再びブレイグヘ
後日談 ブレイグ編のはじまりです。
凱旋から一月後、グレンはジェシカを連れブレイグに再び向かうことになった。戦後処理のため、しばらく滞在する事になる。
ブレイグは冬になれば雪のため、ほとんど屋外から出られない。
それまでに冬越しの準備をしなくては、餓死者が続出するだろう。幸い兵役に駆り出された男手が戻ってきている。
ワーズウェントからの物資が届けはなんとかなる算段だった。
ワーズウェント国内からはブレイグ国民はみな奴隷として仕えるべきだとの意見も多数出たが、グレンはそれを一蹴し、復興案を強行した。
これから、それが正解であったことを示さねばならない。
ブレイグの新たな価値を創出しなければならなかった。
今度は同行を許された事に、ジェシカは大喜びだった。
もちろん問題は山積みだが、側にいて一緒に悩むほうがずっといい。
最近体調不良が続いている事が問題だが、ここで医者に見てもらって旅の許可が下りなければ困るので、何とかごまかそうと思っていた。
船と馬とでまた10日余りの旅になる。馬車もあるため、馬に乗れないほどきつければそちらに乗ればいいと軽く考えていた。
「ジェシカ、体調に変化はない?」
ところが、まるで見透かしたかのようにグレンが尋ねてきて、冷や汗をかいた。
「いつもどおりですよ。どうしたんですか?」
ジェシカは前述の理由で、グレンに対してもごまかした。
「いや、特に変化が無いならいいんだ。ブレイグはこれから寒くなるから…用心するに越したことは無いかな…と。」
グレンは歯切れ悪く呟いた。
「寒さには割と強いので大丈夫ですよ。私の育った侯爵領はブレイグよりですし」
最近、過保護過ぎて居心地が悪い。
実は食欲が無く、吐き気がすると言ったらどうなることやら。
何としてもブレイグまで隠し通さねば。ジェシカは固く心に誓った。
出発前日は、しばしの別れとなる兄、アンソニーと昼食をともにした。
「二人ともあっちに行ったらさみしくなるわぁ」
アンソニーは大仰に嘆きつつ、ため息をついた。
「てっきりアンソニーも来ると思ってたのに。まさか、クラウディアさま付きに配置換えになるとはね」
ジェシカと入れ替わっていた際、アンソニーはグレンの政務の代行をしていたクラウディア姫の補佐をしていたそうだ。
その縁もあり、姫のたっての希望とのことだった。要は引き抜かれたらしい。
「嫌よ。あんな何も無いところ。お姉さまと仕事している方がよっぽど楽しいわ。復興まで王子が出張る必要無いのに!」
アンソニーはブレイグに一切思い入れがない為か、辛辣に言い放った。
対してグレンは、自国ワーズウェントよりもブレイグへの思い入れが強い。生まれ育った地なのだから、当然だが。
「仕方ないよ。ブレイグの王家は絶えたし、誰かがあの不毛の地を治めなければ、民は冬を越すことも難しいんだから…」
ジェシカは苦笑いで兄に説明する。
民に罪はないのだ。
「全く、戦争に勝ったって何も利益が無いなんて…」
「戦争が終わってもう誰も死ぬことが無いんだから、立派な利益だよ」
「それはそうだけど…」
アンソニーはまだ不服気に呟いた。
「なんだか、暫く会えない気がするのよ…。早く帰ってきてね?」
「うん。戦後処理は何年かかかるだろうけど、ちょこちょこ帰ってくるから」
ジェシカはアンソニーに明るく告げた。
このあと何年も帰れなくなることになるとは夢にも思わずに………。
ブレイグへ向かう船に乗った初日に、ジェシカは早くも船酔いと戦う事になった。
前回はこれほど気分悪くなる事は無かったのに。
凪いだ海をゆったりと進む船は、それほど揺れてはいない。
けれど、ジェシカは洗面器が手放せないほど嘔吐しまくった。
これでは個室から出られない。
「うう…、気持ち悪い…」
吐き過ぎて喉が痛い。水分を取らないといけないのはわかっているが、飲んだところですぐにもどしてしまうだろう…。
これだけ吐き気が続くと、食欲もまったくわかなかった。
船旅はあと丸六日続く予定だ。その後は陸路で三日。船から降りれば少しは楽になるだろうか…。
そんな状況でも、ブレイグの資料はしっかり目を通しておかなければならない。
頑張って見るものの、何度も同じ部分を読み返したりと、ちっとも頭に入らなかった…。
このままではなんの役にもたたないかも…と気持ちは焦るばかりだった。
そこへ、船室のドアがノックされた。
「ジェシカ?ずっと部屋にこもっているけど具合悪いの?」
グレンが心配して尋ねてきたようだ。
流石に対応しない訳にはいかず、しぶしぶドアを開ける。
「すみません…。どうも船酔いしたみたいで吐き気が止まらなくて…」
「顔色が真っ青じゃないか!早く医者に見てもらった方が…」
ジェシカを見たグレンは顔色を変えた。
「いえ、ただの船酔いでしょうから見てもらわなくても…あと6日、何とか乗り切ります」
「うーん…。食事は食べられそう?」
「いえ、匂いで吐きそうです…。さっぱりした果物とかならなんとか…」
「……それって、本当に船酔い?前からじゃなくて?」
グレンは沈黙したあと、ジェシカに尋ねる。
「船酔いですよ!船に乗ってからですもん!船酔いにきまってるじゃないですか!」
後ろめたいジェシカは、ことのほか強調してさけんだ。
体調不良を隠して旅を強行した事がわかったら、強制送還されかねない。
「だからお願いです。今回は、おいて行かないでください」
必死に、蒼白な顔で王子に訴えた。
「いや、今回は元々一緒に来てほしかったし、今更追い返そうなんて思ってないよ。ただその…」
グレンは、しばし言いよどんでいたが。
「子ども…」
「は?」
急に話の先を変えられて、思わず聞き返してしまう。
「子ども…出来てるんじゃ…?」
「………?え?ええ!そ、そんなまさか!」
ジェシカは驚きのあまり、口をはくはくさせながら答える。
「だって月のものだって…あれ…?」
ん?いつだったかな?…とジェシカは答えに詰まってしまった。
出陣の前はキャロルが細かくチェックしていたが…アンソニーが身代わりになってからチェックのしようもなかったはずだ。
行軍中はそれこそ無いほうがありがたかったので、これ幸いと考えてすらいなかった。
かれこれ3ヶ月ほど来ていない。
もともと規則正しい方では無かったのと、アレコレ慌ただしくて…。
「そういえば………来てません、ね…?え、でも、今まであれだけ夜伽して出来なかったのに?」
「あー………それは…その、まだ二人だけで過ごしたかったから、城にいる間は色々調整してたというか……」
「はぁ!?」
キャロルには、子どもはまだかまだかと聞かれ、うんざりすることが多かった。
グレンは、ここ数年の縁談をバッサリ断っていたので、ジェシカとの婚約が決まったときは感極まった国王に感謝されたほどだ。
そのため、まずは妃を取ったことでお祭り騒ぎだった。
誰も彼も、しばらくそれ以上望むまいという空気が王城に満ちていて、キャロル以外あまりうるさく言われることは無かった。
無かったのだが、お世継ぎは本来1日も早く望まれるものだ。お妃教育でもそこはかとなく匂わされてはいた。
ただ、子どもは授かりものだし、頻繁にやることやっているから、そのうちできるだろうとぐらいにしか、考えていなかった。
なのに、色々調整とは!?
「だって婚約期間すら1年もなかったし、何よりも戦争の事があったから……」
いや、それならますますお世継ぎを残しとかないといけないのでは?
「僕は妾腹だし、姉上もいるから……」
いや、クラウディア姫は未だに独身なのだが。
キャロルが以前ジェシカに呑気だと言っていたのが身に沁みた。
つまりアレコレ調整できなかった狩人の小屋か王城の時に??
それとも帰ってきてから??
「そんな…。ど…どうしたら…。だ、大丈夫なんでしょうか!?」
ジェシカはグレンにオロオロと問いかけた。
「だから出発前にも何度も聞いたのに…。とにかくまずは診察してもらわないと。無理しないよう安静にして、船から降りたら僕と一緒に馬車で行こう」
「もし子どもができてても、帰らなくてもいいのですか?」
それはそれで、お世継ぎ問題として、由々しき事態な気がする。
ブレイグで出産する事になれば、子どもが旅に耐えられる頃合いまで、帰れないのでは…。
「ブレイグで冬越しする事になるだろうけど、もともと2〜3年ぐらいかかるつもりでいたから…」
いや、それですむ問題だろうか?
「…らの子かわからないし…」
グレンはなにかボソボソと小声で呟いたが、ジェシカはよく聞き取れなかった。
「ん?今なんて…?」
「あ、い、いや、どちらにしてももうここまで来たら引き返すのも難しいだろう?船から降りれば後は時間をかけて行けば良いから」
グレンは慌てたように説明する。
確かに今から船を戻すわけにもいかないし、港に着けばブレイグの王城の方が近い。そこまで考えて…
「う、うぷっ……」
またもや吐気に襲われたジェシカは洗面器にダッシュした。
グレンはそんなジェシカの背を優しくさすってくれた。
やはり、ジェシカは身籠ってるのでは。
グレンは最近ジェシカの顔色が悪いのが気になっていた。
「子どもを身籠ったかも」
というロバートの話があったからだ。
薬で身籠りやすくするというのは聞いたことが無かったが、どうもブレイグの民間医療の中には存在するらしかった。
ロバートとグレン、どちらの子でも、グレン自身の子として育てる覚悟だ。
だが、ジェシカをワーズウェントに一人置いていって、不義密通の疑いがかかる事は何としても阻止しなければならない。
その為には、グレンが戦後処理でブレイグに拠点を置く以上、ジェシカを連れて行くしかなかった。
本来安静にしていないといけない期間に長旅をさせるのは非常に悩ましかったが、何度も確認して本人が体調に問題無いと言ってるおり、そもそも身籠っていない可能性もある。
半ば賭けのようにワーズウェントを出発したが…。
部屋に籠もっているジェシカの様子を確認しに行き、吐き気と戦っている姿に遭遇したのだった。
ただの船酔いなら問題無い。
とにかく早く医者に見てもらわなければ。
ジェシカは補佐官をする気満々だが、もし懐妊してるのであれば、やめさせなければ。
あんなにゲッソリしてるんだから、とにかく水分だけでも取らせなければ。
グレンは頭の中でぐるぐる今後の事を想定した。
つまるところ冷静になれずテンパっていた。
今回同行した医師は、もともと王宮勤めでは無かった事が幸いした。
ジェシカに色々問診して、懐妊の可能性が高い事を告げたが、対外的にはジェシカは王都に残っていた事になっているので、王子が戻ってきてから懐妊した前提で、妊娠二ヶ月との事だった。
もしブレイグにいる時にできた子だとしたら、実際のところ一月ほど前に妊娠している事になる。
だが、入れ替わりの件は公になっていないので、あえて医師に告げなかった。
妊娠が確実かどうかは、胎児の心音が確認できて以降になる、との事だった。
妊娠の可能性がある以上、薬は処方できないとのことで、こまめに水分を取り、消化の良いものを取るように指示された。
そんなわけでジェシカは、船旅の間中吐き気に悩まされた。
数日ぶりに陸地にあがり、ジェシカは胸を撫で下ろした。まだゆらゆらしている気がする。
ただ、いくぶん良くなったものの、吐き気は依然残っていた。
「このあとは馬車だけど…頑張れる?」
グレンがジェシカに声をかける。
船の中ではほぼ一緒に過ごし、甲斐甲斐しく世話をしてもらい、本当に申し訳なかった。
「そうですね……。休むより、とにかく、早く着きたいです……」
ジェシカはもう元気だと取り繕う余裕も無く、げっそりした顔で答えた。
「我慢できなくなったら言うんだよ。それから、お腹に何か変調があったときも」
ああ、優しい…。
幌馬車の中には寝具が用意されており、横に洗面器と水差しまで備えてあった。
幌馬車にも抱き上げて乗せてくれた。
グレンのまめまめしさに、泣けてくる。
無理矢理ついてきた事を激しく後悔する。
妊娠初期であれば安静にしてなくてはいけないのに。
まったく実感がわかないが、お腹の中にグレンの子どもがいると思うと、とても不思議な気持ちだった。
万一の事があったらどうしよう…と気が気では無かった……。
戦後処理のためブレイグへ向かうグレンとジェシカです。エピローグにいかにして至ったか。
夫婦と家族の物語を中心に書いて行きます。




