二〇二四年一月十八日木曜日 時刻不明 Ⅶ
植物園を出て調合室に入った際に、私はさっそく祖母に疑問を投げかけることにした。
「そういえば、なんで私がこの部屋に入ったって分かったの? ここからリビングまで大分距離があったと思うんだけど、報知器とか設置してた?」
「ああ、そのことかい? 糸だよ糸。この地下空間にあらかじめ張り巡らせておいた糸を通じて、音を出した侵入者を織姫が教えてくれたのさ」
「……織姫?」
「マ、半分気づいてンならもう隠す必要もないね」
祖母は突然指を鳴らしたかと思えば、何もない空間に視線を向けた。
「──織姫、挨拶しな」
「ハーイ!」
「……は?」
祖母が言葉を投げかけた次の瞬間、すぐ近くから少女を思わせる甲高い声が聞こえたと同時に、何かが現れる。
「あ……」
彼女を認識した瞬間、私は感慨深さに言葉を失った。
丁寧に結い上げられた亜麻色の髪、幼女のように柔らかく愛らしい顔立ち、満点の星より輝く灰色の双眸、幻想に生きるエルフのように尖った耳。
見覚えのありすぎるピンクと紫を基調とした、フード付きのギャザーポンチョ。十三年間謎に包まれていた目の前の小人は、この日ようやく素顔を晒したのだった。
祖母が彼女を指して話を続ける。
「コイツはアタシが契約してる使い魔、織姫。裁縫仕事で右に出る者はなしの糸紡ぎの妖精、ハベトロットのひとりさ。本来は老婆の姿をした妖精なンだがね、いろいろあってアタシが面倒見てンだ」
「改めてましテ、こんにちは姫様! 今まで無視してごめんネ? クレナイが黙ってろって言うからサー? 声かけてあげらんなかったのはわざとじゃないヨ!」
「あァ? 待ちな織姫、アンタいつ気づかれた?」
「えーかなり前だヨ? この家に来て二週間くらいだったかナ? よく覚えてないヤー」
「…………」
呑気な織姫の返答に、祖母はまたしても片手で顔を覆ってしまった。
すると、織姫は私の視線の下で小石ほどの豆だらけの手を差し出した。律儀な挨拶に応えるため、私は迷いなくしゃがんで握手をした。
「まー細かいことはなしなシ! よろしくネ、姫様!」
「うん、これからよろしく……姫?」
「何か変? 『夢死』の魔女は女王だし、女王の後継者だから姫ってコト!」
「なるほどそういう」
この年になって冗談でも姫と呼ばれた試しがないため、思わず何とも言えない微妙な顔になってしまった。
──織姫が糸紡ぎの妖精だと理解したところで、唐突に電撃が走ったかように私は思い出す。『Ma1-10Ro13a』のレジカウンターの横に堂々と置かれていた、もはやそういう形のオブジェとしか思えない、木製の巨大な人力織機を。
「……まさか、あの織機ってそういうこと!?」
「そういうこと」
「? 何のコトー?」
謎がまたひとつ解決してしまった。
筋トレブームが過ぎ去って久しいルームランナーのように、ぽつんと寂しく店の角を陣取っていた木製の人力織機。てっきり一昔前のインテリアか味のある置物として飾っているのだと思い込んでいたが、まさか未だ現役で活躍中とは想像だにしなかった。
つまり、今もなおあの織機を利用し、織姫の作る糸を素材に特別製の布を作製しているのだろう。こだわりの深さが垣間見える職人魂に脱帽せざるを得ない。ぜひとも布の使い道を聞いておきたいところだ。
気を取り直して、私の次の質問を口にした。
「じゃあ、ついでに一応聞くけど……この部屋にある心臓ってさ、何に使うの?」
そう言って、私は遺体と心臓が安置された保管室に人差し指を向ける。
私の素朴な疑問に、祖母はなぜか目を怪しく輝かせながら片眉を上げた。
「あン? それは黒魔術の生贄用──」
「!?」
「──なわけないだろ、ハッハッハッ!! 霊薬の調合に使うンだよ、決まってンだろ? ああ、だからあンな悲鳴上げてたのかい? 手に取ってよく見てみな、それは妖精の心臓さ」
「……妖精? 妖精って……」
私が懐疑に満ちた視線で織姫を見やると、正解と言わんばかりにふたりは頷いた。
にわかに信じがたいが、人間の心臓ではないことを確かめる必要もあるだろう。ひとまず祖母の許可はもらえたので、私は妖精の心臓とやらが入った容器を改めて観察する。
「…………」
──この場で確実に言えることは、目の前に保管された心臓は、人間の心臓とは明らかに異なるということ。
冷静になって考えてみれば、人間の心臓はここまで小さくはないだろうし、そもそも赤以外の色など存在しない。奥の部屋までよくよく観察すると、心臓はそれぞれ種族や個体差などあるのか、大きさはまばらだ。色もスタンダードな赤から創作としか思えない紫など、千差万別だった。色が異なるのは、おそらく妖精に通っている血が人間と異なっているからだと思えば、納得はできる。むしろ人間と同じ血が通っていた方がおかしいのだから、一生物として違うことが当たり前なのだ。
結論として、恐怖と動揺による脳の錯覚とは、人の悪意と同じくらい恐ろしい。私にとって人生一の過ちは生涯記憶に残るだろう。分かりやすいほど単純な違いを見落としていたことが、とにかく恥ずかしい。
「心臓なンざなかなか出回らないからねェ、一個一個買い落とすのにも苦労するンだ。勝手に持ち出したらアンタの心臓で賄ってもらうからねェ? ヒッヒッヒ……」
「ねえ、今のどの辺が笑いどころ? ほんの数十分前まで一般人やってた人にその魔女トークは冗談キッツいんだけど?」
「ああそうかい。そいつァ気苦労かけたねェ」
童話に登場する魔女のような祖母の笑い声に背筋がうすら寒くなりながら、私は妖精の心臓を元の場所に戻した。
小粋──と、本人だけが思っている──な魔女あるあるについていける体力はもう存在しない。細かい話は後日問いただすとしよう。
そこで、ふと何かを思い出したのか、祖母が私の顔を見て口を開いた。
「そういやアンタ、なンで最初から出てこなかった? ハナからアタシに全部聞きゃあ、わざわざ契約なんざしなくて済んだろう? しかもコイントスまでタネにしてさ」
反撃と言わんばかりに祖母から今さらな疑問を投げかけられるが、私は目を逸らしてすげなく答えた。
「いや……殺されると思って、つい」
「はァ? そンな馬鹿なこと考えてたのかい?」
「いや、棚の目立つところに心臓バンバン置かれたら誰だって嫌な想像するでしょ」
「フ……ハッハッハッハッハッハ!! 馬鹿だねェ、ちょっと観察したら人間の心臓じゃないことぐらい分かるだろ? アンタの目利きもまだまだだね」
「心臓の目利きなんざできてたまるかァ!!」
からかうような、あるいは馬鹿にするような祖母の笑い声と軽快な笑顔に、無性に腹が立った私は声を荒げた。
今日は自分だけが異様に恥をかいた日だ。未だに顔が少し熱い。情報量が多くて頭もややオーバーヒート気味だ。というか普段の倍の疲労が溜まった。気疲れに耐えられず、私は壁に寄りかかる。
祖母は伸ばした髪を一房いじりながら、そばにあった椅子に腰かけた。
「しっかし、なンだってまたそンな素っ頓狂な発想になるンだが」
「それは元はと言えばヤマトが……?」
「……」
そこで、キャッチボールのように続いていた私と祖母の会話が露骨に途切れた。
すれ違いの発端となったのは、完全に私の勘違いで始まったことは認めよう。しかし、今になって客観的に振り返ってみれば、私でなくとも勘違いさせてしまう数々の要素は、あまりにも大きいのではないだろうか。小説や童話の魔女を彷彿とさせる動力不明の仕掛け、魔法円のメモや大釜、はては用途不明の大量の心臓に両親の遺体だ。ここまで動かぬ証拠が揃っていて、変な思い違いをしない人間は少数派だと私は信じたい。
しかし、そんな変な思い違いをして精神を滅多打ちにされた私に対して、誤解を解くようなことも言わず、むしろ追い打ちとばかりに火に油を注ぐような言動をした存在がいる。
──そこで、私と祖母の考えが完全に一致した。
「まさか」
「もしかしなくても」
私と祖母は、揃って白い鴉に目を向けた。
ヤマトは我関せずといった様子で尖った嘴で羽の毛繕いをしている。あまりに吞気なその様子に、祖母はひったくるようにヤマトの首を掴んだ。
「おい、お喋りクソガラス。アンタ茉楠に何吹き込んだ?」
「これは誤解です。あれは誤認です。私は彼女に真実を伝えたと信じています」
「アタシの質問に応えな。──茉楠に、何を、吹き込んだ?」
「Yes, ma'am」
そしてヤマトは、祖母に尋ねる前の私に言った言葉を一言一句祖母に伝えた。
すると、祖母の顔は何とも形容しがたい複雑な表情を浮かべ、皺が寄った眉間をほぐしつつ言葉を零す。
「……まァ……あながち間違いとも言い切らンが……ヤマト、この世には例外って概念があンだよ。しっかり頭に叩き込ンどきな。次に馬鹿しでかしたらそのちっさい脳味噌、トンカチでブチ割ンぞ?」
「Yes, ma'am」
「まったく人騒がせな……ついてきな茉楠、この短時間でわけも分からず疲れたろ? ちっと早いが飯にしようじゃないか。手伝いな」
「あ、うん。分かった……」
話が一段落して自然と肩の力も抜けたのか、私はいつも以上に気の抜けた返事をする。
夕食を準備するため調合室を出て行こうとする祖母の背中は、いつもよりずっと頼もしく映った。
「知りたかったンだろ? マシュー・L・クローズの家系──アタシら魔女について、一から少しずつ教えてやるさ」




