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二〇二四年一月十八日木曜日 時刻不明 Ⅱ

 文字通り気が動転して、まともに立っていられなかったと思う。



「ハッ……ハッ……」



 脳味噌が沸騰しそうで、それに比例して体中が熱くて、心臓が忙しなく早鐘を打つ。動悸(どうき)も激しく、とても自分の意志では止められない。

 酸素と冷静さと安寧を求めて、ひたすら浅い呼吸を繰り返す。死体が怖いだとか情けない叫び声だとかそう思う以前に、現実への恐怖心と拒否感と嫌悪感が全身を支配していた。



「ヤバいヤバいヤバいヤバい……これはさすがにヤバいって……」



 誰に聞かせるでもない独り言が、皮膚を刺された血のように漏れ出す。



「心臓……たくさん……なんでパパとママがここに……どうやって……誰が……いつから……?」



 声は恐怖で震え、心はパニックになりながらも、頭は努めて冷静に状況を飲み下した。

 地下室に入るまでの謎に包まれた仕掛け。怪しげな魔法円のメモや童話の挿絵に出てくるような大釜、視界を覆うほどの心臓の山と、安置された両親の遺体。

 我ながらあまりに馬鹿馬鹿しいと思っても、ここまでの証拠が揃ってしまえば嫌でも因果関係が成立してしまう。冗談から出た事実など、あまりに笑えない。

 誰が、いつ、何のために、どうやって──浮かび上がる可能性は、どれも穏やかではないものだかりだ。



(作り物……だとしたら、なんでこんな人目のつかないところにわざわざ? 本物……だとしても困る)



 そう、目の前のこの光景がすべて本物ならば、所有者が黙っているわけがない。

 では、この地下空間の所有者である可能性が高い人物とは、誰か。



(…………)



 それは、最低の裏切りだ。最悪の想像だ。











 ──身内が魔女(さつじんき)だったなどと、誰が認められるだろう。



「…………っ!!」



 震える体を無理矢理抑えるため、私は自分の胸を拳で強めに叩く。



(しっかりしろ私!! 弱気は敵の思う壺!!)



 強引に叱咤することで気持ちを切り替えたところで、私は立ち上がる。

 どうあれ、ここに長居するのはよくないと直感で理解した。事件性が高いにしろ、祖母に伝えるにしろ、今の私の精神状態では精密調査などしたくてもできはない。

 自分の家族は、本当に人を殺したのか──真偽は未だ闇の中。それでも、真実を見極めるべきならば、どうしたって時間が必要だ。大事な選択であれば、なおさら焦ってはいけない。

 仮に、祖父が誰にも言えないような秘密を私に伝えようとしていたのなら、こんなところで呑気にヘタレている場合ではないのだから。



(落ち着いて……調べる時間ならいくらでもある……)



 (わずら)わしく脈打つ心臓を沈静化させるまで、しばし深い呼吸を繰り返した。

 ひとまず落ち着きを取り戻した私は、ろくに見てもいないふたりの遺体から目を逸らして、足早に部屋を後にしようと出入り口へ足を向ける。

 ──次の瞬間、けたたましいノックの音が出入り口の扉を貫通せんとばかりに響き渡った。



「茉楠!! そこにいるのは分かってンだよ!! さっさと出てきな!!」



 こちらを威嚇するような激しいノックとともに、通常よりもさらに怒気を強めた祖母の張りのある声音が木を伝って反響する。

 なぜここが分かったのか、などといった浅はかな疑問は愚問だろう。



(ヤバいヤバい絶対ヤバい殴られるだけじゃ済まない絶対殺されるっ……!!)



 声だけでも分かるが、完全に怒っている。こうなると祖母の怒りを鎮めるのは容易とは言いがたい。

 最悪、本当に殺されるかもしれない。どれぐらい最悪かというと、かつて店で万引きした勇気ある不届き者を現行犯で逮捕したときに見せた般若の様相が脳裏によぎるほど、最悪だ。別名、悪夢の再放送ともいう。

 私は今までにないほど必死に頭を回転させた。どうにかして許しを請うか、いっそのこと逃げるか、何かで意識を逸らして怒りを削減するか。正解は何だ。最善はどれだ。



(ヤバいヤバいどうしようどうしよう、逃げる……これ以上逃げ場なんてない。唯一の出口は陣取られてる。戦う……戦う!? なんで!? なんで身内で争わなきゃいけないの!? 部屋に入っただけで!?)



 この状況で一番の最悪は、身動きが取れないまま、いつまでも思考の渦に飲まれ続けることだ。結局、できるだけ足音を立てないよう、急いでこの場を離れるべきだと結論付けた。

 まだ開けていない扉へ転がり込むように入り、調合室の前にいるであろう祖母にバレないよう静かに扉を閉める。命の危機を前に、忍者さながらの身のこなしをする器用な自分自身に密かに驚きつつ、扉に凭れかかった。他に逃げ場はないか、あるいは交渉の材料に使えるものはないか、私は入った部屋の内部を改めて見回した。



「──わあ」



 最初に入ってはしゃいだ部屋──あえて調合室と名付ける──と似た雰囲気を感じた。それよりもずっと、土と植物と温かな太陽光の匂いが充満した空気が、私の鼻腔を突き刺す。

 視界の端にはいつかの花屋で見たことのある花や、ハーブの類と思われる植物の数々。気づけばどこかの立派な庭園に迷い込んだと錯覚させるほど、整備が行き届いた美しい植物園だ。奥まった場所には、いわゆるコンサバトリーと呼ばれる温室も見られる。

 立っているだけで人を安心させる効果でもあるのか、先ほどまで恐怖に駆られていた私はすっかり毒気を抜かれていた。取り憑かれたように、コンサバトリーに設置された白いテーブルへと足を運ぶ。

 私は、この温室に足を踏み入れて初めて、テーブルの上に紙と銅製と思しきコインが置かれていることに気がついた。現状を打破する何かに使えないかと思い、早足でそれらを手に取る。



(紙……何も書かれてない。コインはまだしも、さすがにただの紙じゃ使えないな……)



 まず、特徴的な銅のコインを観察する。五百円玉よりも少し大きくて平たい。文鎮代わりに置かれていたコインは、素人判断でもなかなかお目にかかれない希少品、レベルの高いアンティークコインだと思われた。

 海外の遺跡で発掘されるような、少なくともある程度の歴史的価値が見出される美術品だろう。金額の記載が見られないことから、年代物のコインもしくは記念メダルの類なのかもしれない。



(……テ、デウム、ラウ、ダムス? 一五七二……〇八二四? 多分ラテン語と年月日かな、どういう意味だろ……)



 表面の胸像らしき絵はなぜか念入りに潰されていたので、実際に何が描かれていたのかまでは判別できなかった。また、裏面に刻まれていた文字はかろうじて読めたものの、意味するところはまるで分からない。結果として何も分からなかった上に、現状を打破できるような道具ではなかったが、とんでもない貴重品であることだけは理解した。なくさないよう、一応ポケットに仕舞っておく。

 次に、一見何の変哲もなさそうな一枚の紙切れを注視する。光に透かしたり、折って見たりしたが取り立てて何も起こらない。

 しかし──変化は突然だった。手にした紙の中心に、文字が瞬時に浮かび上がる。私は目を見開きつつも、浮かんだ文字に視線を落とした。


 『Ma1-10Ro13a』の真下に位置する地下庭園、エンシェント・ガーデンへようこそ。

 ここに辿り着いた(あかつき)には、この庭のすべてを君に授けよう。煮るなり焼くなり好きに使いなさい。必ず役に立つはずだから。

 そして、いつだって思い出してほしい。我々にとっての奇跡とは、何度でも作り出せるものである、と。











 ──追伸。

 遺言の暗号解読おめでとう。君に出会えて本当によかった。生まれてきてくれてありがとう。愛している。


 ぞっとした。背筋が炭酸のように泡立つ不快感に身震いせざるを得ない。

 祖父は、私がこの地下室に辿り着くことを確信していた。でなければ、あのメモを残す意味がない。遺す理由もない。だからこそ恐ろしい。

 どこまでが祖父の思惑通りだったのだろう。最初からだったのか。最初からであるならば、どこからだったのか。祖父の考えていることがまるで分からない。そもそも、分かるはずもない。

 そこで、私は(かぶり)を振った。──分からないのではない。今まで知ろうとする努力もせず、上辺だけを分かっていたような気になっていただけだ。本当はどう思っていたかなんて、誰にも分かるはずがないというのに。

 祖父は、初めから文字通り雲の上にいるような人だったのだろう。私は、今日までそれを本当の意味で理解していなかっただけだ。もっと早い段階で気づいていればと考えて、不毛なことだと我に返ってやめる。

 動揺と少しの恐怖で手が硬直していたのか、思わず不思議な紙を落としてしまった。

 私は拾い上げようとして──その違和感に気づいた瞬間、手が止まった。



「……あ」



 私の手を離れた紙は、何事もなかったかのように元の()()に戻っていたのだった。

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