二〇二四年一月十八日木曜日 時刻不明 Ⅴ
コインが導き出したありえない結果に、到底受け入れようのない決定に、開いた口が塞がらなかった。
なぜなら、通常であれば絶対にありえない挙動で、ひとりでにコインが裏返ったのだ。けして見間違えなどではない。まるで、私には『視えない何か』がそこにいて、勝手にコインを裏返したかのような酷すぎる違和感を伴っていた。仮に他人の介入によるイカサマだったとしても、こうはならないだろうという得体の知れない確信がある。
予想すらしていなかった勝敗を前に、私は動揺を隠せなかった。
「は……はあっ!!? 嘘、え、なんで……なんでコインが勝手に!? え!? は!?」
「これで終わりかい? ったく、児戯以下の遊びだね。メンコでもやってた方がマシだったかもだ」
「ちょっと!? 今のはなしでしょ、なしなし! もう一回、やり直し! っていうか、おばあちゃんさっきコインに細工したでしょ! じゃなきゃコインがあんな挙動するはずない!」
「……アタシが? いつ? どうやって? 負けたからって言いがかりはよしとくれよ。第一、コイントスはアンタが持ちかけてきた勝負じゃないか。どうやったらアタシが今の一瞬で細工できると思ってンだい? むしろ細工するとしたら、それは仕掛ける側のアンタだけだろ?」
「そ、れは……」
祖母のもっともな反論に言い返せず口ごもっていると、トドメとばかりに鋭い眼光で私を睨みつけた。
「──それとも、アタシがイカサマしたって証拠があンのかい? 告発するってンなら、確かな証拠は当然あるンだろうね」
「……っ」
詰めが甘いという自覚はあった。
それ以上に、何も言い返せないことがただただ悔しかった。
「証拠がないンなら、被告の控訴は棄却だね。一昨日来な」
「……だったら!!」
正論で論破できないのであれば、言葉に寄る説得はもはや意味を成さない。
であれば、プランBだ。リスクが大きすぎるためあまり使いたくはなかったが──油断している隙に、逃げるしかない。
「だったら? ──っ!?」
私は床に落ちたコインをすぐさま拾って、祖母の顔のラインぎりぎりを狙って思いきり振りかぶった。
私がコインを投げてまで反撃することは想像していなかったのか、祖母はひどく驚いた表情でコインを避ける。
その間隙を突いて、私は祖母に背を向けて走った。今まで参加した過去の運動会や体育祭、それらをはるかに超える全速力で扉に向かおうとした──次の瞬間。
「ぐぇえ゛っ!!?」
突然、背後から勢いよく何かに引っ張られ、私は我ながら汚い声を上げて背中を床に強打した。
目の覚める強烈な痛みとともに、全身が異常な重力に包まれたようなプレッシャーは、絶対に気のせいではないと痛感する。
「う゛ぇっ、いって……っ!? な、何これ……?」
首と背中の衝撃から目を開けて体を起こす。
──眼前には、いつの間にか両手足に青白い光を放つ枷と鎖を装着させられていた。それだけではない。首元の圧迫感に堪えかねて手を当てれば、なぜか首輪も嵌められていた。どういった素材でできているのか知りようもなく、また手で破壊することなどできそうもない。
異様な重さや自然のものとは到底思えない、現実離れした鋭利な冷たさが肌を突き刺す。それは次第に恐怖となって背筋を伝い、私の身動きを取れなくしていく。
今の私は、まるで脱獄に失敗した間抜けな罪人のような有り様だった。
「……枷? 鎖、と首輪? どこからこんなもの……?」
「馬鹿だねェ。曲がりなりにも、アンタは魔女と契約したンだ。分かるかい? アンタが先に望みと条件を提示して、アタシは了承した。結果、アンタは負けた。履行どころか代償も払わずに逃げ出そうとすれば、当然こうなるに決まってンだろ?」
「は……?」
契約、代償──少なくとも、私に責任を求めていることだけは、理屈の上ではなんとなく理解できる。
しかし、祖母の言っている内容は、まるで分からなかった。今の説明だけでは、私の身に起きた状況との解説にはならない。
「魔女との『契約』ってのはね、つまりは『魂の束縛』なのさ。契約自体は双方の合意の上で成り立つ。が、互いのパワーバランスには天と地ほどの差がある。言っちまえば、強い方が有利な立場に、弱い方が不利な立場になる。なンとなく分かるだろ? 今回の場合はかなり健全な方だ。これが文字通り魂まで売っちまうような事態になると、まァ悲惨だね。相手によっちゃあ死ぬまで奴隷人生まっしぐらだ」
「……!?」
「アンタも相手に契約を持ちかけるときは気をつけな。──喰うはずが逆に喰われちゃ、笑い話にもなりゃしねェってね」
突如顕現した枷や鎖の説明をしてくれているのか、祖母は饒舌に語ってみせる。
(魂の契約……死ぬまで奴隷……)
一方私はといえば、思考の放棄一歩手前のようなショック状態だった。得体の知れない恐怖により一瞬で感覚が麻痺し、正直祖母の話はほとんど耳に入ってこなかった。
それでも、自分が取り返しのつかないやらかしをしたことだけは身に染みて理解した。祖母の発言がすべて事実であれば、契約とやらが成立したのは私が本題を切り出したタイミング以外にない。策士策に溺れるとは、まさにこのこと。イカサマまでしてこの危険地帯を切り抜けようと仕掛けたはずが、まんまと流れを利用されてしまった。
──悔しい。降って湧いた感情に歯噛みする。負けたことはこの際どうでもいい。ただひたすら、早計だった。あまりに、自分が情けなかった。
この状況下から麻痺した精神が抜け出せないでいると、祖母は私の背後まで近づいてきていたらしい。伸びた影が、私を逃がしてはくれなかった。
固唾を呑んで、私は恐れ戦きながら祖母を見上げる。彼女は私に着けられた鎖を手で弄びながら、心底呆れかえった様子でこちらを見下ろしていた。
「第一、魔女相手にコイントスで勝負するなんて、そんなの『ご自由にイカサマしてください』って言ってるようなもンじゃないか。間抜けだねェ」
「そ、そんな……待って。じゃあ、あのとき見たのは」
「ま、何もかも相手に明け渡さないよう、事前に意思提示しただけでも及第点さね。ったく、変なとこで冷静なンだか向こう見ずなンだか、だ。これも血は水より……いや、あるいは天命なのかねェ」
祖母は感慨深くも冷静に、まるでこちらの性質を査定するかのような言い回しをした。
(…………)
私は、滲んでいるんだか渇いているんだか自分でもよく分からない視界が鬱陶しくて、やおら目を閉じる。深く息を吸って、深く吐いた。
結論として、私のやること成すことは見通しが甘かった──甘すぎた。あまりに時間が足りなさすぎた。出し抜くには準備を怠りすぎた。祖母の指摘通りの間抜けな結果となった。
イカサマまでして負けた以上、私には受け入れる以外に道などない。
「さァて、どちらかが──ってェ話だったね? だったら遠慮なく要求させてもらうよ。アタシがアンタに望むことはひとつしかないンでね」
たとえ、この道が血生臭く、後悔だらけの選択だったとしても、私は自分が納得できるまで最善を模索するだけだろう。
覚悟を決めて、私は目を開く。祖母は先ほどの呆れかえった態度と一転して、至って真面目な表情で朗々と自分の望みを謳い上げた。
「──『夢死』の魔女、中原紅の名において、此処に契約を記す」
「──『鈴木茉楠が十八の年を迎え、『夢死』の魔女の三代目を正式に継承するまで、できるかぎり平和に、健やかな生活を送るよう尽力すること』」
「…………ん?」




