二〇二四年四月二十五日木曜日 時刻不明 Ⅹ
織り上げた糸を掴んだ視線の先に、ひとつの星が瞬くのがはっきりと見える。
私とヤマトを飲み込んだ暗闇ではない。天上にあるものは、間違いなく本物の夜空だった。
「早かったな」
戻ってこれた──と喜ぶのもつかの間、正面には座り込んでいた先生が待ちくたびれたと言わんばかりに声を投げかけてくる。
「あえて言葉にするが、君ならすでに私との実力差を自覚できたはずだ。今の君では、私に勝つことはできない。何度も現実に打ちのめされることが嫌なら、すぐに」
「私は!!」
ここへきて理屈を捏ね回す先生の言葉を突っぱねて、私は顔を上げる。
ヤマトの覚悟のおかげで奮い立った私は、ようやく地に足ついた気持ちで先生を睨む。
「まだ、負けてない」
私の強気な発言に面食らった先生は、なぜか満足そうに微笑んだ。
「よく言った。それでこそ魔女の──」
言い終えるのさえ待たず、私はなるべく近づいて手に持った香水二瓶を地面に叩きつける。
次の瞬間、周囲に目が潰れるほどの閃光が迸った。
「っフラッシュバン!!?」
(先生の言う通りだ。魔法でも魔術でも、今の私じゃ勝負にすらならない……)
予想通り、先生は砂を操って身を守る態勢に入った。
(でも! それ以外で勝負するなら、逆転の目はある!)
遂行の最中ではあるが、ここで作戦のおさらいをしておこう。
まず、芳香魔術で作成しておいた香水一瓶を丸ごとひとつ分複製した。ふたつになった香水にそれぞれ異なる効果を持つ魔法をかける。ひとつは空気に触れると発光・無音状態になるフラッシュバンもどき。
もうひとつが本命。閃光とともに霧散したものは、吸引した者に十秒の間だけ悪夢のごとき幻覚症状を誘発させる、無味無臭の芳香。
「……っ」
──悪夢とはすなわち、その人が見たくもないまやかし、その具現。
「Mutti……!?」
お手本にしたくなるほど素っ頓狂な先生の声が響く。
先生が奇声を上げるのも無理からぬことだ。幻だと頭では分かっていたとしても、自分に縁深い相手が突然目の前に現れたら、誰だって不意を突かれる。
しかし、それが幻覚だと気づいた頃には、もう遅い。
露骨な動揺により魔術が保てなくなったのか、砂のドームが崩れて先生の周囲が一瞬、無防備になる。
畳みかけるように、私は最終兵器を持ち出した。
材料として使用したものは、幸か不幸かヤマトが勝手に飲み込んだ、二月十四日に贈られた差出人不明のエーテル糸。それを借り物の魔法で加工し、作成した道具はふたつ。ひとつは脱出の逸話を持つ、即席の魔法道具。もうひとつは、何の逸話もありはしない──透明であること以外何の変哲もない、先に折り鶴が巻き付いただけのただの縄。
縄を手に、狙いを定め、気配を消して、逆転の瞬間を待つ。
──『いいかい茉楠。喧嘩相手に勝ちたい、コイツにだけはどォ~しても負けられねェってときがきたら、そンときゃ……とことン相手の嫌がることをしな。全身使って観察すンだ。一挙手一投足言葉にも、さ』
今まで謎だった祖母のアドバイスが、不意に頭の中に浮かぶ。この言葉の意味が、ようやく実感できたと思う。
(チャンスは一瞬、一度きり)
もう、逃げたりなんてしない。もう二度と、戦う相手に一秒だって隙は見せない。
(もう、あのときみたいなヘマはしない)
弱さを見せたら最後──次に犠牲になるのは、隣にいる家族や友達かもしれないから。
(目を開け!! 見逃すな!!)
ここにはいない白い鴉を思い、限界まで両目を開ける。己を叱咤し、鼓舞する言葉は最低限に。
ありったけの魔力を手の平から視線の先へ投げ出して、私は喉を切り開いた。
「今だ、ヤマト──!!」
焦ったように先生が背後を振り向いた瞬間、私は彼の首めがけて縄を投げつける。
咄嗟の仕込みと迫真の演技が功を成したのか、縄は見事に先生の首に巻き付いた。私は力任せに縄を引っ張ると、連動してバランスを崩した先生が勢いよく倒れ込む。
当然だが、先生の視線の先には何もない──わけではない。こちらから攻撃を仕掛ける直前、あらかじめ後ろ手で空に飛ばしておいた鶴に向けて、遠隔操作でありったけの魔力を流して気を逸らしただけだ。突然発生した異常な塊の魔力反応に、歴戦の先生が過敏に反応したからこそできた隙だ。
失敗すれば二度とチャンスはない。一発一中で針の穴に糸を通さなければならない気持ちだった。今もそう、口から心臓がまろび出そうなほど緊張している。けれど、暗闇の中で考え抜いた策略が見事成功したせいか、不思議と不快感はない。
緊張感はそのままで、私は喉が張り裂けんばかりに声を荒げた。
「今すぐ降参しろ!! さもないと縛り首にするぞ!!」
「〰〰〰〰っ!!?」
一世一代、一か八かのハッタリだった。
──しかし、目の前の男に対するこの敵意だけは、ハッタリではない。
「ま、参った!! 参っだァ!! こっ……こ、うざ、んっする゛っ。っから、喉絞め……っ!!」
燃えるような激痛にはさすがに耐えられなかったのか、首を絞められた鶏より酷い声を上げて、先生は即座に降参した。
決闘の勝敗は──もはや、語るまでもない。
(勝った)
透明化した縄から手を放すと、安心感と達成感に足を取られて私もその場に倒れ込む。
校舎の屋上から吹き抜ける風が、まるで労わるように汗で湿った肌を撫でた。
(……今までありがとう、私の王子様。いつか、また)
感謝と別れの言葉は音にならず、興奮で茹だった頭は冷えないまま、私は春の夜空を見上げる。
何の価値があるのかも分からない、あまりにくだらない魔女たちの喧嘩を、月だけが見下しているような気がした。
次回の更新予定日は二月十五日です。




