1 究極の二択を迫られる
火の弾ける音が聞こえ、その音で私は目を覚ました。
そこは全く知らない場所で、私は簡素なベッドの上に寝かされていた。思わず起き上がり周りを見るが、やはり知らない場所だ。
可笑しい、確か私は信号無視をしたトラックに轢かれたはずだ。なのに今は柔らかいベッドの上、中央に暖炉のある、煉瓦造りの海外の様な部屋にいる。……轢かれたのは夢だったのか?だがここは一体どこだろうか?
「ああ、ようやく起きたか」
自分の背後から、色気のある男性の声が聞こえた。急な呼びかけに驚き後ろを向くが、やけにその空間だけ薄暗く姿が見えない。だが血の様な赤の瞳だけは見える。思わず小さく悲鳴をあげると、その瞳は細まり、まっすぐこちらを見た。
「体はどうだ?あそこまでの崩れた人間を戻すのは、少々骨が折れた」
「……あ、……えっと……?」
言っている意味が分からず言葉に詰まっていると、薄暗い闇の中で、何かが這うような音が聞こえる。それにどこか、潮の匂いがした気がした。
「アンタは死んだんだよ。普通ならそのままあの世へ行く魂を、俺達が無理矢理この世界に留まらせたんだ」
最初とは違う穏やかな男性の声。どうやら這う様な音を出していたのは彼の様だ。その後に続くのは軽い蹄の音。そして先程と同じ這う音と、蛇が威嚇をした様な声も聞こえる。
その音は全て暗闇から出てこようとしないので姿が見えない。だが何故か震えが止まらない。まるでダンスを踊るように軽快な蹄の音と共に、今度は女性の声が聞こえた。
「貴女がいた世界は、擦り切れた魂しかないと思って気にしてなかったんだけど……まさか、こんな素晴らしい魂と体の持ち主がいたなんて!」
「千年、いや五千年に一人かもしれない!本当になんて美味しそうな人間なんだろう!」
「こればかりは、あのいけ好かない神々に感謝しなきゃね!」
女性に同調する様にまた別の女性、男性の声が聞こえる。最初の男性から数えて五人だろうか?
向こうは嬉しそうだが、この暗闇の声の主達が言っている意味が分からない。だが夢というにはやけにリアルなもので、思わず頬をつねってみても目覚めてくれないのだ。今見ているものが現実だと理解するしかない。
自分の体を見てみるが、どこを見ても傷跡ひとつない。何なら幼い頃にできた古傷さえなくなっている。……私は恐る恐る暗闇の方を見た。
「私が死んで、それを助けてくれたのは分かりました。………でも、何故ですか?」
その質問には全員が小馬鹿にする様な笑い声をあげた。思わず暗闇に睨んでしまう。
「何故?君を食べる為に決まっているだろう?」
「………食べる?」
食べるって、何馬鹿な事を言っているんだ。まさか比喩か?だとしても見ず知らずの、ましてや顔も分からない奴らに襲われるのを許すほど、私は軽い女ではないんだが?文句でも言ってやろうとしたが、それよりも先に暗闇から数々の声が聞こえる。
「私は腿の肉が一番好きかしら?あそこは脂があって美味しいわ」
「じゃあ僕は舌を貰おうかなぁ?」
「ずるい!舌は私が狙っていたのよ!」
「俺は血か、肉なら腕か?」
………あっ、普通に食べるだった。比喩じゃなかった。
暗闇から聞こえる恐ろしい言葉の主達に、このままでは物理的に食べられ殺される。私は慌ててベッドから降りて外の扉を探すが、よく見ればこの部屋にはそもそも窓も扉もなかった。その慌てる私の姿に、一番最初に声を掛けた男がため息を吐いた。
「心配するな、何もすぐ食べようとはしていない。僕達にも守るべき規則があるんだ」
「食べられる運命は決まってるんかい」
「君は他の者が言った通り、五千年に一人いるかいないかの、極上の魂と体を持つ人間だ。そんな君が天へ召される時に見つけた僕達が、血肉と魂欲しさに君を蘇らせた」
「ものすごい理不尽じゃん」
「だが君の体と魂を「契約」もなしに食ったり、汚す事は出来ない」
「話聞いてないなこれ?…………って、契約?」
繰り返した単語に、赤い目は頷くように縦に動いた。
「そう、僕達が人間と契約し、人間の望みを叶える。代わりに僕達は人間に対価を支払ってもらう。それが僕達が唯一、人間を「喰う」事が出来る方法だ」
「………なら、契約しなければ食べられずに、助かるの?」
「もし僕達と契約しないのであれば、治した君の体も魂も元に戻す。……だが、天に返り輪廻に戻る君が、次の人生でも人間に生まれ変わると思わない事だ。君は今の人生で神の最高傑作になりすぎた。恐らく次の人生ではバランスを取る為にも人以下、ハエの様な存在になると思え」
「ハエ!?」
「もしくは君ほどの魂と体なら、天界の変態共に輪廻から外され、永遠にまぐわされるかもしれないな」
「まぐっ!?」
男から聞かされる言葉は、恐らく事実なのだろう。だって私は事故の記憶が鮮明に思い出せるし、扉も窓もないこの部屋だって可笑しい。この暗闇から聞こえる声も、音も、そして体が震えるほどの畏怖も。とても同じ人間に対してだとは思えないのだ。本当に私は、死んであの世に行くのを引き止められたのだろう。
契約をしなければ、このまま私は死に人以下になるか、もしくは好き勝手される運命。だが人でいたいが為に契約をすれば、恐らく魂も体もこの暗闇の住民達に食われてしまう。……どっちにしても地獄ではないか?どうすればいい?詰んでないか?
「……契約で、私の命の保証は出来ないの?」
「貴女程の極上の人間を、私達が一度の食事で済ますと思うの?契約の内容がどうであれ、私達は何度も貴女を食べて、骨になった貴女を何度も蘇生されて、そしてまた食べるつもりよ。だから命だけは永遠に保証してあげる」
蹄を鳴らしながら、やや高圧的に女が語る。さも当たり前の様に言われるが、つまりはどうしようとも私は地獄でしかないと言う事かよやってらんねぇ。だがここで恐れ、彼らに与えられた選択技だけで答える訳にはいかない。
自分を落ち着かせるように深呼吸を何度もして、暗闇に向かって真っ直ぐ睨みつける。その目線を楽しむように、赤い目は目を細めた。
「私はハエにもなりたくないし、永遠に食べられ痛みに耐えるのも嫌」
「なら食う時には、今まで経験した事がないような快楽を与えてやる」
「いやそもそも食われたくないんだが……?」
「……ならどうするんだ?君はどちらにせよ僕達と契約するのか、それとも天の玩具にされるのか決める必要があるんだ」
赤目の男は苛立った様な声を出してくるが、いきなりそんな事を決めろと言われても無理だ。どちらを選んだとしても地獄なのだ。今の選んでいる状態なら、私は天に召される事も、この闇の住民達に危害を加えられる心配はない。
焦って決める事じゃない、それならばゆっくり考えよう。先程まで寝ていたベッドに寝転がる。そして寝転んだまま暗闇に向かって、私はやけに冷静に声を出した。
「ちょっと考えるね」
なんか物凄い大きな舌打ちの音が、複数聞こえた。
そうして答えも見つからず、壁に掛けられている機械時計が、もう何度目か分からない時間の経過の音を鳴らした。最初こそ頭の中では、どうすれば助かるのかと必死になって考えていたが……何だかもう、このまま部屋へのんびりと過ごすのもいい気がしてきた。だってどちらを考えても不幸になるのは確実なのだ。今のこの部屋の中で考えている間は、私は召される事もないし危害も加えられない。
ベッドで寝転がりもう一眠りつこうとした時、暗闇から獣の様な叫び声が聞こえた。あまりにも化け物染みたその大きな声に、私は驚いて起き上がり暗闇を見る。叫び声を出したのは潮と、床を這う音を出している男の様だ。荒い呼吸をしながら、その男は暗闇から少しだけこちらに近づいた。こちらに来るにつれてベッドの側の床が水、恐らく海水で濡れていく。
「一体いつまで待たせる気だ!?早く契約すると言え!!!」
どうやら待ちくたびれて、怒りが込み上げているらしい。穏やかな声だった男は、人が変わったように怒声をこちらへ上げた。流石に怯んでしまったが、すぐに自分を鼓舞して、まだ暗闇に隠れた男へ声を出す。
「このまま答えを出さなければ、天に召される事もないし、私を食べるチャンスがある間は、あなた達は私に手を出す事ができないでしょ」
その通り、と言わんばかりに男は大きく舌打ちをした。
やはり思っていた通りだ。目の前の怪物達は、今の私にどうする事もできない。それならば向こうが折れるまで待てばいい。この待っている間にも、暗闇から唾を飲み込むような音は聞こえていた。私の魂と体に、永遠に手が出せないと分かれば、契約内容もこちらが有利になるはずだ。
すると、暗闇からわざとらしくため息が聞こえてきた。
「どうやら、この人間は自分が有利になる契約の為なら、永遠にこの部屋にいる様だな」
「当たり前でしょ!どっちに転んでも不幸なのは確実なんだから!!せめて自由になるチャンスがある契約にしなさい!!」
「……僕達に、そんな図々しい契約を望んだ人間は初めてだ。今までの契約者は皆、喜んで体を差し出したのに」
「どんだけ全員死にたがりなんだ!?」
無言だった他の怪物達も、呆れた様なため息を吐いていく。
「ねぇ、もう契約なんか辞めて食べちゃいましょうよ?この子、結構図太いわよ?」
「食べようよ!」
「そうね!食べましょう!!」
赤目が女の声の方へ、どこかじっとりとした目で見つめた。
「薄汚い下級と、同じ事を僕にしろと?馬鹿馬鹿しい………………ああ、そうだ」
何かを閃いたのか、今までで一番大きく赤目が開いた。次にはこちらへ穏やかな目線を向けてくる。何故かその目線は、背筋が凍りつく。
「好機なんていらない、君を自由にしようじゃないか」
「……えっ?」
まさか疲れすぎて、私に手を出すのを諦めたのか?思っても見なかったチャンスに、私は何度も頷いて赤目の話を聞く。赤目は穏やかな目線のまま続きを伝えた。
「とある世界で、薄汚い下級共の契約違反が横行している。奴らはその世界の人間と契約するまではいいが、内容の違反や、契約と関係のない人間を殺し喰ったり、契約内容が終了してもその人間の皮を使い、他の人間へ危害を加えているんだ」
「……それが、一体私に何の関係が?」
「僕達は、そんな違反をした悪魔共に罰を与えているんだが……これがまた、人間と契約をしたり紛れている馬鹿を探すのは骨が折れる。だから、それを君に手伝って貰いたい。というより探し出してほしい」
えっ、探せば自由にしてもらえるのか?その疑問には近くに寄っていた男が、這う音を出しながら代弁した。
「おい。まさかそんな事の為に、この人間を諦めるとでも言うのか?」
「最後まで話を聞け。……悪魔と契約した人間探し。その間は、僕達は君に手出しはしない。だが一体を探すのに期限を設定する。その期限を過ぎても見つからない場合、君は僕達の食糧になってもらう」
悪魔、そう男は言った。つまりこの暗闇にいる者達も同じなのだろう。実際にお目にかかる、というか物語でしか聞いた事もない存在だが、人間ではないと思っていたのでさして驚かなかった。そんな悪魔と契約をした人間探し。期限までに見つけれなければ、永遠にこの悪魔達に食われてしまう。確かにこの部屋からは自由にはなるが、それでもリスクが高すぎる。
私の考えが手による様に分かるのか、赤目はもう一押しと言わんばかりに付け加えた。
「勿論、永遠に悪魔達を探せとは言わない。……そうだな、五十年経っても君が食糧になっていないなら、来世の君は人間に、そして何不自由ない立場へ生まれ変わらせてやる。お望み通り、本当の自由だ」
「………ご、五十年……」
つまり五十年間、悪魔探しをし続けなければならない。それまで私は心が休まらないだろうし、期限を超える可能性への恐怖だってあるだろう。
……だが、五十年すればいい。そうすれば私は、また人間へ生まれ変われる。しかも何不自由ない人生が待っているのだ。このままこの部屋で永遠を過ごすよりも、リスクは高いが未来がある。
私の目線に契約をする意思を見たのか。赤目は小さく笑ったと思えば、そのまま目線はどんどん近づいていく。革靴の鳴る音が聞こえるので、どうやらこちらに向かってきているらしい。
それは這う男よりも近くなり、丁度闇と灯りの境界線で赤目は立ち止まった。立ち止まった赤目は、ゆっくりと服の擦れる音を出しながら、右手を私の前に差し出す。
その手は、私と同じ形だったが、肌が蛇の様に鱗があった。初めてみる異形の存在に、本当に悪魔なのだと思い知らされる。赤目はもう一度笑い、更に光へ手を差し出す。
「では、僕達と契約をしよう」
私は、自分の人生の為に、大きく息を吐いてからその手を取る。
「五十年はきついからまけて」
「本当に君は図々しいな」
そこからまた三日ほどかけ契約書を作り、私は五人の悪魔と契約をした。悪魔の悪事が横行している世界は、私の住んでいた世界とは全く異なるそうだ。
勿論急に知らぬ世界に放り出すのではなく、悪魔達はその世界で私の世話をすると申し出てくれた。というか「いつか食べる時に更に美味しくなるように、体を若返らせて育てよう」とか言ってる。
用意された羊皮紙に、慣れない万年筆で名前を書く。向かう世界では話を聞くに、中世に近い様なので、おそらくこの名前を書くのは最後になるだろう。
「契約成立だ」
そう赤目が呟くと、何やらボキボキバキバキ恐ろしい異音が鳴り響く。ちょっと待てお前ら何を折っているんだ?
そして、ようやく光の元へ現れた悪魔達は、皆人間………とは言ってもいいのか分からないほどの、美しい者達に変わっていた。