二〇二四年二月七日水曜日 午後十七時十八分
いつも通りに授業が終わった帰り際、真理愛は前日の宣言通りにゴスペルが収録されたアルバムを一式持参してきたので、快く受け取って帰路に着いた。
「ただいまー」
「おかえりなさいませ、ご主人様」
「姫様! おかえりなさーイ!」
「あれ、ヤマトと……織姫? もしかして、急ぎの用事?」
「ン? 違うヨ? 待ちきれなかっただケ!」
いつものように帰宅すると、玄関では織姫と、織姫の頭に座り込んだヤマトが待ち構えていた。
謎めいた元気な返答にやや意表を突かれるも、私は足を止めずに洗面所へ向かう。
「私たちはここで失礼します」
「じゃねー姫様、クレナイがリビングで待ってるからネ!」
「……?」
意味深な言葉を残して祖母のそばへ戻っていく織姫たちを見送り、手洗いと着替えを終えてから私もリビングへ向かった。
「ただいまー」
「ああ、ようやく帰ってきたね。待ちくたびれたよ」
「……私がいない間になんかあった?」
「なンかもクソもあるもンか。これを開けてみな」
そう言って祖母が私に差し出したのは、真鍮とワインカラーのジャガード生地で誂えたアンティーク調の箱だった。高級感のある光沢がリビングの照明に照らされ、宝石のように輝く。
両手で持てるほどの箱を手の平に乗せたまま、私は祖母に尋ねる。
「おばあちゃん、これは……?」
「アイツ、今年も生きられるかどうかの瀬戸際だったろ? もし今年のこの日までいられなかったら、この『箱』を渡すように言われてたのさ」
「……!」
唐突に語られる祖母の口ぶりから、箱の贈り主が誰なのかすぐに思い当たった。
言わずもがなといった様子で、祖母は咥えた電子タバコを吸って、吐き出すように言葉を続ける。
「この『箱』は当然ただの箱じゃない。魔女が直々に設えた魔法道具だ。この『箱』は一年に一度だけ、この日の決まった時間にだけ開けることができる。しかも、開けるたびにその『箱』の中には何かしら入ってる。サンタクロースも裸足で逃げ出すプレゼント贈与マシーンさ。ま、そンとき入ってるものが何かは当日にならなきゃ分かりゃしないって点だけが玉に瑕だがね」
祖母の話に耳を傾けながら、祖父が私に贈りたかった魔法道具に視線を落とす。
生前、大事なことに限って何ひとつ残そうとしなかった祖父を思う。特別ではないことを誰よりも喜び、無意味なことを我がことのように全力で楽しんでいたあの人と、もう二度と誕生日を迎えられない。
狡い人だと思う。せめて、たった一度だけでもよかった。祖父が秘密にしていたことを、誕生日でもない何でもない日にでもいいから、本人の口から直接聞きたかった。
「いいかい茉楠、誕生日は今年だけじゃないンだ。来年も、再来年も、そのまた来年も……テメェが道半ばでくたばるのが鼻先三寸まで見えてたとしても、アンタが死ぬまで祝う気満々だったのさ、あのジジイは。この『箱』を本当の意味で空にするまでは死ぬなっていう、アイツなりのメッセージを遺して逝っちまったがね」
「……うん」
「分かったかい? アタシもアンタも、とンでもなく重たいジジイに目を付けられちまったのさ。良い意味でも、悪い意味でもね」
「……うん!」
祖母の優しい言葉に頷きながら、私は再度目の前の箱に視線を落とす。
どこかの宮殿に置いてあっても遜色ないような、かつて見た子どもの夢が現実になったような──もう、そんなことはどうでもいい。
私にとってこの箱は、この世の金銀財宝よりも何よりも、ずっと価値のある宝箱だった。
「……ったく! アタシには家と家族以外ろくなもン遺さなかったくせに、甘すぎるったらないね!」
祖母の不服そうなぼやきに苦笑しながら、私は徐に箱の蓋を開く。
最初に目に付いたのは、一枚の紙片だった。私は箱を置いて、紙片に書かれた文字に目を滑らせた。
──『十七歳の誕生日おめでとう。十三年目の春は、この宝石が照らしてくれるだろう』
短いメッセージだったが、残そうとしてくれていただけでも私には十分である。
箱の中心に収まっていたのは、まるで月の光をそのまま形にしたような、青みがかった透明な石のペンダントだった。石、もとい宝石の小さな穴に通されたシンプルなシルバーチェーンは、好きな長さに調節可能らしい。しかし悲しいかな、宝石の目利きなど私にはまるで備わっていないため、種類までは特定できなかった。
それでも宝石は宝石だ。身に着ける機会などまったくなかったが、私を想ってこの宝石を選んでくれたと考えると、どうしても口元の綻びは止められなかった。
──詳細不明の謎の形で研磨されてさえなければ、もっと素直に喜んでいたかもしれない。
(これ……何だこの形? 割れてる、のか……意図的? そういう意匠? テーマは何? 何だのこの薄く彫られてるふたつの尖った線……何の意味が?)
身を包んでいた歓喜が次第に疑問や困惑へと変わっていく中、固まる私を見かねて祖母がこちらを覗いていたのにも気づかなかった。
「何だいその摩訶不思議なモチーフは。ジジイのやったデザインにしちゃあやけに抽象的だね」
「……やっぱりそう思う?」
「ああ……いや、ちょっと待った。その石、ムーンストーンじゃないかい?」
「ムーンストーン?」
「ふむ……この帯状の光り方、間違いない。ったく、十七を迎えた孫にやるプレゼントがこれって、どこまでロマンチストなンだかねェ……」
祖母はややうんざりしたような面持ちでため息をつくと、突然リビングから出て行ってしまった。




