二〇二四年一月二十八日日曜日 時刻不明
さて、いつまでも呆然と景色を眺めていられるほど、私は暇人ではない。
付き合ってくれているヤマトが黙して見守る中、私は出入り口に繋がると思われる小屋から少し距離を保って、飛行のための安全確認を行う。
(空……に見えるけど、ここって天井とかの概念ってあるのかな……?)
一週間ほど前に習ったばかりの紙操魔術を駆使して、空間に障害物がないことを確認し終えるが、素人の確認なので一抹の不安は拭えなかった。
軽傷は仕方なしと諦めて、私は小屋の出入り口に設置された短い階段に腰かけ、『ドロシーの銀の靴』に履き替える。
この靴は、祖母による鑑定とリテイクと意見も踏まえ、一週間の時間を経てようやく完成に漕ぎつけた珠玉の一品だ。
術式の肝だった「踵を三回鳴らして事前に行き先を設定すれば、どれほど時間がかかろうと必ず目的地に辿り着く」という条件は、いわばカーナビのようなものである。あえて設定を緩くしておくことで、突然の目的地変更にも臨機応変に対応できるように調整した。ただし、その場の明確かつ明瞭な意思決定をすることが大前提であるため、人や状況によっては上手く機能しない場合も考えられるのが現在の懸念点といえる。
この一週間、私は改めて自分がいかに無知な新米だったかを痛感させられた。というのも、祖母と協議している途中で『タラリア』という名の空を飛ぶサンダルの存在を知ってしまったからである。
『タラリア』とは、ギリシア神話に名高きオリュンポス十二神の一柱、伝令神ヘルメスが所有し、英雄ペルセウスが怪物退治に借り受けたとされるアイテムとして有名だ。その逸話と性能から当然、古代神具に分類される。元より、材料として使用された不朽の金を用意することなど到底できなかったため、現時点における再現は不可能ということで、この案は泣く泣く断念した。最初に『タラリア』の案を採用していたらと思うと寒気がする。この一件は自分の実力不足を身に染みて理解する、いい経験にもなった。
そんな経緯があったものの、残すところは試運転のみである。今後浮上する欠点などは、試運転の都度改良を続けていけばいい。今大事にしなければいけないのは、自分の作った作品を信じることだけだ。
「……目標は、ひとまず一周」
いよいよフライトのときを迎えた。両方の踵を合わせるため無駄に微調整を繰り返しつつ、比例するように緊張で速くなる心臓の鼓動を無視し続ける。
「外周を一周して、扉の前まで戻ってくる!」
直立したまま踵を三回打ち鳴らし、私は空を睨みながら声高に叫んだ。
──瞬間、地から天へと向けて風が巻き起こり、体が宙へと舞い上がる。
「と──」
浮遊の成功に驚く暇もなく、体は勝手知ったる風に見えない軌道に乗って、弾かれるように前進した。
まるで、人の体に翼が生えたかのような躍動感に全身が震え出す。
「飛んだあ──!!!!」
私は歓喜と興奮に叫びながら、色とりどりの花畑を尻目に飛翔する。
視界が秒速で流れ、七色の景色が通り過ぎていく。自身が弾丸になったかのようで、耳元では風を切る音が確かに聞こえた。
(ヤバいヤバいヤバいヤバい!! これ、めっちゃ楽しい!!)
自分で推測した理論の的中と、人類の夢とロマンを同時に味わう特有の多幸感。
この世のすべてが手に入ったかのような全能感と酩酊感に酔いしれる。この瞬間だけは、すべて私のものだ。
「────ご主人様、ご主人様。お気づきになりましたら返事をしてください。完璧無視はもしかしたら私も心に傷を負うでしょう。赤ん坊のごとく泣き喚いてもよろしいですか?」
「…………え!? ヤマト!? うっそごめん、いつから追っかけてきてたの!?」
距離にしておよそ半周に差し掛かった頃、聞き慣れた声に振り返れば、ヤマトが並行して私と飛んでいたことにやっと気がついた。
白く硬い翼を時折はためかせながら、スピードを落とさずヤマトは嘴を開く。
「夢が」
「え?」
「ひとつ、叶えることができましたね。素晴らしい成果です。マシュー様も喜んでいるでしょう」
「……うん!」
まるで保護者を彷彿とさせるヤマトの言葉にくすぐったく思いながらも、私は強く肯定した。
小学生高学年の頃、唐突に海が見たくて山下公園までヤマトとともに自転車で並走した記憶が蘇る。結局、目的地に到着する前に体力が底をついたので、ヤマトを追い越せたことはただの一度もないのだが。
「あ、もう一周しそう……ねえヤマト、どっちが速く周回遅れにできるか競争する?」
「原初の空の支配者である鳥に向かってなんという無謀な提案。しかし私は受けて立ちましょう……I can fly」
「立つんかい。じゃあ限界まで付き合ってよね!」
今はただ、長年の親友と同じ目線で時間を共有していることが、たまらなく嬉しかった。
ちなみに、時間を忘れて飛び回ったせいでさすがに魔力切れを起こしたのか、急停止とともに美しい花畑に墜落したのはまた別の話である。




