01 耳は健在
耳に囁く様に聞こえる波の音、木漏れ日の隙間からでも分かる、燦々とした太陽。ビーチチェアに寝ていると、天からの焼けるような暑さが、まやかしの太陽ではないと教えてくれる。……嗚呼、これだよこれ。私が望んでやまなかった世界ってやつ。
「イヴリン様ー!この固いやつを割ればいいんですかー?」
「そうそう、中身に水が入ってるから、それを飲むの」
側のヤシの木によじ登っていたダリが、両手に大量のココナッツを持ちながらやって来る。常夏に似合う薄い生地、青のフリルワンピースを見に纏うダリは、まるで女神の様な美しさだ。悪魔だけど。
「中身を飲むんですか?ふーん?」
ダリちゃんは不思議そうに一つの実を片手に持ち、べキッと音を鳴らしながら実を真っ二つに割っていた。君の腕力はいくつだい?
ダリは眩しい笑顔で、手に滴る程の熟したココナッツを差し出した。
「どうぞイヴリン様!」
「有難う、ダリもいる?」
奴が大量に採ってきたココナッツへ指差せば、ダリは首がもげる勢いで横に振った。
「いいえ!イヴリン様みたいに、木の実の汁を飲むほど貧乏じゃないので!」
「ねぇクソアマって言われた事ない?」
「ええ!なんで知ってるんですかイヴリン様!?」
「今私も思ったから」
「えーー!!クソアマにクソアマって思われてるって事ですか!?」
ダリは信じられない、と可愛い顔で驚いている。これ以上言ってもキリがないので無視をして、受け取った実から滴る汁を口に含む。特有の苦味と甘さが喉を伝って、クソアマ悪魔への苛立ちがみるみる内に消えた。美味しい。己が三十年以上求めていた味に涙が出そうだ。
噛み締める様に啜っていれば、砂浜に似合わない重厚な足音と、後ろから撫でる様に肩を触られる。振り向けばやはりエドガーだ。白ストライプ柄の正装とハット。シアサッカーの生地が涼しさを出している。見るからに派手な服装の癖に、この男には似合ってしまうから憎らしい。
「お帰りなさい、エドガー様。纏まりましたか?」
「ただいまイヴリン。中々良い商談ができたよ」
エドガーは自信に満ちた表情で笑い、ハットのツバに触れる。キザな姿もこの男がすれば様になる。これで被虐趣味がなければ良かったのに。
「商談の内容も最高だし、中々面白い趣味を持つ伯爵だったよ。……嗚呼、そういえば」
ふと、エドガーは何かを思い出した様に目を広げ、ジャケットの内ポケットに手を入れる。差し出してきたのは一枚の金縁のチケットだ。
「何ですか、これ?」
「伯爵から貰ったんだ。明日彼女が所有する大型船で晩餐会が行われるらしくてね、是非恋人と一緒にと誘われたんだ」
ヒラヒラと見せつけるチケットと共に、聞き捨てならない言葉が聞こえた。チケットを見て、そしてじっとりとエドガーを見つめる。
「へぇ?エドガー様、恋人がいらっしゃったんですね」
「昨日出来たんだ。夜空みたいな瞳が魅力的な、私の頬を足で叩くのが好きな子でね」
「……へ、へぇー?」
昨夜の思い出した、卑しさを孕んだエドガーの目線が怖い。逸らす様にダリを見れば、いい笑顔で手で双眼鏡の様なものを作っている。……お、おい嘘だろアホ悪魔……もしかして昨日逃げたフリして見てたのか!?あんなアブノーマルなものを!?
「で、君が行くなら行こうと思ってるんだけど、どうする?」
「いや、そんな貴族がウジャウジャいそうな場所に、私が行くとでも……」
「確かに、その辺の貴族相手だと君はつまらないかもね。でも面白そうだよ?この晩餐会では《収集家の伯爵が集めた骨董や遺物》がお披露目されるらしいんだ。君好きそうじゃないか」
「……え?」
エドガーの放った雑音に驚き、逸らしていた目線を彼へ向ける。
「……伯爵の集めた、骨董や遺物ですか?」
「そう、伯爵「が」というより《伯爵家が代々集めた遺産》かな。……興味ある?」
柔らかく微笑む彼を見て、そして次にダリを見た。
ダリも同じ行動をとっていた様で、大きく開いた目が此方を見つめている。
……悪魔と契約していた際、奴らから私は耳を貰っている。その耳は「ある言葉」にはノイズを放ち、三十年間そのお陰で契約を守っていく事が出来た。
そのノイズがかかる言葉は、既に悪魔と契約している私へのマーキング。そしてもう一つは違法悪魔が関わった事案での場合だ。
「私はもう悪魔と契約していない。……という事は、違法悪魔か」
呟く言葉にエドガーは怪訝な表情を向けて、「名も無き悪魔」に違法悪魔狩りを命令されていたダリは、首がもげる勢いで頷いた。
少し考える素振りを見せた後、真剣な金眼が此方に向けられる。
「……もしかして、この晩餐会に悪魔が関わっているのかい?」
「ええ、その通りです」
エドガーは驚きチケットを見つめるが、果たしてどうするか。もう私は悪魔と契約してい無いので、違法悪魔を探す必要はない。だが今の私は「地獄の主」だ。故に放っておく事はできない。……いや待てよ?違法悪魔を捕まえれば、私が地獄にいない事で怒り狂っているサリエル達へいい土産になるか?出来ればこのまま一生この常夏に居たいが、絶対にあいつら来るだろうし。その時に違法悪魔を差し出せば、多少は交渉材料にならないか?………いや、ならないな。見つかったらダリを差し出そう。
頭の中で思考を巡らせ、己が一番被害を被らない解決策を考える。考えが纏まればココナッツジュースを飲み干し、ビーチチェアから立ち上がった。
「違法悪魔が関わっている可能性があります。行くと面倒な事になりそうなので、辞退します」
「そうだね、危険な可能性があるなら関わら無い方がいい。伯爵には、妻の体調不良で参加でき無いとでも言っておくよ」
「しれっと恋人から妻になってるんですがね」
「今日の夕食は、この街で有名なリストランテのローストビーフと葡萄酒でいいかな?」
「私はエドガー様の妻でした」
「まさか肉と酒で妻が得られるとは。安い買い物だ」
ダリはケラケラと笑いながら私を指さした。いや、お前も人の事笑えないからな。
夕食を終えた私は湯船に入り、バルコニーで自分で淹れた紅茶を啜る。久しぶりに淹れたにしては中々の出来だ。……何処かのアホ悪魔の方が数倍美味いが。
夜空には星々が溢れて、耳をすませば波の音も聞こえる。本当に素晴らしい場所だ。本当ならこの場所で残り二十年は過ごせていた筈なのに、どうして私は地獄にいるんだろうね?
「地獄大丈夫かな、私がいない事はとっくに知ってると思うんだけど」
使用人悪魔の中で、追跡能力が優れているのはレヴィスだけだ。故に私が地獄からこの世界に逃げたとしても、そう簡単には見つける事が出来無い。……強制的に地獄から連れてこられたのだが、あいつらは信じてくれ無い気がする。ダリを差し出しても無駄な気もしなくはない。見つかった時の人生には目を瞑って、束の間の楽園を楽しもう。
もう一度紅茶を啜る。……カーテンで閉ざしていた部屋から、扉の開かれる音と、小さく足音が聞こえた。
昨夜の様にエドガーか?にしては主張の少ない足音だ。
「……どなたです?」
いるであろう相手へ、カーテンへ声を投げかける。
次の瞬間、外からではなく部屋から突風が吹き出した。長いカーテンが顔にあたり、反射的に目を瞑る。
目を開ければ、女性が立っていた。美しい金髪の女性で、長い髪が顔を覆っているので顔立ちは分からない。この国では似合わない重厚な生地の、群青のドレスを身に纏っている。
驚き、紅茶のカップを落とす私へ、女性は唯一見える乾燥した唇を動かす。
「お初にお目にかかります。新たな地獄の主様」
風で消えてしまう様な、小さな囁き声だった。その言葉と佇まい、そして雰囲気で、女がどんな存在なのかは理解した。……まさか、地獄の王になる為に、私を始末しに来た厄介者か?女への緊張で身体が強張っていく。
「私に何か?用がないなら帰ってほしいんだけど」
今、この場にいるのは私と女のみ。女が襲いかかれば、私は簡単に命を落とすだろう。想像をして眉間に皺を寄せ、女へ吐き捨てる様に言葉を投げ掛ける。
……だが、女はその言葉には頷いたと思えば、その場で膝を付き私へ頭を垂れた。……え、まさかの崇拝者のパターン?それもそれで面倒なんだが。
女はそのまま、顔を下に向けて声を出す。
「突然の訪問をお許し下さい。……貴方様の力をお借りしたいのです」
「……力?」
「はい。明日開かれる《ヒルゴス伯爵の晩餐会》その会場に私を連れて行ってほしいのです」
ヒルゴスとは……私が昼に、エドガーの誘いを断った晩餐会の主催者だ。何故この女……否悪魔がそこに行きたがる?いやそれよりも前に、この悪魔は何者だ?
「お前、何者なの?」
私の問いに、頭を垂れた悪魔は顔を見上げる。……長い髪の隙間から、美しいエメラルドの瞳が見えた。
「名をエウリュアレーと申します。……我が姉ステンノーが、貴方様に世話になっております」
「…………んっ?」