二〇二四年二月十四日水曜日 午後十七時二十分
「で、これはアンタ宛てじゃないのかい?」
「知らん知らん分からん、怖っ。まずその界隈に心当たりないし、それだったらおばあちゃん……なわけないか」
「馬鹿を言うのはこの口かい? アタシゃまだまだ現役だよ!!」
「はい、すんませんっした」
おふざけはともかく、祖母は真面目な顔に戻って顎に手を当てた。
「ふむ。あとはそうさね、あるいは……」
「あるいは?」
「……依頼の前報酬かねェ」
「依頼? ……誰が? いつもの人?」
私が尋ねると、祖母は首を振って肩をすくめた。そこまでは思い至らないらしい。
だからといって、私の方に心当たりがあるはずもない。祖母にも思い当たる節がないというのであれば、必然的に顔も名前も知らない第三者が贈ってきたということになってしまう。
──考えられる可能性は、ひとつある。この名もなき贈り主は、他でもない祖父に依頼したかったのではないだろうか。祖父の不幸を知っている人は相良さんを含めた身内以外にいないはずなので、祖父が亡くなっていることを知らないまま報酬の前払いをした、という可能性は大いにある。
だとすれば、この報酬はなおさら受け取るわけにはいかない。今すぐにでも返送したいが、宛先不明ではこちらもお手上げだ。
「ゴエ―」
とにかく、我々に今できることは何事もなかったかのように糸巻きを元の場所に戻し、来たる日まで知らぬ存ぜぬを通すことだ。
私は、糸巻きを置いたテーブルに目を向けた。
「……」
しかし、置いてあったはずの糸巻きは忽然と姿を消していた。
──なぜかそこにいる、白い鴉の存在と引き換えに。
「……おばあちゃん」
「ン?」
「糸巻きってそこに置いてあったよね?」
「ああン? それ以外どこに置い……」
私の指摘で事の重大さに気づいたのか、あの祖母が一瞬にして言葉を失ってしまった。
こういうときに限って、自分たちの察しの良さを恨めしく感じることもないだろう。
「……?」
自分が何をしでかしたのか理解していないらしい鴉は、小動物のように愛らしく小首を傾げる。
曇りひとつない作り物の瞳の美しさとは反比例するように、こちらの表情と感情に暗雲が立ち込めようとしていた。
「まさか……」
「もしかしなくとも……」
嫌な予感とは、それが最悪であればあるほど当たるものらしい。
眩暈がするようなデジャヴである。私と祖母は流れる水のごとき俊敏さで、ヤマトに詰め寄りかかった。
「こンのバカガラスがァー!! 何でもかンでも口に入れやがって!!」
「吐け!! 今すぐ丸呑みしたのを吐けェー!!」
「ゴァアアアアアア──!!」
見かけだけなら動物愛護団体に訴えられそうな光景だが、私と祖母は至極真面目に必死だった。
機械仕掛けの白い鴉は、聞くに堪えない叫声をまき散らしながらもなお抵抗を続ける。
「これは動物虐待です!! これは動物虐待です!! これは」
「じゃかあしい!! 火災報知器みたくいっちょ前に喚いてンじゃないよ!! とっとと吐きなァ!!」
「おばあちゃんもうやめよこれ以上は近所迷惑だって、通報されちゃうって」
結局、十分ほど奮闘したが糸巻きが吐き出されることは、ついぞなかった。
「……どうしよう。どうすればいいのこれ」
「今すぐこの馬鹿の腹を搔っ捌いて豚の貯金箱のごとく粉砕するか……一番手っ取り早いのは忘れることだね」
「でも前報酬受け取っちゃったよね? 忘れるって……」
「御託だね。こっちに使う気がないなら受け取ったうちには入らン。そもそも急な依頼なら直接本題に入るはずさ、こんな回りくどいことしてる暇があるとは思えないね。幸い他にメッセージもないし、罠と思しき術式や呪いの類も見られない。『夢死』の魔女へのラブコールと解釈した方がまだ信憑性がある」
無理矢理都合よく解釈を始める早口な老害に引きながらも、私ひとりでこの問題を解決するにはあまりに無力なのも事実だ。
胸の裡で嘆息しながら、私は祖母の意向を仰ぐ。
「……つまり?」
「アタシたちは何も見なかった。アンタも今日のことは忘れな。責任はアタシが取る」
「……」
いざというときの割り切りが上手すぎる祖母の、異様なほど覚悟が決まった神妙な表情を見て、私も心を決める。
そして、せっかく贈ってくれた名も知らぬ誰かに心の中で合掌して、闇の中に消えた糸巻きを忘れるように努めることにした。
薄情だ臆病者だと罵られても構わない。顔どころか名前すら知らない誰かに心の底から同情できるほど、私は人が慈悲深くできていないのである。というか、人が完璧に設計される世の中なんて出来の悪すぎる幻想にも程があるのだから、許されたい。
(糸巻きの君、どうか極力恨まず憎まず成仏してください……)
そんなどこにも届かない祈りを捧げながら、今年のバレンタインデーの悲劇は幕を閉じた。




