二〇二四年四月二十五日木曜日 時刻不明 Ⅶ
「ヤマトを解剖するのです」
「……」
「あの方ならぬ、おばあ様の知恵袋です。けして血穢袋ではありません。機体を構成する要である魔術式を破壊すればヤマトはいなくなりますが、あなたであれば袋の中身を活用できると信じています。ですので、ヤマトを解剖するのです」
「……」
ヤマトが何を言っているのか、理解できることでも到底受け入れられる言葉ではなかった。
「繰り返します。ヤマトを解剖するのです」
丁寧な念押しを、馬鹿のひとつ覚えのようにヤマトは繰り返す。
これ以上の説明がないということは、つまりはそういうことだ。この場合は言葉通りの意味と捉えていい。十年も過ごしていれば、言葉遣いの特徴ぐらい嫌でも把握できる。訂正もなければ捕捉もなく、虚言でもなければ冗談でもない。
つまり、この空間から脱出するために──黒魔術に捧げるための生贄のように、ヤマトは自分を壊して使えと言ったのだ。
それが疑いようのない最善だと言うように。それが、至極当たり前のことだと言わんかばかりに。
「……真面目に言ってよ」
どうにかして絞り出すように発した声は、どれほど明るく努めようが低くなるしかなかった。
「真面目に言ってます。ご主人様、ヤマトを」
「違うじゃん!! そうじゃないでしょ!!」
今までは抑え込めていた怒りが、爆発した。
ヤマトの反論を遮る荒げた声は、自分でも我に返りかけるほど酷いものだった。
「人間ならまだ分かるよ。寿命なんてどうしようもない。死んだってどうすることもできない。無理矢理でも飲み込むしかない。でも……でも、ヤマトは違うじゃん! ずっと一緒にいたじゃん! 死ぬ必要なんて何もないじゃん! なんでそんな勝手なこと言うの!?」
理性で、努力で、虚勢で固めていた感情の膜を、ここぞとばかりに壊して撒き散らす。
「いっつもそう! そうやってみんな勝手なことばっか言って、私の前からいなくなる! 人が何も言わない聞かないからって都合よく解釈して、悲しさも痛みも想像すらしてないみたいに無視して解釈して、まだ小さいのに偉いとか気持ち悪いとか! いちいちうるさいんだよそんなわけないじゃん! 大好きなが人がいなくなって平気なわけないでしょ!? 泣いてないからって悲しんでないわけじゃないでしょ!?」
食道に魚の骨が刺さってしまったような、奥を突くような痛みと息苦しさが、緩やかに私の喉を絞めていく。
「悲しいよ寂しいよ辛いよ痛いよ! 当たり前のことでしょ!? でも誰にもどうすることもできないんだから、どうしようもないじゃん! 泣いて喚いて現実を呪うことが正しいって言うの!? 違うでしょ! だったら他に何ができたって言うの!? 正解なんて誰も何も教えてくれなかったじゃない!」
我慢など、到底できるはずもなかった。
「何もできないなら……っ他の何かをしなきゃ、生きてる意味なんてないじゃない……!」
言いたくなかったこと、言いたくもなかったことも感情任せにぶちまけて、それで終わった。
命を擲つことがどういうことか、ヤマトは何も理解していない。命の尊さに対する無理解への怒りが、沸騰した水のように溢れかえって、行き場を失う。
跳ねる心臓と荒くなった呼吸を落ち着かせたくて、私は頭上の光を見上げた。
(……)
せっかく心を落ち着かせてくれたというのに、誰のおかげで持ち堪えることができたのか考えると、欠けた月の光が憎らしく映る。
どうして誰も彼も、私の手を放していなくなってしまうのだろう。どうして、願ってもいないのに置き去りにしてしまえるのだろう。なぜ、自分は大切な人の死を見送らなければならないのだろう。なぜ、自分には大切な家族の死を回避する術を持たないのだろう。疑問と仮定が無意味と理解していても同じところを巡る。もし、あのとき私が先生の後をついて行かずに逃げていれば、迂闊なことをする必要なんてなかった。もし、私が決闘さえ受けなければ、ヤマトを犠牲にする道なんて作らなかった。
もし──もし、自分が本物の魔女だったら、あんな目に遭わずに済んだかもしれないのに。
(……あれ)
しかし、そこで私は我に返った。
何か、とても大事なことを忘れてしまっているような気がして、振り返ってみると──
(私……誰に向けて言ってるんだ。これ)
そこで、ヤマトへの怒りよりも、現状何もできない無力な自分の情けなさや不安、後悔が胸の中で渦巻いているのに気づく。
──そうだ。少なくとも、最善にして最高の提案を命懸けで提言してくれたヤマトに言うべきことは、これではない。
知能指数が下がりすぎたせいで、かえってよく頭が冷えたようだ。本当によかった。これ以上、助けに来てくれた親友に向けて喚き散らさずに済んだのだから。
怒ることは無意味ではない。しかし、その後がとても不毛なものだと個人的には思う。なんなら口にして十秒でもう後悔し始めている。同じ怒りがこうも長続きしないというのも考えものだ。自分の感情ですらままならないことを改めて突きつけられたようで、歯痒い。
怒ることは無価値ではない。ただシンプルに、私がしんどいと感じるだけだ。純粋に怒るだけのエネルギーが足りないのだと思う。省エネ化した怒りという感情は、こういうときだけとても厄介な形に昇華される。
衝動的な怒りをぶちまけたおかげか、頭の中が少し整理整頓できた。
怒りたいのか泣きたいのか、感情の優先順位がしっちゃかめっちゃかになってしまうほど──自分が思う以上に、ヤマトの申し出がショックだったらしい。
けれど、現状はそれほど切羽詰まっている。それは、ヤマトが進んで犠牲を出さなければいけないほど、危険な状況だということに他ならない。そんな言葉、ヤマトは生まれてから冗談でも口にしなかった。
言ってほしくはなかった言葉を、よりにもよってヤマトに言わせてしまったことがとても辛くて、悔しかっただけなのだから。
「酷いよ」
しかし、私の口から零れ落ちていくのは、助けようとしてくれるヤマトを責める言葉だけ。
整理がついたからこそ、浮き彫りになった現実はより私の首を絞めた。もはや、私に残酷な選択を選ぶ権利なんてない。家族を犠牲に戦う資格なんて、ない。
目を閉じて、瞼の裏側の暗黒を見つめる。暗闇はいつも、私に何かを思い出させようとしている気がしてならない。
明確な根拠はなく、記憶もなく、証拠もない。それでも、私は何か──そこにいたはずの大事な誰かを、忘れているのだ。その正体が何なのか、結局いつも有耶無耶にしたまま過ごしている。
それがどれほど愚かな罪なのか、真に理解すらできないまま。
「……なんで、一緒にいてくれないの」
ずっと一緒にいられると、そう思っていた。何の確証もなく、疑いもせず、そう信じられていた。
なぜなら、人間と違ってヤマトは自動機械人形であり、真っ当な生き物ですらない。物を口にすることはないし、肉体的な成長もないので老いることもない。
ゆえに、死ぬことはない。──誰かが、何らかの理由でヤマトを破壊しないかぎりは。
「……そんなことするくらいなら、夢なんて捨てていいよ」
ちっぽけな矜持ですら簡単に投げ捨てて、目の前の小さな白い体を抱きしめる。
「家族を犠牲にしてまで叶えたい夢なんて、そんなの間違ってる」
道理を聞き分けない幼子のように、未練がましくしがみついて。
「一緒に、おばあちゃんの助けを待とう。必ず助けに来てくれるから……」
自分で決めたことも、自分たちを閉じ込める暗闇からも目を背けて、唯一の希望に縋りつくように。
「だから……ずっと、死ぬまで、一緒にいてよぉ……」
ついに、私は泣き出してしまった。
しかし、涙ながらに気持ちを訴えたとしても、ヤマトの覚悟を変えられないような気がしている。この子は人間のように、死にたくないという意思で自分の生命の停止を躊躇ったりなどしない。そう望まれて、そう作られているのであればなおさら。それでも、泣きながら引き留めずにはいられなかった。
──こんなとき、人はどうすればいいのだろう。大切なことに限って、先生も教科書も教えてはくれない。
「ご主人様」
意見も小言も正論も、何も聞きたくなかった。
拒むようにヤマトを抱きしめて、私は目を閉じながら次の言葉を待つ。
「あなたがどれだけ多くのことを忘れても、ヤマトは──わたしは、永遠に憶えています」




