二〇二四年三月二十九日金曜日 午前〇時四十四分
帰宅してから三十分は経過しただろうか。安全圏に身を移したせいか、時間の流れとともに疲労がどっと全身に押し寄せてきた。
それでも、三人が帰宅してくるまで自分だけ呑気に眠るわけにもいかない。というより、この状況下でへそ天で寝るほど私の神経は図太くないし、やるべき仕事ならある。まずは汚れが目立つ少女の身なりをきちんと清潔にするところからだ。
眠りについた少女を起こさないよう、彼女の服を私の服に着替えさせる。予備のタオルに沸かしたお湯を適量付けて、少女の体を綺麗に拭いていく。
作業の途中、玄関のドアの鍵を開く音がした気がする。──作戦を終えた三人が帰ってきたのだ。
そう思い立った私は、織姫とヤマトを残してなるべく音を立てずに玄関へと足を前に急がせる。
「ただいま、茉楠」
「三人とも、おかえりなさ──って、瑛ちゃん大丈夫ですか!? え、作戦は!? 魔術師はどうなりました!? あの、すみません、途中でインカムが壊れちゃったみたいで……」
出迎えてまず目にしたのは、気を失った瑛ちゃんを背負う有島さんと、なぜか体中魔糸だらけの祖母の姿だった。
尋常ではない三人の有り様に私が焦っていると、ふたりはほぼ同時に口を開く。
「安心しな。インカムはアタシらのも壊れたし、作戦はオールクリアだ」
「紅ねえの言う通り、大丈夫だ姫さん。インカムはともかくそれ以外は問題ない。作戦は成功したし、醍醐はこっちで気絶させただけだ」
「そっか……って、気絶させた? 向こうで何があったんですか?」
「なんてことはねェ。醍醐が土壇場で魔眼を覚醒させて、熱暴走を起こしただけだ」
またしても聞き慣れない単語に疑問を覚え、私は有島さんに続きを促した。
「あの……有島さん。魔眼、というのは何ですか?」
「は? おい紅ねえ、まだ説明してねェのかよ。魔女ん中でも基礎中の基礎じゃなかったのか」
「説明しようにも証人がいなけりゃ信憑性もへったくれもないだろ。それが未覚醒の半端者じゃなおさらだ。そこまで言うンならアンタが代わりに説明しな。あと瑛を貸しな、アタシは地下に降りてくる」
そう言うと、祖母は有島さんから無理矢理瑛ちゃんを剥がすように奪い取る。
気を失ったままの瑛ちゃんを器用に背負いながら、祖母は足早に祖父の部屋へと直行していった。今一番の優先事項は瑛ちゃんのはずなので、ここは何かしら考えのある祖母に任せておくのが最善だろう。
「っんな、おいババア人に丸投げしてんじゃねェ! ……ったく」
「すみません不勉強の身で……」
「いや、どのみち醍醐にも説明しなきゃなんねェから気にすんな。それより例の子どもはどうだ?」
「ああそうだあの子、織姫に聞いたら魔女だって言ってまして」
「──は!? おいおいマジかそれ!? ……いや、いろいろと疑問はあるが、まずは確認だ」
話題を転換した途端、食い気味に血相を変えた有島さんをひとまずリビングへと案内しながら、私は家に到着してからの三十分間の出来事を洗いざらい報告する。
途中、有島さんは何度か考え込むような素振りを見せながらも、私の短い報告を黙って聞いてくれた。
「……データにすらない魔女の捕縛、魔女を売買したであろうブローカーとやらの存在。こいつァ思ったよりも長丁場……どころか世界を股にかける大捕り物になるだろうな。報告ありがとな、姫さん。今日は一層疲れたろ。こっからは俺が代わるから休んでてくれ」
「あ、ありがとうございます。でも……今はあんまり、眠れるような気分でもなくて」
「そうか。何もしないのも暇だろうが……あーだったら、魔眼の話、今するか?」
「あ、それはぜひお願いします」
目が冴えてしまっているこちらに気を遣ってくれた有島さんの申し出をありがたく受け入れ、私は背筋を正して聞く姿勢を取る。
今さらながらに恥ずかしいが、無知は罪とはこのことか。魔眼についてもっと事前に知れていたなら、瑛ちゃんも気絶させられずに済んだかもしれない。今回の事件はいろいろと悔やまれる失敗が多かった。これを機にできる準備はできるときにしておこうと心に固く誓う。
私が肩身を狭く感じていると、有島さんは呆れ果てたように頭を掻き、気を取り直して首を振った。
「そうだな。魔眼っつうのは……って、ちょっと待て。これを説明する前にひとつ聞くことがある」
「? はい」
「『魔力炉心』っつう単語に聞き覚えはあるか?」
「いえ、まったく存じ上げないです」
「チッ、あンのババアこれだけでも説明しとけや……まァいい。魔力炉心っつうのは『魔力の精製器官』のことだ。これは生物だけに限らず自然界──山とかにも存在するし、大まかな仕組みは共通してるから端折って炉心って呼んだりもする。そんで前提として、魔力炉心を持つ人間のことを魔術師と呼ぶ。ここまではいいな?」
私が頷くと、有島さんは努めて分かりやすい言葉を選んで説明してくれた。
魔術師と一般人との違いは、魔力炉心の有無で決まる。炉心がなければ魔術さえ使用不可になるという仕組みは、魔術装具と魔法道具の相違に通じる気がするので、すんなりと理解することはできた。
神秘の行使に魔力炉心が必要不可欠ということは、必然妖精の体内にもあるということだろうか。山にも炉心が存在するということは、植物にも存在するということだろうか。広がる知見に興味と好奇心は尽きることを知らない。
そもそも私は、魔女の弟子としても、魔術師としても、まだまだ知らないことが多すぎる。
「あーあと、魔力炉心は生まれつき持ってるやつが大部分なんだが、稀に何の素養も持たない一般人が人工炉心を埋め込んで魔術師になるケースもあるな。とはいえ、人によって相性も存在する。今の魔導公安機関が保有する最新の心霊手術をもってしても、人工炉心の拒絶反応による死亡率は八割超えだ。──だから、一般の出で魔術師になりたいとか馬鹿抜かすやつは、よほどの命知らずの大馬鹿野郎か、後先考えずハイリスクハイリターンに飛びつく大馬鹿野郎のどっちかだな」
(い、いきなり圧が増した!? ……けど有島さん、なんかやたら詳しいな……)
「幸い、姫さんはたまたま素養があったから万が一を免れたが、ほぼ死ぬしかねェ手術なんざ人に勧められたもんじゃねェ。いいか? このことは魔術師になりたいとか抜かすイカれ野郎がいても絶対言うなよ? 絶対だぞ? フリとかじゃねェから絶対勧めるなよ?」
「うあ、は、はい。分かりました……」
勢いよく両肩を掴まれ、なぜか血走った両目で了承を迫られたので、私は顔の筋肉を硬直させながら赤べこのごとく首肯した。




