143 裏切り者
窓から見える城下町の建物が、夕刻の赤へ変わっていく。
この世界に来たばかりの頃は、中世の様な建物と美しい夕焼けを見て、本当に異世界に来たのだと感動していた。今ではそんな純粋な気持ちなど、すっかり消えてしまったが。
感動も何もない。ただ有るのは恐怖だけ。
後どれだけこの夕焼けを見れば、私は自由を手に入れる事が出来るのだろう?あとどれだけ私は、無事にこの夕焼けを見る事が出来るだろう?
茫然と窓の外を眺めていれば、目の前のバルコニーの柵に一匹の鴉が降り立つ。鴉から乾いた鳴き声が聞こえた。まるで此方へ話しかける様に鳴く声に耳を傾けようと、バルコニーへ繋がる窓に触れた時だった。
「イヴリン」
後ろから、見知った男の声が聞こえる。普段よりも丁寧に呟かれた私の名へ振り向けば、一人掛けのソファへ優雅に座るマルファスがいた。奴へ私の場所を知らせる様に、窓の外の鴉がもう一度鳴く。
「話があるって聞いたぜ?何だよ」
そう、話がある。何度か深呼吸をして、私は悪魔を見る。
後ろから鴉が再び鳴き声を出す。恐らく己の背で隠した手が拳を作っているからだろう。
「お前、舞踏会の時に私達の妨害したでしょ?」
目のない悪魔は、私へ顔を向けた。
その言葉の意味を悟ったのか、悪魔の口角はゆっくりと上がった。反論もなく、悪魔はただ続きを求めた。
「あの時、サリエルや他の悪魔達が記憶操作の術を使ったけど、来賓に術が効かなかった。……悪魔の血を持つものに、悪魔の術は効かない。術が効かなかったのは、舞踏会の食事の中に「悪魔の血」が入っていた。そう私は考えた」
マルファスは一度、乾いた笑い声を出しながら手を叩いた。静かな部屋の中では、叩かれる手の音は部屋中に木霊する。
「ダンタリオンみたく、料理の中に入れたのかもなァ?この国には悪魔が腐る程いるんだ。絞り放題だろ?」
「そう。悪魔の血の摂取、その方法が一番効率的で可能性が高かった。だから私は姿を消したの」
ラファエルが私を聖女にする事が目的ならば、記憶操作が出来る悪魔が側にいるのは厄介だ。故に悪魔の血が含まれた料理、もしくは飲み物を用意し、目撃者となる来賓達へ気付かれぬ様に振る舞った。その答えが一番辻褄が合う。
だが、その方法を取られる事で、記憶操作が出来ない他に厄介な部分もあった。
「……この世界で生きた三十年の内に、私と私の契約した悪魔達は何度も記憶操作をしている。悪魔の血を体に入れた人間は、過去に消した記憶も全て術が解けてしまう。記憶が戻って、私が責任を追求される可能性があった」
私が姿を消したのは、面倒な聖女になりたくなかった、それだけじゃない。
来賓達が悪魔の血を持った。それはかつてダリの血をエドガーが含んだ時の様に、過去に消した記憶も蘇る事実に恐れたのだ。
今まで違法悪魔との関わりで、悪魔達に消して貰った記憶が戻るのは全て厄介だが。ヴァドキエル家の事件は特段厄介だ。
何せアリアナ誘拐、そして本人の記憶を関係者全員から消したのだ。舞踏会当日はヴァドキエル家の人間も出席していた。悪魔の血を得た事で、アリアナの記憶が戻った可能性がある。
ヴァドキエル侯爵家は、アリアナと共に蛆の悪魔も消えた。今まで悪魔の力で栄光を輝かせていたものも、そう長くない未来に消えていくだろう。……侯爵は自分の娘を生贄にしてまで、より強い悪魔と願いを求めたのだ。記憶操作の術を掛けるのが困難な今、記憶が戻れば侯爵が何をしてくるか未知数だ。もしかしたら私を捕らえて、契約した五人の悪魔を従えようとするかもしれない。
窓から離れ、此方を見つめるマルファスの元へ歩く。
奴は頬杖を付きながら、近づく私を出迎えた。
「だから私は、自警団やルドニア軍隊の行動だけは気に留めていた。……でも、一向にヴァドキエル侯は軍を動かさないし、私の悪評も広まらない。隠れていたのが辺境だから、もしかしたら貴族社会では違うのかもしれない。だからパトリック様と協力関係になった時、アーサー・ヴァドキエルに接触をして貰ったの。今のヴァドキエル家の動向を確認するために」
目の前で立ち止まった私は、奴が座る椅子の背もたれに手を置いた。
近づいた私の顔に、マルファスの長い手が触れる。奴は首を傾げて、私へ質問した。
「それで?何が分かったんだ?」
「ヴァドキエル侯は、何も行動していなかった。アリアナの記憶なんて戻っていなかった。それだけじゃない、私が今まで違法悪魔を捕らえる上で、人間達から消した記憶も戻っていなかった。つまり悪魔の血は使われていない。……その時思い出したの。旧ハリス邸で、獲物の人間の記憶を消していた中級悪魔。その術を、それよりも強い術で打ち消していたレヴィスを」
夕焼けが、目を覆った包帯を赤く染める。
鴉の鳴き声はもう聞こえないけれど、悪魔は迷わず私を見つめている。
「私と契約した五人の悪魔。あいつらの術を打ち消す芸当が出来る悪魔なんて、お前くらいなんでしょ?」
「……そうだなァ、俺か「あの方」くらいだろ」
私の言葉に肯定して、頬に触れる手が、諦めた様に己の膝へ落ちていく。それでも私を見つめる悪魔は、穏やかに微笑んでいた。……その表情はまるで、孤児院にいた悪魔の様だ。
かつて「あの方」を支えた悪魔、姿も言動も恐ろしい存在。何度も私と契約しようとして、何度も私を襲おうとしたのに、結局は最後までこの悪魔を嫌いにはなれなかった。
……そんな、不思議な存在。今だって裏切られたのに、怒りなんてちっぽけも感じない。あるのは疑問だけだ。
「最初から、何か可笑しいと思ってた。悪魔が従う「あの方」の右腕だったお前が、天使を崇拝する人間と契約したり、ウリエルの陰謀を影から支えたり。しかも今回は、私が悪魔と結んだ契約の妨害までしている……天使に情が湧いたって言っても、やりすぎでしょ?流石に」
今度は私が悪魔へ触れた。首の刺青に触れ、そして赤く染まる包帯に触れる。
「お前……何がしたいの?」
窓から見える街が、夜を迎える為に暖かな灯りを彩っていく。まだ灯りをつけていないこの室内は薄暗さを増して、悪魔と私を闇に紛れさせた。
暫くすれば、悪魔から小さくため息が聞こえた。力なく落ちた手を動かし、目を隠していた包帯と、私の手に触れ……そして握る。
「お前、俺がノア・ハシリスと契約して、対価として目を交換したって言ってただろ?……あれ、少し違う」
「……何が?」
「俺はあいつと契約なんてしてない。俺が契約したのは……」
マルファスは、懐かしむ様にその名を言った。
「…………マルダだ」
何処かの話で、さもワインに悪魔の血が入ってる様に書いていましたが、それは作者の罠です。
マルダはどこかで、名前だけ出てますよう!