二〇二四年三月二日土曜日 午前十一時十三分
寒々しい受験シーズンは過ぎ去り、いよいよ待望の春休みに突入した。
──実際の春休みは先輩たちの卒業式を挟んであと三週間も先だが、私の中では三月中は実質春休みと同義である。異論は認めよう。
二月の寒気は三月になってもなお続き、マフラーや手袋は現役続きである。昨日の三月らしい気温は一転、今日は全国的にも真冬の寒さに包まれている。北海道では局所的に大雪が降る始末だ。春はまだ遠い。
今日の外の気温はさておき、私は絶賛春休みのフィーバータイムを満喫していた。『Ma1-10Ro13a』の新作、息抜き、生地や部品の調達、息抜き、文化祭における部活の出展のテーマおよび衣装の着想、息抜き──今年もやりたいことは百八の煩悩の山のごとしである。
今年は高校生最後の年だ。泣いても笑っても、悔いのない時間を目一杯過ごしたい。
「茉楠、暇してンなら面貸しな」
私がさっそくスマートフォンのメモ帳で買い物リストと帳簿を作成していると、祖母から物々しく声をかけられた。
こういった場合、よほどのことがないかぎり祖母が私に協力を求めることはない。重要性の高い用事だと察し、私はすぐにスマートフォンから顔を上げる。
「どうしたの? 緊急なやつ?」
「割とだね。アタシは小僧を迎えに行くから、アンタは先に今から言う場所に待機してな」
「小僧……ん、え? 相良さん? なんで? 今からってどこに?」
「その質問の前に聞きたいンだが……アンタ、織姫以外に妖精を見たことはあンのかい?」
私の困惑に紛れた矢継ぎ早の質問攻めも意に介さず、祖母はあっけらかんとした態度でそう言った。
私にとって妖精という存在は、織姫を見るまでは絵本や物語で語られるような、おとぎ話上の存在であり、幻想世界の住人だった。当然、織姫の種族──ハベトロットという妖精どころか、そもそも妖精についてもろくに認知していない。後々どういう存在なのか気になり出して、自分なりに彼女たちを調べたりもした。
まず、妖精とは何か。魔法──大雑把にまとめれば、小さくとも『力』を持つ超自然的な存在、いわゆる自然の精だ。
それは神にも当てはまるのだが、両者の相違点はひとえに権能の大きさと存在の規模が挙げられるだろう。一説には、古代の土着信仰における神々が徐々に人々の信仰を失い、『力』が衰え零落し続け、その果てに縮んだ姿が妖精であるとも言われている。
基本的にはいたずら好きで気まぐれ、人を助けることもあれば殺すこともある、人と比較すると良くも悪くも純粋で外からの影響を受けやすい。飛ぶ妖精もいれば飛ばない妖精もいて、美しいものもいれば醜いものもいる。国や地域によって、その個性は動物や魚と同じくらい多種多様なようだ。
次に、糸紡ぎの守護妖精について。彼女たちはイギリス──イングランドやスコットランドに棲むという、醜い老婆の姿をした妖精だと伝えられる。
その名の通り、彼女たちは毎日糸を紡ぐ存在であるため、糸を引くその手は豆だらけで、糸を舐めるその唇はぶ厚く、大きく垂れた下唇をしているという。
しかし、織姫はどう見ても老婆とは程遠く、むしろ可憐で愛らしい少女のように映る。これは、織姫が彼女たちの中でもとりわけうら若く、また妖精としても未熟だからというのが理由らしい。
魔法や魔術に親しむ世界において、古ければ古いほど、年が上であればあるほど強く、尊ばれるのはここに由来するという。話を聞くに、誕生してから百年も経たない妖精はどこでも未熟者扱いされるようだ。最初にこの話を聞いたとき、まるで京都の老舗基準の話のようだと思ったのはいい思い出である。
また、織姫の性質から一目瞭然だが、彼女たちは非常に心優しい妖精だ。昔話の一説では、糸紡ぎが下手で困っている娘の代わりに糸を紡ぎ、重労働を肩代わりしてくれたという。さらに、彼女たちの紡いだ糸で織り上げた服を着ると、あらゆる病が治るとも伝えられている。そうした成り立ちゆえか、彼女たちが番を持つことはなく、また番を求めることもないらしい。
そんな、人からしてもとても立派な種族を思い浮かべながら、私は祖母の問いに首を振って否定した。
「ない」
「だろうね。だったら黙ってついてきな。右も左も知らンアンタは知っとかなきゃならンからねェ」
「……何の話?」
「妖精……いや、善きヒトビトについての課外授業さ。知ってて損はないよ」
そう言って、祖母は意味ありげな表情で不敵に笑ったのだった。




