二〇二四年四月二十五日木曜日 午後十六時五十三分
鳶浦高校の手芸部は、手芸部とファッション部を兼ねていると言っていい。
というのも、ここ数年間で「身内で楽しむ同好会」から「神奈川県高等学校ファッションフェスティバル出場」に至るまで、全体的に生徒の作品のクオリティが飛躍的に向上したことにある。部員それぞれが持つ個性豊かな芸術性と縫製技術が内外問わず評価されるのは、思いの外私たちに自己肯定感と反省と挑戦のヘビーローテーションを促した。
今年は新入部員も三名加わり、手芸部の部員数も過去最多の二十三名と大所帯になった。中には文化祭をきっかけに入部を決意してくれた後輩が何人もいる。私の作品を好きになって手芸部に入ったと後輩から熱弁されたときは涙が出そうになった。
価値観の異なるアイデア、新鮮なインスピレーション。脳の刺激は留まるところを知らない。
午後の被服室も、最近は良い意味で姦しくなってきた。意見が飛び交う室内、子気味良いミシンの音をBGMに、私も試作品で使うリアルフェザーの調整に取りかかる。
金具を付ける部分の羽の芯を少し出すために、芯回りの毛を少しずつ毟り続ける。ただひたすら毟る、この繰り返し。人に理解を得られた試しがないが、この死ぬほど地味な作業が私にとっての至福のひとときのひとつなのだ。
こうしていると、四月以前の非日常体験が遠く昔のことのように感じられる。
しかし、駆け抜けるようなあの時間は幻などではない。現に、絶賛韓国滞在中の瑛ちゃんは観光ライフを満喫しているらしく、ここ最近は韓国内で流行っているスイーツの実況をしてくれたりと元気な姿を確認できている。教えてくれた韓国風クロワッサンは片手で食べられそうなので、作業用携帯食料にするには最適だと思われる。日本でもすでに販売はしているそうなので、客足が落ち着いたら真理愛と買いに行きたい。
「す、鈴木先輩!」
「はいなんでしょう!?」
小走りで駆け寄ってきた甲高い新入部員の声に、思わず店での接客モードで返事してしまった。
「そ、その……あの、せ、先生が先輩を呼んでて……」
「先生? 菅谷先生かな、今イイ感じなのに何のよっ──」
視線の先にいる人物を把握した瞬間、自分でも感動するほど言葉が詰まった。同時に、見なければよかったと心の底から後悔する。
被服室の前に悠然と佇んでいたのは、手芸部の顧問ではなくローゼンタール先生だった。
──結論から先に述べると、ヴィルヘルム・D・ローゼンタールは魔女である。
より正確に言うなら、魔導公安機関所属の四人の魔女の一角、デューラー家の末裔が彼だという。
先生とのファーストコンタクト初日、試しに祖母にフルネームと特徴を伝えたら、ものすごく嫌そうな顔をしながら明確な答えを返してきた。
曰く、「祖父に熱烈に弟子入りを志願し続けてきた頭でっかちの生意気坊主」なのだそうだ。
しかも弟子入りの過程で、それとなく姉にもちょっかいをかけていたらしく、それが祖母の怒りを買って以降出禁扱いになったという。祖母は先生をかなり警戒しており、学校にいる間は必ず武器を携帯するよう口を酸っぱくして忠告された。まるでいつ学校で襲撃されてもおかしくないといったような口ぶりに、過剰防衛とは思いつつもその指示には従うことにした。制服や迷彩の魔術で隠しているが、現在ほぼフル装備である。
そういうわけで、見つめ合うと素直にお喋りなんてできるはずもない。なぜなら必要以上に嫌われていると感じるから。そして、向けた視線を逸らしたが最後、沈黙は肯定とみなされて強制連行されるだけだ。誰が喜んで用事に応じるというのか。
有無を言わせないアルカイックスマイルに、私を除く女子全員が惑わされている。その事実があまりに空しい。悪意しか感じられない微笑みの意味に、なぜ誰も違和感を抱かないのだろうか。
一気に現実へと引き戻されたかのような嫌な感覚が、足元に根を生やそうとしている。しかし、ここで動かなければ彼はいつまでもあの場にスタンバイ状態だ。
意を決して、私は立ち上がる。こうなっては腹を括るしかあるまい。
長丁場になることを覚悟して、私は部長に遅くなる旨を伝えた後、背にしたドアをゆっくり閉めた。
「……何かご用ですか」
「君にしか話せない大事な話がある。道すがら話したい。ついてきてくれ」
初めから失敗した。初手でこちらの身の安全を潰されてしまい、心の中で舌打ちする。
こちらの意見は元よりお構いなしなのか、言うだけ言って先生は歩き出してしまった。あちらの出方を窺うためにも、今は大人しくついていくしかあるまい。
なぜ、この人が必要以上に私を目の敵にするのか。心当たりはなくもないが、せめてその違和感だけでもはっきりさせたい。
「この二週間……私に対する君の態度から、周囲に私のことは何も聞いていないと判断した」
「はあ」
「……体が不自然に強張っているな。まあいい」
真夏でもないにもかかわらず、体中が発汗のせいで熱を持つ。
「私のことを知ろうが勝敗には関係ない。君が私に勝てる道理はないのだから」
日の入りまでには、まだ数時間早い。
「──なのに、あの人は私を認めず、かといって茉穂を選ぶわけでもなく、何もかも未熟な君を選んだ。それだけが解せないままだった」
けれど、風が吹き込んできて少し肌寒い。どこかの窓が開いているのだろうか。
「だから、君の実力をこの目で確かめたくなった」
──そういえば、とふと疑問が浮かぶ。
先生は、こちらの正体を知っていながら授業開始から今日までノーアクションだった。
「私に見せてほしい。『夢死』の魔法がもたらす、唯一無二の奇跡を──」
──なぜ。今、よりにもよってこのタイミングで仕掛けたのだろうか。
(……あれ)
ぐにゃり、と視界が音を立てずに大きく歪む。声も、不自然に遠のいたような気がした。
通常であれば聞こえていたものが、突然聞こえにくくなる。風邪を引いた時と酷似した全身の倦怠感。不意に足元が覚束なくなるような、特有の感覚。
──錯覚ではない。私が歩みを進めるたびに、強制的に眠気を誘発させられている。
(な、んだ? ね、眠い……)
抗うことすら許さないと言わんばかりの強烈な睡魔が、容赦なく脳を揺さぶった。
年々夜更かしの平均時間が長くなっているとはいえ、歩行中に突然睡魔に襲われるなんて病気以外で聞いたことがない。
垂直にすら立っていられなくて、私は不自然に冷たく感じる壁に凭れかかった。自然に閉じようとする瞼に抗い、全神経をもって目を細めるだけに留める。
「……?」
──すると、目の前に一瞬だけ何かが落ちていくのが見えた。
(これ、は……埃、じゃない。もっと細かい。光……砂?)
目の前にある答えを掴もうとして、それは無情にも手からすり抜けた。
意識が、急速に遠ざかっていくのを頭の片隅で冷静に把握する。体が、言うことを聞かない。止まらない。
(ヤバ──)
重心を失った体にほのかな温もりを感じながら、私は眠るように瞼を閉じた。




