二〇二四年一月十八日木曜日 時刻不明 Ⅰ
文字通りお先真っ暗な道行きかと思われたが、そんな陳腐な想像はあっさりと裏切られた。
私が三歩足を踏み出すたびに、どこからともなく小さな光が足元を照らしていってくれたのだ。そのおかげでわざわざスマートフォンを持つ必要はなくなったので、気持ち早足で階段を降りていく。
──体感時間では三分もかからないうちに、目的地に到着したらしい。行き止まりではヤマトが翼を畳んで、細い足で歩き回っていた。
「ヤマト」
「ご主人様。ヤマトは扉を開けることができません」
「分かってる。一緒に入ろう」
私も行き止まりに辿り着くと、目の前にある木製の扉の隙間から、明かりが漏れているのが確認できる。
躊躇っている時間さえ惜しい。私は意を決して小さなドアノブを掴んで捻り、ゆっくりと扉を開いた。
蝶番の軋むような音が、なぜかよく聞こえた気がする。
「────」
最初に目に飛び込んできたのは、温かな光。
次に風に乗って鼻に届いたのは、花や何かの植物、古びた紙の匂い。
「────あ」
全体図を把握しようとして、どこを見れば要点が抑えられるのが判断に悩むほど、この部屋には不思議と懐かしささえ感じるような魅力が詰まっていた。
一昔前の調合室を彷彿とさせる、複数の小さなすり鉢と木製の大きな机。煮炊きに使用するであろう大きな黒い釜。少々埃被っている古ぼけた怪しげな本棚。小さな棚には、数えるのも億劫になるほどの小さな植物標本が規則的に並べられており、太陽光に反射して温かな緑の輝きを放っている。
壁の一面には大量のメモや魔法陣としか思えない幾何学的図形、モノクロの写真がいくつも貼り付けられている。一部には紐が張り巡らされており、繋がれたメモや写真を目で追ってみれば、どうやら一項目ごとに関連付けられているらしい。いわゆるウェビングマップ、というやつだろうか。
「────す」
これが、祖父が今まで隠していた秘密。
私にだけ伝えようとした、私たちだけの秘密基地だった。
「…………すっご──いっ!! 何これ!! これ何!? 魔法陣!? 大釜!? 本もいっぱい!! 何これ何これ!!」
春の木漏れ日のような秘密基地を前に、私のテンションは最高潮に達した。
同時に、この空間だけが地上の世界から切り離されてるかのような、言い表しようのない違和感を抱く。それでも、未知による恐怖よりも未知だからこその好奇心という、感嘆と興奮の気持ちの方が上回った。
十六年間知りもしなかった秘密の部屋だが、この場所も勝手知ったる我が家であることに変わりはない。私は意気揚々と部屋中を物色しはじめた。
まず目についたのは、壁に貼られた紙の数々。いくつかのメモに紐付けされた、いくつもの魔法陣のような図形。留められた紐を視線で辿って、メモの内容を読み解こうと試みた。
結論から述べると、無理だった。これは私の英語能力が低いからなどといった単純な理由ではない。シンプルに意味が分からないのだ。より正確に言えば、語順や文構造が現代の英語と異なりすぎて、日本語訳しようにも単語同士が繋がらず、文章として成立させることができないのである。日本でたとえるなら、何の知識も辞書もなしに数百年前の古文書を読まされているような気分だった。
分かるはずもない疑問は一旦棚上げし、次は写真に目を通してみる。しかし、これも初見の認識と大きく外れていた。モノクロの写真だと思って認知していたものが、よくよく観察してみると鉛筆で描かれた精緻な模写だったのである。有名な美術大学の美大生もかくやの出来だった。
今度は、一際異彩を放つ蓋付きの大釜を観察してみる。
大釜は人がひとり分入れるほど大きなものだった。釜の蓋を開けると中は空であり、最近使用された形跡はない。大釜の側面には、神話を描いたレリーフのような図像や装飾が施されている。よくよく観察してみると、大釜の縁に葉脈のような長い引っ搔き傷が彫られていた。それが偶然付いたただの傷か、海外で使用されている文字か、あるいはどこかの古代文字か、そこまでは判別できなかった。
「魔女の隠し部屋みたい……」
誰に聞かせるでもなくそう呟いて、私は物色を再開する。
少々の埃が積もった本棚からひとつの本を取り出し、中身を確認する。要所にイラストが描かれていたものの、肝心の内容は当然のように翻訳できなかった。
隣の小さな棚に保管された植物標本には、それぞれ異なる植物が保存されていた。一目見ただけで名前が思い至ることはないが、おそらく調合に使用する薬草なのではないかと推測する。
床に置かれた木箱には、植物標本用と思われる細長いボトルが何本か見つかった。使用されないまま時間が経過しているのか、こちらも埃被っていた。
「……」
最後は、何かしらの部屋に繋がっているであろうふたつの扉だ。
どちらの部屋に入るか少し悩んで、まずは近い方の扉へ向かう。鍵がかかっている可能性も考えたが、そもそもドアノブには鍵穴すらなかった。隠し部屋にしてはかなり不用心である。
ドアノブに手をかけ、私は軽はずみにもその扉を開けた。
「…………え。いや、これっ」
扉を開けた先、最初に目に飛び込んできたもの。
それが何かを認識した瞬間、私は目を見開き、息が詰まった。
「────」
それは、見紛うことなく心臓だった。
心臓。心臓。心臓。心臓。心臓。心臓。心臓。心臓。心臓。心臓。心臓。心臓。心臓!
目も眩むほどの大量の誰かの心臓が、一律にガラス製の容器に保存され、壁一面の棚に所狭しと並べられていた。
「──っ!!?」
暖かな調合室との絶望的な温度差と、ホラー映画の導入のような驚愕の光景。唇を嚙み締めたせいで、吐き気どころか悲鳴すら出なかった。
それでも時間差で情けない悲鳴を上げないよう、申し訳程度に左手で口元を抑える。あと一撃で砕けそうな冷静さをどうにか保ちながら部屋の中を見回したが、壁際の棚には心臓しか置かれていなかった。
「……」
心臓以外に目立ったものの存在は、ひとつだけ。部屋の奥には、何かを覆い隠すような大きなカーテンが掛けられている。
「……」
開けるべきではない。その先を覗くべきではない。
──それでも、できる。ただそれだけの理由で、人は何だってやろうとする。本当にできるかも分からないにもかかわらず、やろうとしてしまう。理性も本能も理解しているはずなのに、在ると分かればやらずにはいられない。できると信じてさえいれば、簡単に一線すら越えてしまえる。
はたして人はこれを、何と呼んでいたのだったか。
「……」
今まで、世界中の誰にも明かされなかった謎に吸い込まれるように、私は歩みを進める。
見たことも聞いたこともない数の心臓に道程を見守られながら、私は意を決してカーテンに手を掛けた。
「────」
──ここにきて突然だが、告白しようと思う。私は、両親に関してろくな記憶を持たない、親不孝な娘である。
正確には四歳以前の記憶がまったくないのだが、それでも自分の親の顔くらいは把握している。記憶に新しいのは結婚式で撮られた写真や、若い頃に撮影されたアルバムの写真だ。映っている姿が過去のものだったとしても、顔を見ればある程度想像力は働く。
それは、彼らが年を取ればこうなるだろうという、大まかかつ大雑把な推測だ。
「あ……」
だから、一目で理解してしまった。
「あ……あ……」
──培養ポッドらしきものの中で保存されていたものが、父と母の遺体であることに。
「わあああああああああああっ!!!!」
現実を受け入れた瞬間、私の口からみっともない絶叫が溢れ出した。