二〇二四年一月二十八日日曜日 午前十時二十六分
この日をどれほど待ちわびたことだろう。五日間の授業なんてまるで身に入らないほどの高揚感に全身が包まれる。
手に持った『ドロシーの銀の靴』に視線をやった。いよいよお待ちかねの試運転の時間である。
相良さんと別れて帰宅した後、迂闊にも屋外で空を飛んだことが祖母にバレてしこたま怒られた。そのため、今後の飛行訓練は地下室に位置する植物園──そのさらに奥に繋がる『外』で行うことになったのだが。
(『外』とは聞いたけど……地下空間だし、それほど広くはないよな……)
エンシェント・ガーデンの『外』に続く扉を見やる。私は未だその全容を知らない。
息を深く吸って、吐く。いつまでも立ち往生なんてしていられない。空を飛びたい。『外』を見たい。今はふたつの欲求で頭がいっぱいなのは察してほしい。
今日、記念すべきその瞬間がようやく果たされると思うと、この上なく感無量だった。
(ま、壁とか天井にぶつからなければ何でもいっか!)
逸る気持ちを抑えながら、私は扉の前に立つ。
掛け算された期待と興奮で心を満たした私は意を決して、『外』への扉を開けた。
眩いばかりの痛すぎる光が差し込んできて、思わず目を瞑ってしまった。
次に、刺すような光を労わるような柔らかさで、ほのかに暖かい風と花の匂いが肌を撫でる。
「…………?」
どこか懐かしさを感じる光の強さに慣れたところで、徐に目を開くと──
「────」
──見渡すかぎりの地には緑と花が、どこまでも続く空には降り注ぐような春の日差しが、体中を優しく抱き締めるように視界いっぱいに広がる。
言葉を失った。地下空間から続く『外』が、まるで地上となんら変わり映えのない光景であることを理解したとき、私は膝を折ってしまいたくなった。
目に映るものは何でもない景色だし、何の歴史的価値も見いだせない立地だ。何の変哲もない緑と花と空に囲まれても、もはや月並みな言葉しか出てこない。
「────」
これは、奇跡だった。
近所を探せばどこにでもあるような平凡な風景なのに、たとえ世界中を探してもふたつとない非凡極まる光景が、ここにあった。
そんな風に思ってしまうのは無理もないことだと認めざるを得ない。なぜなら、本来であればこの場所は、青空すら拝むこともできない、太陽の光さえ射すはずもない隔絶された地下空間だからだ。
目に映るすべてが、異常だった。ここは冷たくて、渇いていて、人が生きるにはあまりに狭い地底世界のはずなのに。
「────」
温かい。暖かい。得体の知れない温もりは、不可解への恐れと同時に安心感という矛盾をもたらす。
仮に、遺伝子にも内なる記憶が存在するのであれば、地上から切り離されたような小さな春の世界に、望郷と回帰を垣間見ることができるのだろうか。夕日に同じ懐かしさを感じられたときのように、瞼越しの景色をもう一度思い出せるだろうか。
ここへ来てもなお、私は未だ大事にしなくてはならなかったような記憶を、思い出せずにいる。
「…………」
いくら考えても答えが出ない問題を、頭を振って思考から追い出す。
改めて、目の前の『外』に意識を向ける。この目に映る景色の正体は、何なのだろうか。最新のプロジェクションマッピング、超大規模な映画のセットデザイン、見かけ倒しの張りぼて、よくできた偽物──それらしい単語を並べようが、そのどれもが違うと、今なら断言できる。
綺麗だと思えるはずなのに、どうしてこんなにも寂しいと感じ、どこまでも作り物めいた風景だと思ってしまうのか。
喉に小骨がつかえたような違和感の正体を考えて、私は気づく。
(……そういうことか)
ここには、自分たち以外の生物がいない。
鳥の鳴き声も、虫の羽音も、生きるものの声がまるで聞こえなかった。この地底で生きることを許されたのは、栽培された植物だけ。
しかし、そんな場所が本当に実在するとしたら、それは楽園の再現に他ならないのではないだろうか。
(もし、これが『夢死』の魔女の魔法によるものだとしたら、納得はいく。……でも、ここまでできるって分かると、もうデタラメでしかないな)
魔女の弟子であり、魔術師の末端に籍を置いた今の私であれば、これが何なのかを言い当てることができる。
「──世界、だ」
ここは、魔女の手によって生み落とされた、もうひとつの世界だった。




