08 対価
地獄にいた間、サリエルはツンデレのデレしかなかった。ずーっと笑顔だし、ずーっと甘い言葉しか吐かない。おまけに蛇の癖に、尻尾が犬の様にパタパタ動いていた。
通常でこれで、夜にやって来た時なんて、砂糖に蜂蜜とチョコとシロップと……とにかく、ゲロ吐く程に甘かった。ずーーっと好き好き言っていた。その為情を交わしている間は、快感より恐怖が勝っていた。あまりにも恋煩い、病的すぎてめっちゃ怖かった。
だが今のサリエルくんは違う。蛇肌に青筋を立てた、まるで汚物でも見る様な表情。右手は私の頭の上、お陰様で私の頭はバキバキ鳴っている。サリエルくんは唾を吐きながら、私を糾弾し始めた。
「僕達に黙って地獄から抜け出して、こんなお召し物を着て何してたんです?……嗚呼、やっぱり言わなくて良いです。今すぐに帰りますよ。今度は住処からではなく、十年は部屋から出れないと思ってください」
「待って待って待って!!私は悪くない!ダ、ダリに無理矢理連れてこられて!!」
「ダリ?……クソ商人と一緒にいたんですか?ご主人様、また浮気したんですか?」
「だから連れてこられたって言ってるだろ!!!」
「連れて来られて浮気したんですね?」
「何故そうなる!?」
駄目だ、現在この脳筋の頭では、私が浮気した事しか考えれないらしい。どんどん強くなっていく掴みに、そろそろ頭の頭蓋骨がご臨終しそう。
その時、ここまで唖然と眺めていたエウリュアレーが、慌てて私達の側へ向かってきた。
「ま、待ってください!サマエル!主様は、私の目的の為に、協力をしてくださっただけです!」
声に反応して、サリエルがエウリュアレーを見た。悍ましい程の殺気に、エウリュアレーは体を強ばらせる。
「つまり、お前の「目的」とやらの所為で、ご主人様がすぐに地獄に戻って来ずに、こんな所にいると?」
「っ……そ、そうで……ッッ!!??」
私の頭上にあった手は消えた。代わりに、怯えながら肯定をしかけたエウリュアレーが消えた。……いや、消えたというか、一瞬でサリエルに尻尾で蹴られ、壁を壊して隣の部屋に行った。
私と、脳筋を呼んだシェリーは口をあんぐりと開けている。だが本人には簡単な作業だったのか、壁とエウリュアレーを無視して此方へ顔を向ける。
「さぁご主人様。さっさと地獄に帰りますよ。これからやる事が沢山あるんですから」
サリエルは不貞腐れた表情で、再び私の頭を掴もうと手を出した。その姿を見てやっと我に返ったのか、もしくはエウリュアレーの術が解けたのか。シェリーは私の元へ差し出されたサリエルの手を掴む。
「貴方、悪魔なのよね!?今まで私が呼んだ悪魔とは明らかに違う!貴方強いんでしょう!?」
「………お前は何だ」
これは酷い。手を離させようとしたが、その善意の手はシェリーの空いた手に叩かれた。彼女の長い飾り爪が肌に当たり、手の甲の皮膚が少し裂けてしまった。些細な傷だが、しっかりと痛みがあるので顔を引き攣らせる。
サリエルはその様子に目を大きく開かせ驚いているが、必死のシェリーには関係ない。握りしめた手を、彼女は己の元へ近づける。
「ねぇ!この女が欲しいならあげるわ!代わりに私の願いを聞き入れて!!エドガー様が、私を求める様にして欲しいの!!」
身体中が、恐怖で鳥肌が立っていく。
シェリーも震えるが、その意味をわかっていない。何を勘違いしたのか、シェリーはサリエルの手を己の豊満な胸へ触れさせた。
「も、もしかしてご褒美が足りないかしら?……それならっ、私の体を一晩好きにしていいわ!なっ、何なら、貴方を私の愛人にする事も考えてあげる!」
どうやら、シェリーは美しいサリエルを気に入ったらしい。余程己の容姿に自信があるのか、自身が「対価」になりえる存在だと疑っていない。なんて事してくれてんだ、これだから美人は困る。
私は、確定した悲劇から逃げる様に顔を手で隠した。……この続きは、見ていられない。
「……お前が、対価だと?」
サリエルは、ゆっくりと口を開いた。
シェリーは肯定だと信じ、勝ち誇った表情で奴を見つめた。
「ええ!ええそうよ!!私が、貴方の対価に───────……え?」
美しい悪魔の、血の様な赤い瞳を見つめた彼女。
しかし彼女の視界の周りに、悪魔の瞳と同じ色が溢れる。
その赤を不思議そうに見て、そしてそれが血飛沫なのだと知った時。……彼女は、悪魔を掴んでいた手が、床に落ちている事に気づいた。
「……あ、あれ?……え、え?」
「その腐りきった体が、僕の対価だと?お前の魂も、肉も全ても。使い魔の餌にもならないのに」
「わ、私、わた、し、手が、て……う、あ”あ”、!あア”あああ”!!??」
シェリーは狂った様に泣き叫んで、手を切り落とされた痛みで顔を悲痛に歪ませる。まさか私の了承なしでここまでするとは思わなかった。生きていればいいと思っているのか?あまりの悲劇に顔が引き攣ってしまう。
しかしサリエルくんだけは通常運転で、私の手を掴めば、甲についた些細な傷を丁寧に治してくれた。
「血が床に落ちるなんて勿体無い。もう少しご自身を大切にしてください。ご主人様の体は全て僕のものなんですから」
「……う、うん……ありがとう」
シェリーの断末魔であまり聞こえないが、多分心配してくれていると勘ぐりお礼を伝える。結果は当たりだった様で、睨みつける表情は少しだけ柔らかくなった。
傷が綺麗に治ったのを確認すれば、サリエルは座り込む私の体を抱き上げた。
「さぁ、今度こそ帰りますよ。早くご主人様に術をかけて、涎垂らした変態女にしなくては」
「ごめん。今微かに変態女って聞こえた気がするんだけど、空耳だよね?」
「その余計な口も、豚声しか出せなくしましょうね」
「無理無理無理無理無理」
必死に逃げようと暴れるが、サリエルくんには全く意味がない。全てをかわし反撃する奴の床下が、あの憎きスライム状となっていった。何という事だ。このまま地獄へ堕ちて、私は永遠にブヒブヒとかブヒーとかしか言えない地獄の主となるんだ。陰で笑われる地獄の主になっちまうんだ。
その時、後ろからひどく錆びた、鉄格子の開く音が聞こえる。振り向けばシェリーが、聖人を閉じ込めていた檻の扉を、無事な片手で開けている。
まるで猛獣の様に荒々しい表情となっていたシェリーは、中にいる聖人へ向けて罵倒する様に叫んだ。
「殺、せ!殺せ!殺せ殺せ殺せ!!!あの悪魔と女、を!殺せ!!」
なんて強い女なんだ。床の血から見ても、相当な激痛の筈なのに。この短時間で最善の策を考えて実行するとは。やはり、今まで悪魔を欺いていた女は違う。再び私は彼女に関心してしまった。
やがて檻が開ききり、鉄格子に剣が当たる軽快な音が聞こえる。光の元へ現れた聖人は、此方へ憎しみ溢れる目線を向けてくれた。薄暗くて青年を詳細に見る事はできなかったが、エメラルドの瞳に似合う、軋んでもなお美しさがある黒髪だ。どうやら聖人様は、元は中々いい顔の様だ。頬はこけて、骨と皮の状態なのが惜しいが。
右手には刃こぼれが激しい、錆びた剣を持っている。……うん?なんかこの剣、よく似たものを見た事があるぞ?いやいや、それよりも聖人様だ。例え歪な存在になり、放たれる破魔の力は弱まっているとしても、彼は悪魔を薙ぎ払う聖人なのだ。このままだとサリエルは悪霊退散?されてしまう。
私を抱いて離さない奴へ、逃げる様に命じる為に慌てて顔を向ける。
……が。サリエルはその聖人を見て、驚き固まっていた。
「サ、サリエル、逃げないと」
「…………その、剣」
「剣ん?」
剣?あれが何なのだ?だがサリエルは何かを察した様にため息を吐いた。次には私を丁寧に床に下ろす。そのまま私の前に立ちはだかった奴は、後ろから私の顔面に向かって革手袋を投げつける。
「うぷ!」
サリエルはボキボキと、己の手の関節を鳴らしていく。
「申し訳ございませんが、過去の愚行を抹消したいので、持っててください」
「え、愚行?」
何じゃそら?……と、そこで漸く気づいた。
あの聖人の持っている剣、天使ガブリエルが持っていた短剣と、柄が全く同じものだ。
船が大きく揺れた。
蠢く怪物の声が、船の底から聞こえた。