二〇二四年一月二十日土曜日 午前十時
これほど休みを待ちわびた日はない。
いつも通りの家事掃除を終わらせた後、待ちに待った魔術の講義の時間だ。
今日は最高気温が十度を下回る冷え込みであり、午後からは雨予報が予想されているにもかかわらず、現在地のエンシェント・ガーデンでは地上の天候とはまったくの無縁である。どういう理屈かはまったくもって不明だが、この地下植物園では一生が春のまま空間が固定されているかのようだ。こういうとき、魔女の弟子でよかったとしみじみ実感させられる。
麗らかな春の陽気のような、暖かな日差しが差し込む机を挟んで、祖母と向かい合って着席した。
「それでは、第一回魔術講義を始める」
「よろしくお願いします」
「っとその前に、オリエンテーションをやっておこうかね」
形式上の挨拶を交わすと、祖母は私に手の平サイズの紙片を渡してきた。
「この紙は?」
「魔力感応紙さ。詳しいことは追々説明する。ひとまず、この紙にありったけの魔力を流し込んでみな」
「流し込む……」
鸚鵡返しで確認しつつも、今は祖母の言われるがままにやるしかない。
集中するために視覚情報を断って、ひたすら魔力を流し込む──意識してやったことなどあるわけないが、まず紙を持った指に力を込める。込められた力を支点に、私の中に流れるものを向こう側に渡すような、そんなイメージ。
すると、指先が手汗で湿ってしまったのか、心なしか紙が湿気てしまったような気がして、私は目を開いた。
「これは……水か」
同時に、祖母が淡々とした調子で声を上げた。
「……水? 手汗じゃなくて?」
「何わけわからンこと言ってンだい。指先程度の手汗で紙全体が湿るもンか」
「……ホントだ! なんで!?」
祖母に呆れた様子で指摘され、慌てて紙を触ってみる。
指先しか触れていないにもかかわらず、全体が霧吹きで濡らされたように湿っていた。
「それで、知りたかったことってこれのこと? 水って何のこと?」
「分かった分かった、説明するからちったァ落ち着きな……アタシが知りたかったのは、アンタの魔力と得意な元素属性さ」
「魔力と、元素……属性?」
「万物の構成要素の分類法、あるいは魔術師が干渉しうる要素のことさ。たとえばアリストテレスが提唱した四元素説、古代インド思想のタットワ、真言密教の六大論……地域によっちゃあいろいろあるが、要はアンタの得意は水だった。今はそれだけ覚えときな」
「ははあ……」
歴史をまともに学んでいれば一度は聞いたことのある単語が多く通り過ぎたが、情報量を規制するため今は聞き逃しておく。
すると、祖母は私が持っていた紙をそっと抜き出して、私に見せつけた。
「ちなみに……アタシは地なンだとさ」
「うわっ、紙がボロボロに……」
私が湿らせた紙を、土塊のように崩して見せた祖母はさらに続ける。
「アタシやアンタの持つ元素属性ってェのは、いわゆる四大元素の中のひとつ。そこに空や識っつうのも後から合流して、今では六大元素と呼ばれてる。前者はともかく後者が得意な魔女や魔術師はそうそういないから、記憶の片隅に留めときな」
祖母の講義に赤べこのように頷きながら、与えられた新情報を反芻する。
私の得意は水。なるほど確かに、流した魔力が水の属性を帯びていれば、その魔力に触れた紙が濡れるのは自明だ。聞いたところ、その人の得意分野程度の魔術的な方向性なのだろう。いいことを聞いた。
しかし、魔力を知りたいとはどういうことだろう。たとえば血液型のようなものだろうか。その人が持つ固有の遺伝子情報が魔力にも存在するのであれば、こちらも知っておいて損はないだろうが──
「次は何だったか……ああそうだ魔力の話か。言わずもがなだが、魔力は魔法や魔術を再現させるための根源的な力そのものだね。電化製品の動力である電気しかり、人間を生かす血液しかり……使いようによっては人間に益をもたらすし、当然害ももたらすもの。ここまではいいかい?」
「うん」
「その名の通り、魔力は人間にだけじゃなくて、地球や宇宙にも当然存在する。というか、ぶっちゃるとどこにでもある。ちっと強引な例えだと思うが、おおよそ魔力は万物の生命力としても解釈されてる。そういう魔力が流れる地脈は今だとレイラインっつう呼ばれ方をしてて、数は昔ほど多くない。だから、レイラインが多く集まる土地は今じゃ宝石より貴重で、魔女や魔術師が高確率で根城にしてる。山や湖に密集してるのがほとんどだし、そういった霊験あらたかな場所ほど、ソイツらが隠れ住んで研究に勤しむのにうってつけなのさ」
(…………?)
──違和感が、あった。
小骨が喉に引っかかったような、あるいはひとつの謎を前に、核心に迫るヒントを盛大に見逃しているような、そんな違和感。
飲み下せないまま、講義はさらに続く。
「また、人体が保有する魔力は魔女や魔術師にとってのDNAとも言われてる。つまり、どれだけ上手く外面を偽装しようが血液や細胞、もっと言うなら──生まれついた能力は替えが利かない。それは魔女でも魔術師でも同じことさ」
「へー……じゃあ今のって私の魔力を調査してたってこと? どういうときに使うのそれ?」
そこで、祖母は少し言葉を止めたが、ひとつ瞬きをした後に口を開いた。
「……たとえば、個人の魔力情報の記録と、現場に照合できるだけの残留魔力さえ残っていれば、仮にその場にいなくとも魔力の持ち主が誰か、必ず特定できる」
(…………あ!!)
そこで、私はやっと思い出した。
悲痛な表情で祖母が言っていたではないか。──死因が、何もなかった現場に唯一残された証拠だったと。
(そうか、まだ残ってるんだ……ふたりの遺体に、犯人の魔力が!)
ふたりの遺体を丸ごと保存してでも、当時の証拠を確保しなければならなかった理由がこの一点にあった。
しかし、重大な証拠を掴んでいたとしても、犯人の持つ魔力と照合させなくてはならない。つまり、犯人候補との会敵が大前提。それでも、もし犯人と思しき相手と当時の魔力の痕跡が一致しさえすれば、自動的にその人物が犯人であることが確定する。
証拠を頼りに捜索するにしろ、会敵した後争いになるにしろ、絶対にひとりで対峙してはならない。──仮にも殺人犯が相手なのだから警戒は当然なのだが、それだけでは済まない気がするのはなぜなのだろう。
一瞬だけ背筋に伝った悪寒に身震いし両腕を擦ると、区切りがついたのか祖母は重く息を吐いた。
「今使えそうなのはこンくらいかねェ。……これ以降の魔力の知識はマナ学でもっと詳しく学べるだろうから、資料が欲しけりゃアタシに言いな。今のは最低限の、しかも実践的な知識でしかないからね」
「あ、はい」
「この土日を使って手を付ける魔術は決めておいた。──まず最初に覚えてもらうのは、紙操魔術だ」
魔力に関するオリエンテーションを終えて、ようやく一時限目が始まりを告げた。




