二〇二四年三月二十九日金曜日 午前〇時十六分
「ご主人様、おかえりなさ」
「ただいまヤマト! 悪いけど手伝って! 要救護者! 今日洗濯したシーツ引っ張り出してきて!」
「──御意」
「姫様、織姫は救急セット持ってくるネー!」
「お願い! ひとまずリビングへ」
やっとの思いで家に到着すると、靴を脱ぎ散らかした私は玄関先で待機していたヤマトに指示を出した。
物置に仕舞ってある救急箱を取りに行った織姫と一時別れ、私は抱えた少女をリビングへ連れて行く。
「ご主人様、こちらを」
「ありがとう、そっち咥えてて。せーのっ!」
ヤマトが持ってきた清潔なシーツを床に敷き、すかさず少女を横たえようとしゃがみ込んだ。
「……ウ」
「!?」
「ウ……ァ……?」
そのとき、私たち以外誰もいない静寂の中、はっきりと聞こえたのは少女の呻き声だった。
意識を取り戻したのか、私は少女をゆっくりと横に寝かせながら声を上げる。
「大丈夫!? どこか痛い!? 気をしっかり持って! 諦めないで!」
少女に声をかけながらも、これしか何もすることができない自分の無力さに歯噛みした。
あの場所で彼女がどれほど酷い目に遭わされていたかなど、想像するだけで怒りと悲しみが込み上げてくる。
「もう誰も、君を傷つけたりなんてしないから! 諦めちゃ駄目だ! 少しでいい! もう少しだけ頑張れ!」
目も当てられない根性論などを引っ張り出して必死に呼びかけながら、私は少女の傷の具合を見た。
「…………あれ?」
しかし、そこに先ほどまであったはずの傷らしきものはなかった。
顔、首、胸、腕、足──どこを確かめても、傷跡が完治している。
「嘘、なんで。何もしてないのに、こんな短時間で全身治るわけが……」
「──ア」
そこで、今まで閉ざされていた少女の瞳が、こちらをしかと見つめていた。
「──あ」
吸い込まれるような、綺麗な紫だった。
ただの紫ではない。外側から明るく、濃く、深く、美しいグラデーションで彩られた、この世にふたつとない赤と青が反射し合ってできた色だ。一番良い角度で色硝子を削っても、一番良い染料で布を染めても、これほど美しく煌めいた色にはならない。
それはまるで、人の手の届かない奥底で光を放つ、稀少な宝石を埋め込んだような──
「……ke……matian」
「……え? 何、ごめん! 今なんて言った!? ワンモア! 何語!?」
「……penyesuaian……」
日本語どころか英語圏の発音でさえない謎の単語に、母国の言葉かと思い耳を澄ます。
しかし、少女は埒が明かないと判断したのか、小さな目を凝らして、もう一度唇を開いた。
「タシ」
清澄に聞こえた小さな日本語が、確かに届いた。
──それが本当に名前なのか、名字なのかは判別しようがないし、そもそも本名なのかも分からない。けれど、彼女が力を振り絞って応じてくれた気持ちを無下にするわけにはいかなかった。
「タシ……タシか! 変わった名前だけど、短いから覚えやすいね。よろしく、タシ」
「……ウン」
「あ、私は鈴木茉楠。もうひとりいたお姉ちゃんは瑛ちゃん、醍醐瑛。いろいろ片づいたらよろしくしてあげてね。それまでは、しっかり体を休めよう」
「……ウン」
「寝てていいよ。あとは全部上手くいってるから」
少女は私の言葉で安心したのか、もう一度目を閉じて安らかな寝息を立て始める。
小さな手を握り締めながら、少女の頭を優しく撫でる。彼女の体は、氷でできた彫像のようだった。
「姫様、ちょいと失礼」
「うわっ! お、織姫?」
「……やっぱリ。あのときの反応、気のせいなんかじゃなかったんダ」
「いきなり何の話──」
そこで、急いで救急箱を運んできたらしい織姫が、突然少女の首元に手を当てる。
しばらくして何かに気づいたらしい織姫の言葉に、私は戸惑いながら尋ねた。
「今まで話を聞いてて不思議だったんダ。でも、なんでブローカーがわざわざ受け渡し場所を日本に指定したのか、今分かったヨ」
そう言って、織姫は少女の首元に纏わりついた髪を払う。
髪に隠れた少女の首筋には──人を模した形を彫り込んだような刻印が、淡い光を放っていた。
「──だってこの子、魔女だかラ」




