表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/98

二〇二四年一月十八日木曜日 午後十七時三十五分

 祖父の遺品整理で何がしんどいと言われれば、間違いなく本の分別が挙げられる。

 祖父の部屋はとにかく蔵書が多い。有名な大学の教授の研究室並みに大きな本棚には、文庫本から史資料まで幅広く取り揃えられていた。中身の大半は英語で記載されており、海外から取り寄せたものも少なくない。残りはそれらとは特に関係がないであろう料理系の本や日記、美術や宗教の図説も複数置いてあった。おそらく、店に出す商品を作るためのインスピレーションを得る必要があったのだろう。

 祖母の指示通り、美しく仕分けされた本の山を見て一息つく。今日もコーヒーが美味しい作業だった。



(よっし、あとは……)



 私は、見る影もなく綺麗になった空の本棚を眺める。

 終わって見ればあっという間だった遺品整理も、残すはあと一冊。それを取り出して、棚を拭いて乾かせばミッションは終わりだ。

 私は、最後に残った一冊を手に──取ろうとした。



「……うん?」



 B6版の本に似つかわしくない、あまりの手応えのなさに違和感を抱くのは早かった。

 どれほど片手で引っ張ろうと、本が取り出せない。というより、本の底が本棚に直で張り付いているとしか思えない。当然、片手ではこの本を動かせないのはご覧の通りだった。

 しかし、ここで諦められるほど、私は中途半端な女ではない。行儀が悪いと怒られるのを覚悟の上で、私は本棚に片足を置き、両手で本を力いっぱい引っ張った。



「せーのっ……!」



 腕力による力技に訴えてもなお、最後に残った本だけが、どうしても本棚から取り出せない。



「んぐぐぐぐ……ぐぎぎぎぎ……」



 たかが一冊、されど一冊。本ごときにこれ以上の時間も労力も割けるほど、私は暇人ではなかった。



「へェ、ハァ……何だこれ……この本だけ杭かなんかで打ち付けられてんの……?」



 たったの三分足らずで体力を著しく消耗したため、一旦力づくの方法を諦めて仕切り直す。

 情けなくへばった体を休めるため、持ってきたコーヒーを飲みながら取り出せなかった本を改めて観察した。見たところ、背表紙には何も書かれていない。もちろん表紙にも何もない。外装は色褪せた合皮と思わしき素材で作られた、ただの本──と思われる。



(経年劣化? 接着剤かなんかでくっつけられてる? それとも本の形をしたダミー? 本棚の飾り?)



 では、なぜ取り出せないのかと問われても、知るかとしか言いようがない。



(……)



 埒が明かない。このまま思考しているだけでは途方も日も暮れる。

 目の前の本を祖母に伝えるべきか考えたところで、ふと馬鹿げた可能性に思い至った。



(……まさか)



 私は、微動だにしない本を凝視する。



(……まさか、押して駄目ならなんて。そんなベタな)



 現状を解決する有効打がない以上、物は試しだ。私は本を引っ張るのではなく、あえて奥へ押し込んでみる。

 ──すると、今までびくともしなかった本は、そのまま壁に吸い込まれていった。



「…………は?」



 何度でも言おう。今まで微動だにしない杭のような本が、()()()()()()()()()()()のだ。



「…………は!?」



 まるでそうすることが至極当たり前であるかのように、ありえない超常現象がいとも容易く眼前で展開された。

 本が壁に溶けるように消えていった瞬間、そこを中心に光の亀裂が奔る。一瞬何かしらの幾何学模様が見えた気がしたが、再確認することは叶わなかった。

 数秒後、壁だったものは取っ払われ、そこに人ひとりがギリギリ通れそうな扉が現れた。



「嘘みた~い……」



 急カーブで状況に置いてけぼりにされた勢いで、私は思わずか細い声で呟いた。

 ひとまず扉を開けてみようと手を中空に動かしたとき、気がつく。扉には取っ手らしきものが存在しなかった。上下左右見回そうと、これ以上何かが起こりそうな予兆もなかった。

 またしても流れが詰んでしまったらしい。そのまま立ち往生していると、見かねたヤマトが私の肩に乗ってきた。



「ご主人様。あなたは合言葉を言わなければいけません」


「へ? ヤマト? ……合言葉って?」


「合言葉。これは秘密の部屋を開ける鍵です。これはパスワードです。またはオープン・セサミです。そう、これは合言葉です」


「……なるほど?」



 つまり、本物の扉を開けるには、本の仕掛けと合言葉の二重構造をクリアしないといけない。

 しかし、ヤマトの謎のアドバイスをもってしても、目の前の現象を説明するには遠く及ばないだろう。

 ──危うく一瞬流されかけたが、この状況の意味が理解できない。なぜ、引き抜けない本を前に押したら壁に吸い込まれたのか。なぜ、そうすることが当たり前であるかのように超常現象が発生したのか。そもそも物理法則のルールはどこにいってしまったのか。このことをすぐにでも祖母に知らせるべきだろうか。

 それ以前に、まず合言葉とは何だ。祖父のものであるはずの仕掛けを、この現象を何ひとつ知らされていなかった私に分かるはずもない。

 思考がカレー鍋の底より混沌に満ちていくのが分かる。私は一度冷静になるため、テーブルに置いておいた冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。

 主人のいない椅子に座って、一息つく。



「せめて、何かヒントがあれば……あ」



 そこまで言って、私は思い出した。

 ヒントであればすでに、祖父からもらっているではないか。例の遺言書は、このときのために遺されたのではあるまいか。



(……『信濃柿だけは死んでも食べちゃ駄目だし、じゃがいもにだけはなってはいけない』)



 たとえば、あの遺言書の内容が、この扉を開くパスワードのヒントだったとしたらどうだろう。目の前で超常現象が起ころうが、これですべてに説明がつかないだろうか。

 私はスマートフォンを取り出し、アプリを起動させる。今まで調べながら書き留めていたメモ帳の中から、情報を引っ張り上げた。

 厳選した情報の大波を指先でサーフィンする。私はこの十八日間、ただ本を取り出しては掃除を繰り返してきたわけではない。



(信濃柿の別名はマメガキ、学名の由来はホメロスの叙事詩『オデュッセイア』に登場するロートスの実。その実を食べた者は、強すぎる快楽で故郷に帰ることすら忘れてしまう代物で、転じて夢想家や夢追い人を意味する。じゃがいもは比喩表現、英語における慣用句ではlike a couch potato……転じて、怠け者を指す)



 快楽、夢想家、怠け者。異なるこれらの意味を表す言葉が、ひとつだけ存在するはずだ。



「…………これ、か?」



 祖父から提示された最初の謎解きは、案外すぐに見つかった。時間にしておよそ二週間と四日が経過していたが、積み重なったストレスは冗談だったかのように霧散していた。我ながら現金な性分だと思う。


 その『鍵』を見つけたとき、私の中では確信と疑問がないまぜになった。


 ──マメガキではなく、わざわざ信濃柿と訳されていた意味。

 それは、鍵であるパスワードが日本語であることを指し示していたからだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ