の姿を求めて足を動かす。
私は走る――色に導かれるままに。
◇◇◇
世界はいまだ昏き青に覆われていた。
人はしばしば、黒く染まる青を深き青色――深海と形容する。
その名を冠する魔女アビスは残り少ないカラーを魂から垂れ流しつつ、命を繋ぐために世界を彷徨っていた。体を失って魂だけの状態となった魔女は、魂を保護する器となる肉体がないため、そのカラーを垂れ流し続けているのだった。
魔女の命は風前の灯火であり、その心には恐怖という感情が芽生え始めていた。
「くそ、我が人間ごときに……」
自分がなぜこのように無様な姿を晒しているのか、いまそのような問いはどうでもよかった。考えなければいけないことは別にある。
魔女は自分に情けをかけた人間を後悔させるために、まずは生きることが必要だった。
それが全てにおける最優先事項であり、それ以外のことは瑣末なことだった。
魔女が生きるためには食事――カラーの補給に加えて、カラーの流出を止めることを兼ねた――魂の器となる入れ物が必要だった。
いかに強大な魂を持つ魔女といえど器を持たない魂だけの状態では、食事によってカラー補給をしてもその場しのぎにしかならず、いたずらにカラーを浪費して消滅を待つだけの存在となる。
いまはまだ、自分という存在が今日目覚めた瞬間に展開した青のカラーエリアが機能していることで、なんとか消費を抑えられている状態だった。
しかしこのカラーエリアも自分がカラーの供給を止めたことでまもなく消滅する。
魔女に残された時間は少ない。
だが逆に器となる肉体さえ確保してしまえば魔女が消滅することはなく、カラーの回復に専念することができる。
一つの問題を解決さえしてしまえば、並べられた牌を倒すように、綺麗に問題が解決するはずなのだ。
まだ諦めるには早い。
生き残る術は残されている。
「まだ、まだ死にたくない。早く人間を――器を見つけなければ」
魂だけの状態で幽鬼のように辺りを彷徨う。
そもそも魂だけの状態で行動できることが生物の常識からかけ離れているのだが、それはCEMの頂点たる魔女のアビスには関係のないことだった。
「しかしあのような化け物染みた人間がいるとは……聞いたことがない。人間は弱いくて群れるしか脳のないやつらだろう……。おのれ、おのれッ、おのれェェェェ――――ぐっ」
あの人間のことを思い出すだけで怒りが込み上げる。下等生物に好き勝手されたことはアビスのプライドを傷つけていた。同時にあの人間の内側から出てきた怪物に対して抱いた恐怖が本物であることも真実なのだと、アビスの本能は告げている。
「だが、万全の状態ならば負けることはない。絶対に我が負けることはないのだ。恐れる必要などなくなる。だからいまはこの屈辱を受け入れて、回復せねば。――早く出て来いッ人間ッ……我の器になれることは名誉なことだぞ」
万全の状態であれば自分の勝ちを確信するアビスは屈辱を受け入れて器となる人間が出てくるのをじっと待った。もはや選り好みもしないと自分に言い聞かせていたのだが……先ほどから肝心の人間が見当たらないのだ。
ここは人間の巣とも呼べる場所だと記憶しているのに、一人も見当たらないのはどういうことだろうとアビスは首を傾げる。
別のCEMたちが残らず食い散らかしてしまった?
――それにしては街が綺麗すぎる。街にあるのは破壊の爪痕だけで、血の跡が見当たらない。人間が負傷すれば赤い血を流すはずだ。
多くのCEMが暴れた状況で血が流れなかったとでも?
この襲撃が人間に予測されていて、周到に迎撃の準備が進められていた?
――何かがおかしい。
――自分の知らない何かが。
早く器を手に入れなければ。
器を手に入れさえすれば、この恐怖からも解放される。
魔女は静まり返った大和の街で、迫りつつある死に怯えながら器を求め、彷徨う。
この時、大和の街――その全区画には非常事態警報が発令されており、人々はシェルター指定施設へと避難しているために建物の外にはいなくて当たり前なのだが、そのような人間たちの事情を魔女のアビスが知る由もなかった。
「人間、以前はあれほど群れていたやつらが、なぜ一匹も見当たらないッ。出てこい、出てこい、出てこいッッッ!!! その体を我が使ってやるのだぞ!!!」
そのように魂だけの状態で彷徨い、叫ぶ魔女の前に――1つの影が現れた。
それは魔女の知る限り、人間の形をしていた。
世界は自身が発生させたカラーエリア――昏き青の膜で覆われているせいで、その人間の顔はよく見えなかった。
しかし今はその容姿を気にしている場合ではない。多少の見てくれの悪さは我慢してやる。器として機能するならばなんでもいい。
アビスはそう考え、自身の幸運に歓喜した。
「見つけたァ。ついに見つけたぞォ。アッハッハッ、キッヒャッヒャッヒャッ!」
――自分はまだ生きることができる。自分の生が続くことを確信した笑み。
――自分はまだ黒き神に見放されていない。自分が選ばれた存在だということを再確認できたことの笑み。
世界を統べる黒き神に感謝しながら、魔女は人間との距離を詰めた。
人間は近づいてくる魔女に気づきもせず、ふらふらとおぼつかない足取りでどこかに向かっていた。
こいつは格好の獲物。
強者を生かすため、その糧として存在する弱者。
この人間が強いカラードであれば抵抗されたのかもしれない。しかし至近距離まで接近して気づかれていないことから、魔女はその想定は無用だと切り捨てる。
相手を弱者だと確信して魔女は笑みを浮かべていた。
そして人間を自分の器とするために魂に触れようと手を伸ばす。
1年前の人間にそうしたように、まずは体に取り付いて、その全身を犯すように入り込み、生物の根源たる魂へと――朧げになって頼りない自分の手を伸ばす。
そして触れる。
人間の――魂へ。
「なんだ……この、カラーは。なぜ、我のカラーを。違う、似ているが……ここまで魔女のカラーに近いカラーを人間が持っているなど……」
人間の魂に触れた魔女は混乱した。
それは人間の魂から出力されるカラーが、あまりにも自分のカラーと同質だったからだ。
ありえない。
なんだこれは。
世界の真理として生物は、その生物の種類ごとにカラー保有量の平均値――その差異はあれど、全ての生物は基本的にカラーを保有している。
つまり、器にする生物はなんでもよかったのだ。
ここが人間という生物の巣で。
その中の1個体を器にしようとしたというだけで。
そして大量にいる人間の中で、出会った個体に取り憑いただけで。
これはただの偶然、神の気まぐれ。
取り憑いた人間の顔が1年前と酷似しているのも、ただの偶然だった。
つまり取り憑いた人間のカラーが自分のカラーに酷似しているのも、ただの偶然であるはずだった。
そして――魔女に触れられたヒトは、アビスの存在を認識した。




