二〇二四年四月二十五日木曜日 時刻不明 Ⅴ
空気中を漂うような微睡みから意識を覚醒させて、おもむろに目を覚ますと──そこは、暗闇だった。
(…………暗い)
暗澹とした空気が肺に入り込むと、その重みで沈んでしまいそうな錯覚を覚えた。
気怠さの残った体を無理矢理起こして、五体満足かどうか確認する。私の体を縛っていた鎖は、もうどこにも見当たらなかった。
(…………)
確実に起きているという自覚はあるのに視覚的には暗闇しか見えない。
今まで感じたことのない、気味の悪さしか与えられない印象を抱く。一周回ってまだ寝ているような錯覚さえ覚える、矛盾した感覚が肌に残った。
立ち上がって、周囲を見回す。天井らしきものはなく、地面があるのかどうかも覚束ない。
この場で蹲っていても事態は好転しない。とりあえず、何かないかと歩いてみた。
(…………)
しかし、歩けど歩けど、私を待つものは何もなかった。
光も、音さえも耳に届くことはなく、生き物もどころか、はては何もない。見渡すかぎりどこまでも黒い、無の世界。夢の中にいるような暗闇は、閉じ込められた者に目的もなく、ただ歩かせることだけを強要する。
(何も、見えない)
体力も、精神も、時間も、距離も、悪足掻きさえも、すべてが暗闇の泥濘へと消えていく。
(……寒い)
足を前へ進ませるたびに、諦めないと頑張るたびに、自分の中の何かが削れて消耗していく。
(……少し、休もう)
終わりの見えない歩行に体が言うことを聞かなくなり、ついに私は立ち止まってその場に再度横たわった。
不意に、身を切られるような冷たさが手足を襲う。背筋が震えるほどの寒さに、一月の真夜中の外にいるような気さえしてきた。
寒い。寒すぎる。──このまま目を閉じてしまえば、いずれは低体温症で死んでしまうだろうか。
(いや、それはないだろ。さすがにない)
降って湧いた死への恐怖と焦燥で、心臓が縮み上がりそうなほど締めつけられると同時に、寒さで弱気になっている自分に言い聞かせる。
──落ち着け。気が狂うのはまだ早い。低体温症で死ぬよりも前に、まだできることはあるはずだろう。今こそ考える必要がある。冷静に、客観的に状況を把握すべきだ。
仮に、ここから脱出できたとして。私が脱出した瞬間を、向こう側で待ち構えている先生が狙わない理由はない。
対策を講じようにも、こちらの想像を超えるあの手数の多さはかなり厄介だ。魔術は元より、また『獄死』の魔法を連続で使用されたらまたここに戻される。堂々巡りにしかならない。勘違いをしているとはいえ、未熟な魔女の弟子に対して慢心を見せないだけはある。
かといって、身のほどを知らない無茶をするのも危うい。制限をかけられている以上、無駄なものは作れない。魔力精製器官である魔力炉心の駆動にも限界がある。闇雲に仕掛けても、肝心の魔力が底を尽いては意味がない。
やはり問題となるのは、何を作れば格上相手に勝機を見出せるか。
(…………何を、作る?)
物を作る。それは、日常生活において切っても切り離せない行為だ。
──しかし。光明の兆しのない暗闇の中で、ひとりぼっち。はたして何を作ればいいのか、まったく見当もつかなかった。
(…………何を、すればいい?)
突然、降り注ぐような重圧が圧しかかった。
重圧で筋肉が縮小し、全身の骨が軋む。今まで当たり前のようにやってきたことが、唐突にできなくなる。そこでふと、先生に言われた言葉を思い出した。
子どものときにはできていたことが、大人になるとできなくなってしまったこと。自分の当たり前が誰かにとっても共通認識であると思い込むのは、個人の先入観でしかないこと。
先入観とは、そのときまで培った知識や価値観で、あるいは積み重ねた時間で見方が変わるもの。子どもだったときの価値観と、大人になったときの価値観は、ほとんどの場合まったくの別物に変貌する。
つまり、先生は言外にこう批判していた。
──『誰かとは、すなわち未だ知らぬ未来の自分も含まれており、必ずしも自分以外の人間を指しているとは限らない』
──『当たり前とは、未来の自分にまで完全に保障されるものではない』
指摘されて、初めてようやく気がついた。同時に、思い上がっていたがゆえの恥による情けなさが込み上げてくる。今まで当たり前のように吸えていた息が、喉に詰まりそうだった。
暗くてとても寒いはずなのに、汗が噴き出て止まらない。その正体が焦燥か恐怖か不安か悔恨か、感情すらまともに判別できない。焦点が定まらない。動悸が激しい。指先の震えも止まらない。これほど心底から恐れているのに泣けもしない。体が脳の指令を拒否して、思うように動かせない。分からない。何も、考えられない。
ないない尽くしの負のスパイラル。囚われた者の意志を挫く沈黙で象られた暗闇の『檻』が、容赦なく私を精神的に折り畳もうと目前まで迫った。
焦燥。どうすればいい。思考。まとまらない。恐怖。それでも考える。疑問。振り払う。奮励。どうやって。不安。纏わりつく。意地。積み上げては。思案。崩れていく。疑問。──何のために。
疑問。疑問。疑問。疑問──なぜ。
私はなぜ、何をしたくてここまでやって来たのだろうか。
(頑張ってるのに)
ひとつ目に、目的が泥濘に消えていく。
思考が片っ端から解れていき、結論が出ない。これこそ堂々巡りだ。
(努力だってしてるのに)
ふたつ目に、意志が泥濘に沈んでいく。
いつまでも、答えの出口が見えてこない。
(それなのに……)
三つ目に、思考が泥濘に失われていく。
十七歳の少女の心を折るには十分すぎるほどの苦痛が、ここにあった。
(私は、何を、間違えた?)
最後に、助けを求める声も潰されていく。
置き去りにされたものは、後悔の怨念だけ。ただただ冷酷で、ひたすらに無慈悲で、どこまでも広がる沈黙と暗闇の『檻』は、ようやく私を捕らえることに成功した。
今の私は家への帰り道を失い、迷子になってしまった子どもとなんら変わりない。今の私はなんと脆弱で、愚かで、無力なことか。
(私は、どうして)
思考は無気力なまでに白く、視界はどこまでも黒い。通っている赤い血は、次第に凍りつくように動きが緩慢になり、顔色はきっと青褪めている。
息が、詰まりそうだった。
(何のために、生きていたんだっけ?)
いっそ息を止めて、泥濘に溺れて、死んでしまいたかった。
こうして暗闇を見つめると、何かを思い出せるような気がする。
何か、大切にしなければならないことを忘れている気がしてならない。
何もかもが真っ暗になったとき──突然、淡い光が閉じた瞼を優しく照らし出した。




