二〇二四年四月二十五日木曜日 時刻不明 XⅣ
現役教師の家出過去話に目を白黒させながら、私は鸚鵡返しすることしかできない。
「い、家出……」
「自分のことながら驚くよ。感情のコントロールが効かなくなると、すぐ突拍子もない行動に出てしまう。この悪癖ばかりは直せる自信がない。母も従順だった息子に初めて反抗されたことがよほどショックだったのか、戦争後の疲労によるものか、後ろめたいと思っていたのか……あのときの心境はもう分からないが、追いかけてこなかった」
「……」
「……そういえば、あのときはステファンにも気苦労を負わせたな。自分ひとりで育てたのがよくなかったかもしれないと一日中泣かれて……今頃大丈夫だろうな? 後で連絡してみようか……」
どこか遠い目をしながら懺悔するように零す先生の話には、共感できる点が多い。
私とは異なり、生まれてからずっと魔女として英才教育を受けた先生。私が杞憂していたような不幸が起こらなかったことはせめてもの救いだと思える。その事実が分かっただけでも安堵のため息を漏らせるというものだ。
先生の母親が先生に過剰なまでの期待をかけたのは、彼女が一番息子である彼の才能を正しく見抜いていたからだろう。でなければ、彼が見ただけで他人の魔術や魔法の癖を分析できる審美眼や、芸術の域にまで達した構築技術を涼しい顔で行使できるはずがない。
磨いた技術が彼の努力の賜物であることを差し引いても、魔女の師であり母である彼女がもたらした教育や経験は、確実に先生を今日まで生かしている。
それは、私だって同じだ。
(そう考えると……おじいちゃんと先生のお母さん、ちょっと似てるかも?)
私は夢想する。
出会ったこともない女性だけれど──もしも、彼女も祖父と似たような境遇だったとしたら。
(自分がいつ死んでも、誰も困ったりしないように……)
私は想像する。
──彼女は、自分がこれ以上長生きできないと理解した上で、次代の魔女に遺せるだけのものを遺したかっただけなのかもしれない。
(先生はマニュアルがあるとか言ってたけど、教えること多すぎて時間がなくて焦っちゃったのかな……おじいちゃんはかなりマイペースだったけど……)
そこで先生の咳払いが聞こえて、私の意識が急遽浮上する。
「えっと、すまない。話を戻すが……本当の意味での自由な時間はそう長くは続かなかった」
やや脱線しかけたため、話を本筋に戻した先生はさらに続ける。
「唯一の目標を失って、ひとりになって初めて……私は、自分が本当はどうしたかったのか分からなくなってしまった。そのときまで母の教えを疑ったことは一度もなかったし、母の望まれるままに生きていくものだとぼんやり思って生きてきた。人を疑わないことが罪を生むだなんて、あのときは思いもしなかったんだ」
「それは、それ……は……」
「家出したはいいものの、それで感情の整理なんて付けられるわけがない。日が落ちても帰るに帰れなかった。街を歩きながら途方に暮れている途中で、たまたまドイツに出張していたあの人と──つまり、君の祖父であるマシューと出会った」
「!」
「今になって思うと、向こうは私の顔を知っていたはずだから、詳しい事情を知るために引き留めるつもりだったのだろうが……私が『家に帰りたくない』と言ったら、『帰りたくなるまで店にいればいい』と言ってくれた。何も聞かず、ただそばにいて見守ってくれるその優しさが嬉しかった。あの日のことは今でも鮮明に覚えている」
祖父の話が出てきた途端、先ほどよりも分かりやすく声音が明るくなった。
「あの日、私は『夢死』の魔法を見た。今思えば、あれは『夢死』の力の中でも氷山の一角だったと思う。それでも……」
「?」
「すごく、綺麗だったんだ」
手には届かない星を見上げるように、先生は目を細める。
「母さん以外の魔女と会ったのも初めてだったし、『獄死』以外の魔法を見たのも初めてだったから、思い出補正もあるが──生まれて初めて、魔法を美しいと思った。私にとっては……魔女に、魔法にこだわる理由なんて、それだけで十分だったんだ。この美しさと優しさが守れるなら、私は魔女になっても後悔しないと、初めて思えた」
好きな歌を口ずさむように魔法を語る先生の表情は、初めて見るもので。
「────」
春の陽だまりのような眼差し、そよ風のような穏やかな微笑み、歌うような弾む声音は──とても美しく、優しいと思った。
「魔女として、魔術師として学べば学ぶほど、美しいと思えるものは低俗なものに見えていった。周囲のこともそうだ。民間人が口に出す魔法や奇跡も、好き勝手に空想しただけの、中身の伴わないファンタジーだと馬鹿にしていた」
少し間を置いて、先生は続ける。
「ああ、馬鹿にしていたというのは正しくない。本当は羨ましかったんだ。どんなに夢物語でも、突飛な幻でも──あのときは、ただ、楽しかったんだ。心が躍るような体験だった。夢想するに足る美しいものが、そこにあった」
読みすぎて色褪せた絵本を前に目を輝かせる子どものような、爛々とした眼差しで先生は語る。
「そう……そうだ。初めて好きになった魔術も、特に何の役にも立たない些細なものだった。あのときは成功したこと自体を喜んだが、そうだ。あの瞬間から、もう夢は始まっていたのか」
「夢?」
最後の単語に妙な引っかかりを覚え、反射で口を突いて出た。
「……学校の先生ではなく?」
「先生? いや、なぜそんな話が……ああ。いや、それは違う。別に教師になりたかったわけではないんだ。この仕事はあくまで手段であって、目的ではない」
(それって、学校の教師になるために日本に来たわけではない……?)
新たな疑問が浮上するより速く、先生は話を繋げていく。
「夢……眠るときに見るものではなく、将来の展望、そして希望。後者の意味は聞くのも懐かしい。君は知っているか? 夢のもうひとつの意味は──」
「先生」
けれど、気になることは他にもあった。
先生の言葉を遮って、私は新たな問いを投げかける。
「どうした?」
「先生の、子どもの頃の夢って何でしたか」
「……また、言いにくい質問を……なんでもない」
何か小言が聞こえたような気がしたが、そこは持ち前の眼力で押し通した。
次回更新:9/27、23時予定




