二〇二四年三月二十七日水曜日 午後二十時四十三分
今夜は、私の人生にとって初の試みだった。
普段なら絶対に気づかない狭い道を通り、奥の奥に作られた隠し階段を下らなければ見つけられないであろう、例の地下賭博場。日中どころか夜中ですら絶対に足を踏み入れないであろう場所に今、私は強面の男となって潜入捜査している。
入り口らしきドアの前で待ち構えているガードマンらしき怪しげな男に、醍醐さんは慣れた素振りでカードキーらしきものを見せる。しばらくすると、正規の客だと承認されたのかだんまりで道を通された。
ここまでは特にアクシデントもなく進んできたと言えよう。現在、設置されているお洒落なバーに腰かけ、待ち人が現れるのをひたすら待ち続けていた。
「だ、醍醐さん……」
「うん? 何か見つけたッスか?」
気を抜けばすぐさま泳ぎそうになる視線を、手元のグラスに固定しつつ声を潜める。
目を閉じれば、ところどころで響くチップが重なる音。目まぐるしく回転するスロットマシンやルーレットの喧しい音。いくつものカードが捲られ、テーブルに擦れる音。ディーラーや客による賑やかしい悲喜こもごもな声の数々。忙しなく続く音の洪水は、聞く人によれば浮足立つか、逆に委縮することだろう。
私は醍醐さんの隣に限界まで接近し、小声が聞こえる範囲に顔を寄せた。
「あの……話によれば、地下賭博場にあるバーで醍醐さんの友達の聞き取り調査をする、って話でしたよね」
「そうッスけど、それが?」
「いや、どう見てもこれ──いわゆる裏カジノってやつじゃないですか! なんで事前に教えてくれなかったんですか! てっきり丁半的な賭場を想像してたんですけど!?」
「あ~それについてはスンマセン。先週まではちゃんと賭場だったんスよ。オレが出入りしてない間に週替わりで賭博内容が変わってたの忘れてて」
「そんな食堂の週替わりランチみたいに言わないでください……」
醍醐さんの気の抜けた炭酸のような返事に、私は無駄に冷や汗を増やす。
完全にアウェーな空間に心が屈しないよう、私は緊張を解すようにウエルカムドリンクを喉に無理矢理流し込んだ。当然、中身はソフトドリンクである。ここで好奇心の赴くままに未成年飲酒へ舵を踏み切るほど、私の理性はまだ酩酊していない。私は我慢ができるし空気も読める女──今は男だが、そんなことはどうでもいい。
ちなみに、指定していた待ち合わせの時間は午後二十一時だ。件の待ち人は未だ姿を見せないまま、私たちは手持ち無沙汰で目の前のドリンクを呷るだけの人形と化している。
「そういや、さっきの話の続きなんスけど」
「……はい?」
「さっきのお姉ちゃんってやつ。呼ばれた試しがないから、なんかくすぐったくて。オレ、兄弟姉妹は双子の姉貴しかいないんで、ちょっと新鮮だったって話がしたくて。マーちゃん先輩のお姉さんには申し訳ないけど……頼られてるみたいで、なんか嬉しかったッス!」
醍醐さんは自然な流れで私の黒歴史を掘り返したが、嬉しそうに弾んだ声には嫌悪や侮蔑といった悪感情は一切含まれていなかった。
純度百パーセントのおおらかな陽キャパワーに心が浄化されつつも、降って湧いた互いの姉妹の話に喜んで乗る。
「へ、へー……? そっか、醍醐さんって双子のお姉さんがいるんですね。どんな人ですか?」
「そうそう。つっても全然似てねーッスよ、二卵性だし。あ、写真持ってるんでよかったら見ます? これ、昔学校帰りに撮ったプリなんスけど」
「いいんですか、そんなあっさり……それじゃあ、お言葉に甘えて」
プリクラで写真を撮るほど仲のいい姉妹とは、うちでは到底考えられない常識だった。
姉は性格的にも職業柄でも、写真はあまり好まないだろうから、私からは誘いにくかったというのもある。姉が映った写真といえば、アルバムに残された数枚の写真と、成人式の折に撮影した一枚しか持っていない。
他所の家の姉妹事情にギャップを感じつつも、スマートフォンに共有されたプリクラの写真をありがたく拝見した。
「……この、左にいる子がお姉さんですか?」
「そうそうそれ」
「可愛い人ですね。優しそうなおっとり系女子というか……あ、目が似てるかも」
「と思うじゃないッスか。最初はみーんなこの見た目に騙されるんスよ、言うなれば食虫植物ッスよ食虫植物。子どもの頃なんて喧嘩したら殴るわ蹴るわフライパン投げつけるわ、ブチ切れたときの気性の荒さは折り紙付きッスよマジで。最近じゃ悪意のない一言でしょっちゅうSNS炎上させるし。っぱアイドルなんて止めとけばよかったかなァ……でも、それ以外にあの顔の使いようなんてないし……」
「…………ん?」
醍醐さんの姉評価が徐々に意識から遠ざかっていく中、私は目の前にあるいくつかの写真に集中していく。
見覚えのありすぎる格好──というより、日常生活で見慣れすぎた制服のスカートとネクタイの色に、私は目を見開いて思わず声を上げる。
「え!!? これ鳶浦の制服!!?」
「あれ? オレらが通ってた高校知ってるんスか?」
「知ってるも何も、醍醐さんうちの学校のOB……いやそれよりもちょっと待って!」
突然の新情報に混乱してきた私は、再度手元のスマートフォンに視線を戻す。
プリクラの写真に映ったふたりは、学校指定のスカートを履いているのである。私は努めて冷静沈着に息を吸っては吐いて、今一度目を閉じて情報を整理した後、目を開けてもう一度写真を注視した。
ふたりとも、学校指定のスカートを、履いているのである。
(ヒ……ヒェエエ────!!!!)
真実に気づいた瞬間、人目も憚らず悲鳴を上げそうになった私は根性で喉を締めて、声を押し殺した。
──私は、今日一日とんでもない勘違いをしていたらしい。私の首は錆びついたブリキのおもちゃのごとく、特有のぎこちなさを伴って動いた。
「あ、あの」
「そっかそっかー。マーちゃん先輩ってオレらの後輩だったのかー……え、何スか?」
「か……勘違いしてて、すみませんでした……」
「急に何の話!?」
血の気の引いた表情で絞り出した声は、我ながら情けなく強張っていたのが分かった。




