141 一日が終わる
今まで生きた中で、最も長い一日が終わる。緊張で萎縮していた体を柔げる為に、大きく背伸びをしながら廊下を進んでいく。
通り過ぎる聖職者達の様子が興奮げなのは、教会中で聖女様が見つかった事が知れ渡っているからだろう。俺が匿っていた事はまだ広まっていない様なので、今のうちに自分の教会へ帰ろう。イヴリンに協力した結果、教会で匿っていたと嘘を付いたのだ。手伝いにも口裏を合わせて貰わねばならない。
外から馬達の鳴き声が聞こえた。立ち止まり廊下の窓から外を見れば、王家の紋章を付けたご立派な馬車の前で、王太子がイヴリンの手を取り中へ招いている。王太子がイヴリンへ向ける表情、あんなの誰が見ても察せれる。
強国の次期王、麗しの王太子殿下。新聞や下町での評価とは違い、随分と情熱的な男だった。特段お嬢ちゃんへの溺愛ぶり……いや、あれは恋だの愛だので片付けていい感情ではない。
俺と同じく、外の二人を見ていた聖職者達の呟く声。
つられるように、俺もその名を口にした。
「……聖女、イヴリン」
かつてこの国で「辺境の魔女」と恐れられた異邦人、イヴリン。
その正体は魔女でも、そして聖女様でもない只の人間。己の悲願の為に、化け物と結んだ契約を守り続けている人間。化け物に飼われた哀れな魂。それがイヴリンだった。
自分を喰らおうとする化け物と過ごすなど、正気の沙汰ではない。それでも彼女を正気にしていたのは、未来への希望があったから。……その希望が、養父の手によって崩れていく。
王太子へ微笑むイヴリンは、窓から見ていた俺へ気づくと、挑発的に口角を上げる。
『貴方の養父の所為で、私の契約した悪魔達が思う様に力を発揮できなくなっています。……これ以上私達の邪魔をするならば、私達は枢機卿を始末します』
『巫山戯るな!枢機卿を手に掛けるなんて、俺が絶対に』
『私と同じたかが人間が、化け物相手に何か出来るとでも?』
『っ、それでも!!』
『……私とて、無駄な殺生は避けたい。ですから神父様、私に協力してください。……できる限り血を流さない運命にする為に、貴方の力が必要なんです』
「ミカエル」
聞き慣れた、俺の事を慈しむ様に呼ぶ声。振り向けば、そこには養父がいた。丁度彼の事を考えていたので体がこわばってしまう。そんな姿を見た養父は、寂しそうに笑った。
「先程は申し訳ございませんでした。……聖女様の事を考え、お心を癒した貴方を褒めるべきでした。なのに私は、貴方に酷い言葉を……」
「いえ、ラファエル枢機卿が仰っていた事は、間違いではありませんから」
イヴリンと協力関係になった事を気付かれない様に、あんな無茶な嘘を付いたのだ。俺だって養父の立場だったらそうする。あっけらかんと笑って返せば、養父は俺の元へ歩き出し、やがて触れれる距離まで近づく。
次にはいつもの様に、養父の温かい手が頬に触れた。
「ミカエル、約束してください。……もう、私に隠し事はしないと」
触れる手に身を任せ、目を瞑れば馬車の進む音が聞こえた。たったそれだけで、俺の行く先はどう足掻いても悲劇だと伝えてくれる。……それでも、俺は後悔しない。
不安げな手を慰める様に、俺は平気で嘘を吐く。
「……約束します」
嘘の言葉で、養父が嬉しそうに笑う表情を見て。
今胸に刺さった痛みは、一生消える事はないのだと悟る。
だがこんな痛みなど、この人を無くすよりはずっとマシだ。
俺を死の運命から救った、俺の光。
この人が幸せなら、俺は地獄の民にだって手を添える。
《 141 一日が終わる 》
俺の名前はアーサー・ヴァドキエル。父上と同じ中央区自警団に所属し、次期団長として日々鍛錬に勤しんでいる。父と同じ、燃える様な赤髪が自慢の二十六歳、恋人はいないが相手は決めている。
ひょんな事から、いや様々な修羅場を潜り知り合った「辺境の魔女」は、手が掛かる妹の様な存在だ。この前なんてダンスを教えた。代わりに俺の想い人、麗しの女性ミス・ケリスとの食事会を約束させたが。
社交界でも指折りのダンスの腕前を持つ俺だが、イヴリンに教えるのは相当苦労した。赤子、いや猿に教えた方がマシな程に下手だった。今まで誰にもダンスに誘って貰えなかったのか?なんて哀れな少女だろう。余りにも時間がなかったので相当扱いてやったのだが、途中でイヴリンが「パイセン」と俺を呼んでいたのは何だったんだ?異国の言葉か?
そんなイヴリンが、舞踏会で神業を披露したらしい。俺も父上も、自警団の仕事の為不参加で見ていないが、どうやら瀕死の国王陛下を聖なる血で癒したそうだ。何してるんだあの娘。しかも陛下どダンスを踊っていただと?俺の警告聞いてたか?
レッスン中、あれ程聖女にはなりたくないと言っていたから、西区自警団員の知り合いに聖女認定の進行具合を聞いたり、何か手立ては出来ないか探してたんだぞ?神業か何か知らないが、陛下を癒すなら人がいない所に移動させろ。大公開するな。
……だがそれよりも、最もイヴリンに注意したい事がある。
それは娘の使用人達、特に二名の教育方針だ。
「まさか「海の支配者」たるお前が、人間に一目惚れするとはな。本当にそれは恋愛感情か?食欲や所有欲じゃないのか?」
「それだけの欲で、俺が何十年も同じ人間を口説き続けると思うか?それを言うならアンタこそ、主への気持ちをはき違えているんじゃないか?番の意味分かる?」
「ふざけるな、僕はご主人様をお前よりも愛している。想いに気づいてから、何回脳内で愛を囁いて犯したと思っているんだ」
「はぁ?毎日直接愛を伝えて手を出す俺の方が、どう考えてもアンタより主を想ってるだろ?何だよ脳内って気持ち悪いな」
「お前みたいに軽薄に言わないだけだ。重みが違う。あとご主人様に手を出すな殺すぞクソ魚」
「人の事言えないだろ犯すぞ蛇野郎」
「あ……あの……お互い、もう少し仲良く……」
自警団の副団長室、つまり俺の部屋に突然現れたのは、神々しい雰囲気を纏う美形と、色気の化身の様な美形。イヴリンの屋敷で働く執事と料理人だ。彼らは恐ろしい形相で「監視役として、殺し合いを始めたら止めて欲しい」と願い出た。意味が分からない。逃げようとしたら捕まった。何で他所の使用人の世話をしなくてはならない?
来客用のソファに乱暴に腰掛け、美形同士が向かい合わせで熾烈な言い争いをしている。逃げれないので横の一人掛けソファに座り、彼らの望む様に監視、というか仲介役の様な事をしている。……理解に苦しむ会話の言葉もあるが、恐らくイヴリンを取り合っているらしい。顔がいい奴は、女性の好みが変わっているのか?なんかあいつ、好意寄せられすぎてないか?
普通なら恋敵が現れれば、想い人に好かれる様に努力するだろう。恋敵など構っている暇はない、想いあった方が勝利するのだ。
だがこの二人はお互いを必死に説得して、恋心を諦めさせようとしている。……恐らく、イヴリンが己を好きになるのは当然だと思っているのか?何処から出てくるその自信は、顔か?
この二人が来てから、雲ひとつない晴れやかだった天気がどんどん曇っていく。まるで俺の心情を映し出している様だ。
お互いの間に置かれたテーブルに、料理人が乱暴に片足を置く。雷が鳴った。
「……無理だ。やっぱりこの蛇と話し合いなんて、最初から無理だったんだ。蛇酒にして主に贈ろう」
執事が長く息を吐く。窓の外は大雨だ。
「この話し合いで、初めて意見が一致したな。……焼き魚なら、僕でも出来るか」
蛇とか魚とか意味不明だが、お互い一触即発状態なのは分かる。詰所内で問題行動は困るし、一応任された仲介業務は行いたい。
俺は殺気で震える体を鼓舞して、勢いよく立ち上がった。
「君達!いい加減に……」
「副団長殿、突然の訪問で申し訳ない。前に北区自警団前でお会いした、パトリック・レントラーだ。少し話をさせて欲しい」
張り上げた声は空回りして、部屋のドアのノックと名が聞こえる。……この声は確か、北区の連続殺人事件で、イヴリンと共にいた時に声を掛けてきた青年だ。イヴリンの肩を掴んだ俺を睨んで来た覚えがある。パトリック・レントラー、最近レントラー公爵家の当主になった名だ。何であいつ、平民なのにこんなにも権力者と仲がいいんだ。
公爵家の人間が来られたのだ、平民の使用人達よりも優先すべき相手なので、俺は二人にお帰り頂こうとした。……が、再び彼らを見ると、何かを忘れていた様にお互いの顔を見合わせていた。
「レヴィス、取り敢えず悪魔もどきから殺そう」
「そうだな、まずは主に群がる虫から行こう」
「………副団長殿、よく知る男達の声が聞こえるんだが」
イヴリン、頼むから顔で使用人を選ぶな。
ちゃんと使用人の手綱を握れ。
何でアーサーかといいますと、アーサーは唯一イヴリンに邪な感情を抱いていないからです。