3章 第32話 涙が枯れても
◇◇◇
足が動かない。
水面から顔を出した小さな水龍が、巻きつくように俺の両足に絡みついていた。
俺は魔女の力によって拘束されている。
蟻型CEMの大群は駆けつけてくれた緑川が片付けた。
頼もしすぎる助っ人の登場に涙が溢れそうになった。
だからあとは俺が魔女を倒せばいい。
そう、それだけ。なのに――
「でかいな――倍に膨れ上がったならまだしも、4倍はある、か」
水龍――巨大な水の龍。
いままで5mほどの全長だったものが20mほどの大きさにまで巨大化していた。あれだけの大きさ――質量があれば、学園のように構造的な強度を持つ建築物でさえ、どれだけの被害を受けるかわからない。
最悪、学園区画自体が破壊し尽くされる。
そんな想像さえできてしまうほどの圧迫感。
災害――そんな例えが頭によぎる。
こんなものは技でも能力でもない。
全てを飲み込み破壊する悪夢だ。
それが1個体の意思の元で振るわれるのだからたまったものではない。
災害によって人間の命は塵の如く消し飛び、そこには何も残らない。
この攻撃は絶対に止めなくては。
「ふ――」
俺は絶望的な状況を前に息を整えた。
巨大な水龍――目の前の現実に圧倒されながらも、考える。
思考を回転させ続ける。
諦めるのは全てが終わったときだと、そう決めていた。
先入観に囚われてはいけない。
あれもカラーを使用した技の1つだ。
俺たちカラードの攻撃は使用者の意思、もしくはCEDの停止によってカラーが発生させた現象が消失する。
これには例外もあり、拳銃の弾丸のような発射後にコントロールすることを想定していない物にカラーを込めた場合はその限りではない。
逆に弾丸をコントロールして命中させる使い方をしているならば、弾丸は途中で制御を失い、世界の物理法則に従って行動する。
では魔女の場合はどうだろうか。
カラードも魔女も、元を辿ればカラーを使う生物に変わりない。
つまり現象の消失に関しては、魔女に対してもカラードの理屈を当てはめて考えることができるのではないだろうか。それを前提に考えた場合、水龍は出現させた後も自分の意思でコントロールすることを想定した技であることは間違いないだろう。
つまりカラードの理屈の上であれば、魔女の意思が途絶することで水龍を消すことができるかもしれないのだ。
「決まりだ。……やってやるさ」
突飛なアイデアだが、現状思いつく策の中では現実的なほう……だと思う。
あの水龍と真正面からぶつかる手もあるにはあるが、こちらのカラーが切れた瞬間に再び水龍を出現させられて詰む未来が容易に想像できてしまうので、その方法は最終手段にとっておくことにする。
よし、やることは決まった。
水龍が攻撃に移る前に速攻で魔女を倒して。
すべてを決着させ――
「ミsOノkUん」
その声は近かった。耳元で囁く声。
それは魔女の声で同時に先輩の声でもあった。
魔女は母が子を抱きしめるようにして動けない俺を抱きしめた。
先輩の体の柔らかさに包まれるも、冷たい、という感触に俺の心が軋みを上げる。
魔女の冷気が俺を犯して抱きしめられた体からは力が抜けていった。
立つことさえままならない俺は脱力して魔女に体を預ける。
「く、そ、うごけ……」
動かない俺の体。
眼前に迫る巨大な水龍。
俺を抱きしめる魔女。
魔女に抱かれた俺は何もできないままに、右手へカラーを集中させて先輩の槍を必死に握り締める。
そして――視界は水龍の開けた大口に呑み込まれ、世界は青く染まった。
「みソのくん」
暗い世界で声が響いている。
誰かが俺の名前を呼んでいる。
その世界には何もなくて、手に持っているはずの先輩の槍さえ見当たらなかった。
「みそのくン」
何もない世界で優しい声が――僕を……俺を呼んでいる。
「――先輩?」
俺は自然とその言葉を口にしていた。
そして俺の期待に応えるように、理想を叶えるように。
振り返った先には――
先輩がいた。
「御園クん」
先輩は微笑んでいる。
あのときも、いまも。
いつだって先輩は俺に優しい。
出会ったときの先輩の笑顔は優しくて、太陽のように暖かかった。
僕の、俺の心に光を当てて優しく包んでくれた。
その行為の根源が何か別の意図を含んでいたとしても、俺が救われたこと、感じたぬくもりの暖かさが変わることはない。
だから、俺が先輩の温もりを忘れるはずがない。
失ったものは俺の中で永遠に生き続ける。
「先輩……俺……」
彼女に対して何を言葉にすればいいのか。
それは1年前のあの日から決めていた。
俺は言わなければならない。伝えなければならない。
たとえそこにいるのが――先輩の影法師のような存在だったとしても。
回想されるあの日の真実――太陽が眩しかった、あの日。
誰にでも役割があることを知った。
でも、その役割を果たせない人はどうすればいいのか。
あの日の俺は答えられない。
それは無知だから?
――違う。
怖かったからだ。
「弱い人はね。特別な施設に送られて二度と帰ってこないんだ。この世界で生きることすら許されない。大和はそういう場所なんだよ」
自分の住んでいる場所は平和な世界で、世界の他の場所で起きている悲惨な出来事にも『ああそうなんだ』、と他人事。
平和な世界に生きる自分には関係のないことで、全てはテレビの向こう側にある景色のはずだった。
あの日の俺は自分の置かれている現状を直視するのが怖かった。
「そ、そんな……じゃあ先輩は見たんですか? 学園区画の禁止区域みたいに、ただの噂に尾鰭がついただけ――」
「私のお父さんがそうだった」
僕の言葉を切るように放たれた答えはあまりに鋭利で、残酷だった。
その言葉は僕の無知を白日の元に晒す。
それから先輩は淡々と現実を言葉にしていく。
僕の見ていた現実はただの虚構で、ガラガラと音を立てて簡単に崩れていった。
「私の父は精神的な疾患を抱えていてね。それが肉体的なものだったら大和の最先端医療でどうにかできたのかもしれないけど、父の病は治療が困難な難病だった。たとえ医療がどれだけ進歩しても、人間は自分のことさえわかっていないんだって呆れたよ」
肉体の治療技術はこの100年で大幅な進歩を遂げた。失った肉体を復元する再生医療を筆頭にして技術が進歩、発展し、多くの人間を救ってきた。
「その日は職場でトラブルを起こしたとかで連れていかれてさ。そのまま何の連絡もないまま消えてしまった。そして数日後に父が亡くなったと管理センターから私の元に連絡がきた。それも火葬まで済ませたからって遺灰の格納番号を通知してきたんだよ。こんなことって、ある?」
自分の家族が消えて、死亡が知らされ、火葬まで……。
「遺体と対面もできないなんて、普通はおかしいと思うじゃない。私も学園のことでいっぱいいっぱいだったけど、唯一の肉親の最期くらい確かめたいと思って色々と調べたんだ」
先輩は行動した。おかしいと感じたことをそのままにせず、行動したんだ。
「そうしたら最後に父の場所を示すマーカーが表示されたのが学園区画と研究区画を隔てる区画間外壁の中だとわかってさ。学園区画内でいえばちょうど禁止区域の端にあたる場所、そこは本来電磁車両紫電でしか通れないはずの区画間通路だった」
一般人が絶対に訪れることがない場所。
そこに先輩の父親がいた……?
「私はそこで見てしまったんだ。大和が、使えなくなった人間を使って実験をしている光景を」
僕たちが見ている平和な世界。
それは権力者が作り上げたまやかしに過ぎなかった。
「私はね、透くんに生きて欲しい。君のような人間は遅かれ早かれ潰れてしまう。大和に実験材料にされてほしくないの」
それは先輩の切なる願いだった。
先輩がどうやってその場所にたどり着いたのかはわからない。
それでも、その願いが偽りでないことは確かだった。
「――だから特別科に転科して私と生きて欲しいんだ。私と一緒に生きてくれるなら、身の安全は神父様が保証してくれる。だから、だからさ――」
それは願いであり、遠回しな告白だった。
残酷な真実と僕を誘う言葉。
それを僕は――拒絶した。
「僕にカラーの素質なんてないですし、特別科に転科するなんて無理ですよ」
言葉を否定された先輩は、身振り手振り大仰な仕草で矢継ぎ早に言葉を作る。
「透くん、君には素質があるんだよ。君が大階段で受けた重圧、あれは世界のカラーに適応できるかを試すものなんだ。そして君は倒れるほどの圧を受けた、それは君が選ばれた証拠なんだよ。それはすごいことなんだ。君には才能が眠っているんだ。私の言う通りにすれば他の人を圧倒できる、見返せる力が手に入るんだよ」
素質がある。
才能がある。
それを大好きな人から言われるのは嬉しいことだ。
「でもいまの君にはそれを制御するだけの力がない。だから劣等感を抱いて生きている。そんな人生は嫌でしょ、抜け出したいでしょ。神父様の言う通りにすれば力を使えるようになる。自分を馬鹿にしたやつらを見返せるし、大和に消されることもない。なんなら大和の外に出ることだってできる。神父様ならそれを叶えてくれるよ」
力は欲しい。
弱い自分が嫌になる。
だけど。
だけどさ。
違うんだ。
僕にとって大事なのは。
「透くん――私のために全てを捨てて。その覚悟があれば私たちは何にも縛られることなく、見下されることなく、自由に生きていけるから」
大好きな先輩と生きるために必要なのは覚悟だけ。
先輩のために全てを捨てる。
――ああ、できる気がする。
その時、先輩の体から極彩色が広がって僕を包み込もうとした。
しかし、その黒が僕を覆うことなかった。
極彩色は何かに弾かれ、世界に溶けるように霧散する。
「透……くん?」
その色が弾かれたことに驚きと、どこか安堵を滲ませた表情を見せる先輩が僕の反応を窺う。
「僕は生きたい、先輩と生きたい。それは本当の、嘘偽りない僕の気持ちです」
僕は先輩と生きたい。
先輩のことが好きだ。
だけど――続く言葉は。
「すいません。僕は――先輩の手を取ることはできません。僕には妹がいるんです。たった1人の血の繋がった家族で、来年には鬼庭学園に入学するって意気込んでいて、いまも勉強を頑張っています。お兄ちゃんお兄ちゃんって兄離れもできない病弱な妹ですが、とても愛しいこの世でたった一人だけの――大切な家族なんです。僕は妹を一人にできない、裏切れない。たった一人の家族だから」
僕の全てを捨てる――そう考えて頭に浮かんだのはたった1人の家族の顔だ。
僕にとって妹を裏切ることは、自分の人生を投げうつよりも、全てを捨てる覚悟を決めるよりも重く、その選択は選べなかった。
もしも。
僕に妹がいなかったら。
家族がいなかったら。
この震える手を取っていたのかもしれない。
だがその仮定は考えるだけ無駄なものだ。
僕は先輩よりも妹を選ぶ。
それが偽りなき真実なのだから。
「そっかぁ……。そうだよね。いきなりごめん。今の会話は忘れてもらうから気にしなくていいよ。悲しいけど、嬉しかった。きっと、君は君のままでいいんだ。さようなら……透くん」
屋上で交わした言葉と告げられた真実。
俺は家族を言い訳にして先輩を拒絶した。
先輩がどのような心境でその言葉を告げたのか。
俺は先輩の過去を知らぬままに、先輩のことを拒絶した。
そして僕は屋上で交わされた言葉の全てを忘れたまま教室で色彩基礎の授業を受け、ホームルーム教室に向かい、禁止区域へと赴き――先輩と離別することになる。
この会話を思い出したのは、先輩を殺せなかった後のこと。
病院の医療ポッドの中で目覚め、妹を名乗る魔女に出会ったときのことだ。
魔女――スケルティアが僕の記憶の封印を解いた。
涙が止まらなかった。
瞳から溢れる涙が枯れても、心が流す涙は止まってくれない。
自分が情けなくて、ただただ泣き続けた。
でも、だからこそ。
いまこの時。
この選択に――涙は必要ない。




