二〇二四年四月二十五日木曜日 時刻不明 Ⅲ
この期に及んで、私の心には黒い染みのような蟠蟠りがあった。何かを、それもとても重要なことを見落としているような気がしてならない。
そう思わずにはいられないが、その正体が何で、それが誰にとってのものなのかが掴めなかった。空間に亀裂が入るかのような緊張感のせいもあって、わずかに抱いた違和感も押し流されていく。
私は頭を振った。今は、目の前の問題に集中しよう。
(まずは小手調べだ)
先手必勝、懐から三つの折り鶴を投げ飛ばして牽制した。
折り鶴は通常の折り紙の八分の一、ちょうど指に乗るサイズの小鶴たちは無軌道に飛びながら先生へ向かっていく。重視したのは使い捨てだからこそできる、速度と威力の向上。──いつかの瑛ちゃんの賽子投げから着想を得た、小回りの利く戦闘スタイルだ。こういう非常事態のときのために、毎日折り紙のストックは確保している。
強敵相手に出し惜しみはなし。今夜はストックを投げ打った大盤振る舞いだ。
「……紙か。調達難易度の低い素材で、なおかつ応用も利く。指先に乗るサイズにまで加工できる手先の器用さも十分だ」
迅速に飛ばした三つの小鶴は、当てようとした箇所の目前で易々と受け止められていた。
一時停止された映像を見せられているような気分である。実際、この程度ではそよ風ほどにしか思われていないのだろう。こちらのなけなしの自尊心をへこませるには十分な力量差だ。彼は指先ひとつ、身じろぎひとつしていない。
違和感を正体を探るため視力の底上げに集中していると、空気中に微弱な魔力反応を検知する。よく目を凝らさなければ見えない細やかな流れの根源を視線で追うと、先生の腰に下げられた謎の袋に行き着いた。
さらに、意識を集中させる。波打つ魔力が、先生の周囲を覆うように展開されていたのが視えた。
「これは……砂の、壁?」
「さすがに目敏いな、その通りだ。こちらの方が何かと都合がよかったので愛用している。──ほら、返してやろう」
「げっ……!?」
そう言うや否や、先生は砂を介して小鶴を投げて返してきた。
鉄壁と迎撃の合わせ技は想定外だったが、こちらも再度鶴を投げて向かってきた攻撃を相殺する。
──散々煽り倒した意趣返しのつもりだろうか。一瞬の攻防だけでも感じられる力量差。投げ返された小鶴の速度や威力も、あちらの方が段違いに上だった。つくづく腹の立つ男である。これでは品行方正な教師というより喧嘩慣れした不良のようだ。
「咄嗟の機転も悪くない──が、やはり洗練さに欠ける。魔力の循環効率も拙い。加えて、癒しと平和の象徴である美しい伝統文化を武器にするそのセンスが一番いただけない。というか、よくこんな悪魔的発想に至ったな。さすがあの人の孫と言うべきか……差し引いても、三代目は一際未熟だな。せいぜいがサポート役か」
「……!」
浮き彫りになった実力差に多少は精神的に余裕が出てきたのか、正面切って私の魔術を批評された。
扱う魔術の種類や精度だけではない。私の魔術師としての力量も容赦なく見抜いてくる。態度や言動はいけ好かないが、魔術を鑑定する知識と観察眼は、間違いなく本物だ。
周囲に魔力を帯びた砂を纏わせながら、先生は授業をするかのように続ける。
「未熟で小さい魔女に、教示をくれてやる──躊躇うな。半端な攻撃はこういったように相手に利用される恐れもある。そうならないためには、まず相手に考える猶予を与えてはいけない。ただ闇雲に気を散らすのではなく、確実に相手の正常な判断能力を奪う方法に切り替えるべきだ」
「……」
「今のところ、攻撃手段は鶴だけか? 底が見えたな。普段から準備を怠るからこうやって足元を見られる。もっと手段に幅を持たせられるよう、勉強をやり直せ」
そして、相手への嫌味すらマメな男ときた。一発でもいいからあの綺麗な顔を殴ってやりたいと思う。
こちらはいつ嘘と時間稼ぎがバレやしないか戦々恐々としている上で相手をしているのだ。余裕ぶって未熟者を甚振っていられるのも今のうちだ。絶対に吠え面をかかせてやる。
私が再度小鶴を手に取ろうとすると、先生は左手を挙げた。
「では、手本を見せよう」
先生の左手を中心に魔力が膨れ上がり、脈打ち、蠕動する。
──次の瞬間、視界を覆う巨大な砂の高波が襲いかかってきた。
(ヤッバい!! ここじゃ遮蔽物がない!! だったら……)
現在の立地条件から逃げても無駄と判断し、私は反射で隠し持っていた短剣を引き抜く。
この判断が本当の最善かはもう考えていられない。魔力を帯びた黒い刃をまっすぐに振り降ろして、迫りくる砂の波を払った。
「……ぶった切る!!」
ここから、絶え間のない搏撃が十、二十と続く。
──あまり、良くない状況だった。こちらが抵抗すればするほど、周囲に散った砂が増えれば増えるほど、私は足元に気を散らされる。文字通り、いつ足元を掬われるか気が気ではない。
こちらの集中力と警戒心が薄れたところが狙い目だとするならば、確実に持久戦や消耗戦に持ち込まれれる。
彼は魔術師としても、魔女としても格上だ。だからこそ、彼はこちらの仕掛ける攻撃に対してすべての可能性を警戒するに違いない。
三十を超えたとき、突然砂の波が凪いだ。肩で息をしながら私が顔を上げると、先生は不可解と言わんばかりの表情でこちらを睨みつけながら口を開く。
「それにしても……なぜ魔法を使わない? まさか、私が相手では力不足だとでも言うつもりか?」
「……っそっちこそ、使う素振りすら見せないくせに!」
「当たり前だ。初めから奥の手を使う馬鹿は、力に物を言わせる戦闘民族だけで十分だろう。私の役割はバランサーであり、『夢死』の正当な継承者である君を最優先で守ることにある」
「だっ……たら、なんで、わざわざこんなことをする!? そんなに魔法が欲しいなら、私じゃなくておじいちゃんに直接言えばよかっ──」
瞬間、迸るような激情を視線に感じて、私の体は一瞬硬直した。
「そちらこそ、わざわざ言われなければ分からないのか? それとも、気づいていないふりをしているだけなのか?」
先刻とは比べ物にならないほど冷たい敵意だった。それを正面から浴びたせいか、私は理性で理解するよりも先に、本能が怖気づいてしまう。
問いかけの内容に大した理由はない。時間稼ぎの戯言のひとつ、まともに相手にされないことは目に見えている。そう思っていた。
だというのに、こちらを刺し殺すようなこの剣幕は何だ。先ほどの発言の何が原因だと言うのだろう。
わずかな疑問と得体の知れない恐怖が邪魔をする。前に出ていた心が、地に付いていた両足が少しずつ後方に下がり続けた。
「十三年」
「……?」
「あの人に出会ったとき、私はまだ子どもだった。あれから死に物狂いで勉強した。魔法も、魔術も、膨大な史資料の山に揉まれながら、自分なりに研究と研鑽を続けている。それでも、どれほど努力しようと、あの人に認められることはない。──なのに、あの人が選んだのは俺ではなく、お前だった。これを思い上がりだと思うか? 身のほど知らずだと嗤うか? 俺たちの間にある差の正体は何だ? 俺には、何が足りなかった?」
怒涛の勢いでまくし立てる今の彼は、まさにおとぎ話で語られる魔女にふさわしい威圧感を放っていた。
邪悪。恐怖。傲慢。狂気。残忍。堕落。不義。老いてもいなければ醜いはずがない彼を、私は改めて魔女だと再認識させられてしまった。
──私は、馬鹿だ。目の前にいる人物は、時代が違えど魔女であることに変わりはないというのに。思い上がったのはどちらだというのか。本当の身のほど知らずは、はたしてどちらだったのだろう。
届かない夢に渇望する男は、夢を手に入れるためだけに一歩前に踏み出す。
「なぜ、と言ったな? この際だから教えてやる」
あの美しい目で睨まれているだけで足が竦む。あの顔が歪むたびに膝を付いて許しを乞いたくなる。
「私にとって『夢死』の魔法は、この世の何に代えても──純度百パーセントの黄金よりも、価値があるからだ!」
その目に宿るのは、届かない『夢死』の魔法への執着だった。
「生み出したものに、生み出されたものに加護を与え! 味方には祝福を、敵には呪縛を与える! 強大な豊穣と魔法がもたらす奇跡! 神代におけるおよそすべてのものを司る、かの創造神に匹敵する圧倒的な権能! ああそうとも! この価値が分からない馬鹿の価値なんざごみ以下だ!」
荒々しく吐き出された言葉に、憎しみや蔑みはない。
そこに在るのは、夢に対する純粋な憧憬──ゆえの執着だった。そこに在ったのは、何十年経っても色褪せることのない、黄金のように輝く凶暴な愛だった。
「『夢死』の魔女であるお前なら分かるだろう? お前は魔術師としても、魔女としても未熟すぎる。両親を殺害した犯人への復讐のため、夢も希望も持たない茉穂に比べれば見どころはあるが──私なら、その力を十全に発揮できる。これ以上の理由が必要か?」
離したくない。しがみついていたい。何より、この程度の絶望で諦めたくない。
誰にも何ひとつ理解されなくとも、自分がどんなにみっともない人間に成り下がろうとも──夢を手放した先の生に、我々が生きる意味なんてないのだから!
(────ああ)
先生の思いの丈を聞いて、私は少し安堵した。
この道を選択をしたとき、私の脳裏には常に小さな影が落ちていた。いつまで、どこまで夢に生きていていいものかという将来への漠然とした不安。似たような同胞がいないゆえに、答えは自分自身で見つける他にないと、周囲への理解を諦めていた。
類まれなる幸福に満たされていても、私は常に孤独だった。似たように夢を語れる誰かの存在を、どこかで渇望していた。
けれど。
(あなたも)
──けれど、その不安と焦燥はまったくの杞憂だった。
十年後も二十年後も、同じ気持ちで生きていていいのだと、言外に認められた気がしたから。
(あなたは大人になった今も、私と同じ気持ちで生きてきたのか)
彼もまた、魔法が生み出す魔性に魅入られた者のひとりならば、その想いをどうして私が否定できるだろうか。
私は未熟で、力不足かもしれない。先生のように、黄金の価値を証明できないかもしれない。それでも。
(それでも、私はあなたの夢を砕く)
当然、夢を持ち出してきたのであれば、ただ言われっぱなしでは終われない。こちらが何も言わないことをいいことに、好き勝手言いたい放題言ってくれるものだ。
引き下がろうとした弱気な心を、前に押し出す。日和って後退しようとしかけた足を、前に進ませる。
右手の短剣をさらに握り締めて、左手に持ったいくつかの小鶴を背後に優しく覆い隠す。詰まりかけた息を吸って、吐く。
暗闇に慣れた視界は明瞭に、いつの間にか渇いていた唇を舐めて、口元を潤した。
「過激派厄介ファンの湿気た愛情──私じゃなくて本人に言えよ。気持ち悪い」
わざと冷たく言い捨てて、私は短剣を盾に翳しながら駆け出した。




