二〇二四年一月二十日土曜日 三時限目
箒に乗って空を飛ぶ。
子どもの頃、誰しも一度は夢を見ること間違いなしの願望、そのひとつではないだろうか。
(ああ──私、その夢を叶えてるんだ……)
そこで思い出されるのは、魔女と箒の関係性についてである。
基本的に、魔女は箒があれば難なく飛べる。しかし、魔術師が飛行魔術を会得するには、箒だけではなく魔女の軟膏と呼ばれる塗り薬を塗る必要があるという。しかも、彼らは飛んでいるだけでなけなしの魔力も消費しているため、飛行による移動方法は全体的に非効率な上、魔力不足による途中落下の危険性が非常に高いことが近年の研究で判明したらしい。現在、好き好んで箒で空を飛ぼうとする魔術師はほとんどいなくなったという。人類が抱きがちな淡い夢に反し、かなりシビアで世知辛い現実だった。
ちなみに、魔女が歴史に登場した初期の頃は、箒だけではなく棒やピッチフォーク、椅子、果ては山羊や犬などの動物の背に跨って空を飛んだと認識されていた。そもそも、何をどうやれば椅子だの山羊だので飛行するのか甚だ疑問に思うのだが、もしかすると飛行機やヘリコプターの登場を予言していたのかもしれない。あながち的外れとも言い切れない未来予測であると言える。昔の人の想像力と慧眼に敬意を表したい。
そのうち、グラウンドレーキで空を飛んだとしても疑問すら抱かなくなりそうだ。
「ご主人様、私は箒に乗れない魔女は聞いたことがありません。その姿はまさにナマケモノです」
「ヤマトうるさいっ」
私の修行風景に疑問を呈するヤマトの心無い発言に、食い気味な辛辣さで返す。私は空中に浮いた箒になんとかぶら下がりながらも、その手は絶対に離そうとしなかった。というか離せなかった。
空中──たとえそれが、地上からわずか五十センチメートルの高さだったとしても、角度を見誤って落下すれば確実に背中を痛めるだろう。
絶対に痛いという事実は見なくても分かりきっており、怖いのはもっと嫌だった。
「あっヤバい、腕もう限界……あだっ!」
懸垂すらまともにできない貧弱な筋肉では到底太刀打ちできず、私はあっけなく箒から手を離してしまった。
大の字で地面に倒れる私のそばまで降りてきたヤマトは、大きな嘴で私の額を小突いた。
「その程度で落ちてしまうとは情けない。ドロシーの努力を顧みてみましょう」
「は? 誰だドロシー……あ、あれか、『オズの魔法使い』のドロシーか! うっさいわ! というか箒にすら乗ってないでしょーが!」
箒は飛ぶのにろくに跨ることもできない。魔女の弟子のくせに生来の身体能力のなさで躓くなど、言語道断だ。みっともないにも程がある。
私はここが外であることを忘れるほど、恥も外聞も掻き捨てて大いに荒れた。
「チクショー!! 偏見だ!! 魔女を名乗る人全員が箒に乗って空を飛べるなんて夢を見るなー!!」
「私は知ってます。人はそれは近所迷惑と言います」
「ヤマト、マジレス禁止」
苛つくほど丁寧に茶々を入れるヤマトに言い返し、私はもう一度箒にぶら下がりながら現実逃避を始めた。
「あ゛ーもう駄目だ無理。せめて命綱ほしい……」
絶対的な支えになる道具があれば恐怖心も多少は和らぐだろう。
軽く思いついたものの、瞬時に冷静になって我に返る。
(……そうなると綱の先、どこに結べば……棒の先?)
十秒無心で思考を巡らせた後、私は考えることを放棄した。
「……うん?」
次の瞬間──突如として箒が秒速で上向きになり、急激なスピードで上空へと踊り出した。
「………ギャ────!!!!」
腹の底から出た死ぬほど情けない絶叫が、綺麗な大空へと響き渡りながら駆け上がった。
角度はまっすぐ九十度、垂直二等分線を引くように箒は空へ昇っていく。
「〰〰〰〰っ!!!!」
あまりに笑えない冗談だと思うが、体感ではF1レベルの速度が出ていると推測される。
なぜなら目はろくに開けられず、自分がどこまで飛んでいるのか把握すらできないからだ。というか、今まで経験したことがないと確信できるほど速すぎて、口すらまともに開けなかった。
(無理無理無理無理死ぬ────!!!!)
重力の負荷と恐怖に耐えられず、脳味噌が処理落ちしていることだけは理解していた。
理屈で理解できたからといって、対処に乗り出せるというわけではない。三半規管は徐々に弱り、腕力も次第に力を失いつつある。
しかし、永遠に続くかと思われた箒の暴走は──突如として、無慈悲に終わりを告げた。
(…………あ、これはヤバい)
中空で突然停止した箒を見て、私は半ば確信した。
──間違いなく落ちるな、と。
「……────あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
今さら箒のコントロールなど利くはずもなく、私の体と箒は真っ逆さまに急降下する。
再度飛来する重力により、またしても目が開けられない。遊園地のフリーフォールでもここまで酷い恐怖を味わうことはなかっただろう。
今はただ、絶望的に頼りない手の平の棒を握り締めながら叫ぶことしかできない。
無駄だ無謀だと頭では理解していたとしても、私は世界中の誰よりも神様仏様救世主様の存在を心から希った。
「助けっ……助けて誰か助けっ──!!」
私の切なる願いが聞き届けられたのはどうかは、分からない。
私が叫び出した刹那──文字通り時間が止まっているかのような、得も言われぬ感覚に襲われた。
「あ、あの……だい、大丈夫ですか?」
そして、気づいたときには、私は男性の腕の中にいた。




