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3章 第13話 コーヒーを泥水と馬鹿にして

◇◇◇

 世界は嘘で溢れている。


 嘘は自ら気づかなければ、永遠に真実のままだ。





 外の喧騒が嘘のように静まり返った職員室、俺はすっかりぬるくなったコーヒーを啜り、これは1年前と同じだなと、目に入った日付に味気ない感想を述べてみる。



 豆から挽いた手製のコーヒーはとても苦い。



 しかし時間の経過とともに温もりを失って香りが落ち、その苦味は薄まって感じられた。



 時間によってうつろう中途半端なこの味も飲み続けていれば慣れるというもの。




 自分の中ではコーヒーの味にこだわりがあるのは確かなのに淹れた時点で満足してしまうのは、やはり飲んでもらう相手がいないせいだろう。



 俺、坂村英輔はコーヒーを啜りながらそんな停滞を噛み締めていた。



 「去年は御園が駆け込んできたんだよな……」



 虚無感に支配されていたせいかコップの中身が空になっていることにも気づけない。



 コーヒーを啜ろうとして口の中に入ってくるのは味のない空気だけ。



 大人になると刺激に対して鈍くなる。



 『ああ、またか』と無反応になっていく。



 諦めることに慣れてしまう。



 一種の諦観がもたらす虚無に支配されるということが大人になるということなのかもしれない。



 早く大人になりたいと言う子供がいるが俺は子供のままでいてほしいと思う。



 無知は罪などという輩もいる――それがある意味では正しいことであれ、全てにおいて正論が正しいとは限らない。



 それが偽りだとしても、先のことなど考えずに日常を謳歌することが子供に与えられた特権だろう。子供はその純粋さを大切にして、世界と自分を見つめながら自分の理想を描いて進んでほしい。



 前に進めないこともあるだろう。


 後ろに戻ったと感じることもあるだろう。



 それでも。



 自分の理想を叶えようとする自分自身を、その心を大切にしてほしい。



 俺は心の底から子供たちにはそうあって欲しいと思っている。



 ああ、それなのに――



 「御園……お前はまた、自ら苦しい方へと進むのか……」



 俺は1年前と同じように懲りることなく、手塩にかけた豆をコーヒーメーカーに突っ込んだ。



 浅煎りで焙煎された豆は酸味が強く、苦味が弱い。



 焙煎時間は短いくせに、その時間でカロリーを豆全体に通さなければいけないため難易度が高い。



 その向き合う時間を経て、コーヒーを蒸らしてからコップに注ぎ――気づく。



 やはり俺は手をかけて何かに向き合うのが好きなのだ、と。



 でも。



 それで俺は何をした?



 向き合うのが好きだと言いながら、手塩にかけたコーヒーの苦味を無駄にするように生徒たちのことを見捨ててきたのではないのか。



 淹れたてのコーヒーが立てる湯気、それが世界に溶けていくのをただ見つめる――1年前と同じ光景、全てを諦めて何もしなかった自分がそこにはいた。



 「………………」



 それでいいのかと鏡が問いかける。



 それはマグカップに注がれたコーヒーに映る鏡の自分だった。



 くたびれた中年教師――坂村英輔の顔には年相応の皴と剃り忘れの髭、たるんだまぶたがあった。コーヒーのことを泥水と馬鹿にして形容することがあるが、その表面に映る醜く汚い自分はまさにそうだなと感じる。



 昔はそのまぶたで輝かしい未来を夢想していたのではなかったか。



 1年前に御園が見せた勇気と、今日までの生き様――対して私はどうだ、何もできず学園からの圧力に屈した弱い大人で、彼の見せる色の輝きとは比較するまでもなく光を忘れた最低の人間ではないのか。



 いや、何もできなかったのではない。


 何も、しなかったのだ。




 上からの圧力など跳ね除けて子供を守るのが大人のあるべき姿なのではないか。



 ましてやそれが教師であるならば、なおさらだろう。



 いま、再び教え子たちが戦いの渦中に飛び込もうとしている。



 「俺がいま何をしたところで贖罪には遅いのだろう。死んだものは生き返らない。時間は巻き戻らない。失われた命は決して元に戻ることはない。だが、せめて……御園たちの痛みを少しでも和らげ、肩代わりできるならば――その行動には意味があるはずだ」



 俺は覚悟を決めて自分にできることを実行する。



 机の引き出しに手をかけ、鍵をかけてしまい込んでいた電子端末を取り出した。



 俺は電子端末が壊れていないことに安堵しつつ、保存されているデータをタップする。



 『開きますか?』



 ポップアップする簡易的なメッセージ。



 『パスコードを入力してください』



 続いて暗証番号の入力が求められる。



 これは俺が1年前から所持していたものだ。この中のデータには特別科の教諭ならまだしも普通科の自分には閲覧の許可されていない情報が入っている。



 鬼庭学園の裏側――大和管理センターからの圧力に不穏なものを感じ取った俺は、何かあるのではとハッカーの友人に頼んで情報を盗み出してもらっていたのだ。



 そのデータは開かれることなく、そのまま1年間放置されていた。覚悟も勇気もなく仕舞いこんでいた資料、それを開くときがきたのだ。



 「俺の職員生活も終わりか。いや……それもいいのかもしれんな……」



 非常事態の発生に際して普通科の職員は地下体育館に集められている。



 俺は有事に備えて1人職員室に残ったわけなのだが、偶然にも周囲の目を気にしなくてもいい空間になっていた。



 俺は震える手でハッカーの友人から教えてもらったパスを入力し、フォルダのロックを解除――その中に目を通す。



 フォルダの中には何かの計画書と、それに付随する報告書のデータが入っていた。



 フォルダのデータ総量はかなり多い。



 短時間で全てを読み込むのは難しいか。



 「これは禁止区域の封鎖理由……それに復旧工事が行われていない理由か?」



 時間が惜しいのでさらっとデータを斜め読みしたにすぎないが、この資料の危険性は十分に伝わってきた。



 「そんな……ということは。まさに今日、1年前と同じことが起きる――」



 この情報を急ぎ御園に伝えなければならない。



 これ以上悲しみを世界に生まないために、大人として子供を守るために行動する。



 今更遅いと言われようとも構わない。



 立場など関係ない。自分の意志で子供を守るのだ。



 俺はカラータグの通話機能を介して御園へと連絡を試みていた。



 「くそっ繋がらない。なんでだ……」



 御園への通話は繋がらなかった。



 彼の友人である片桐にも通話が繋がらない。



 非常時に際して鬼庭学園は、基本的な行動指針を卒業生、在校生、新入生で分けており、さらにそこからクラス単位で割り当てている。



 現在の御園のクラスに連絡先を知っている生徒がいればいいのだが、教師には自分が受け持つクラスの生徒の分しか番号が開示されていないため、普通科の教師である俺には特別科クラスの情報が取得できず、連絡がとれない状況になっていた。



 以前受け持っていた生徒の情報はカラータグの基本情報が書き換えられない限りそのままなので、連絡先の情報も必然的に残ることになる。



 御園への連絡自体は容易に行えると思っていたのだが、ここにきてトラブルが発生するとは。



 連絡がつかない理由は何者かによる妨害ではないか――危険な資料を閲覧した後だからか、そのような可能性に思い至る。



 先ほどは周囲の目がないことを喜んでいたが、いまは他の先生方と一緒にいないことが足を引っ張っている。



 いや、御園のクラスメイトや担当教師を探さなくても、やりようはあるはずだ。



 「どうすればいい……考えろ。何か方法があるはずだ」



 この際、教室を手当たり次第に巡って御園のクラスの通信担当に直接繋いでもらうという手もある。



 「いや、これはダメだ」



 それは可能性が低いように思えた。



 何より時間がかかりすぎるし、普通科の一教師にすぎない俺が特別科のクラスに行ったところで、怪しまれて話をすることさえ叶わないということも考えられる。



 「いや、まだ手はある……この情報を託せるやつが、1人いる」



 俺は最後の1人に希望を託し、その番号をコールする。




 ――頼む……繋がってくれ……。




 1コール、2コール、3コール。


 1つのコール音がやけに長く感じる。




 自分の息遣いが、心臓の音がうるさい。




 「――ッ」


 呼び出しは無事に繋がった。





 「御園が危ない。禁止区域に急いでくれ――」




 俺は相手の返事を待たず、まくしたてるように喋ってしまったが、相手はとても落ち着いていて、こちらの意図も理解してくれたようだった。




 希望は繋がった。

 



 かつての教え子である――緑川龍志の元へと。


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