128 はじまる
扉が開く音が聞こえた。朧げに顔を反応させれば、朝の光が瞼を閉じても感じる。……もう朝か、昨日は舞踏会の準備で相当に疲れた。開始は夕方なのだから、本当はもう少し寝させてほしい。
その時、顎に触れる手袋の感触、そしてむにゅりと唇に何かが当たった。其れは酷く冷たいもので、そして最近何度も受け入れている感触だ。きっとその内、長い蛇舌が唇に触れ……あーはいはい、毎度飽きない事だなぁ。
薄く目を開ければ、朝日を浴びた美しい顔面が視界を独占する。取り敢えず声をかけよう。じゃなきゃ脳筋は止まらない。
「んむぐっ……しゃ、しゃりえる」
「…………おはよう御座います、ご主人様」
獣の様な赤目が、すこし和らいだ。奴の名前はしゃりえる、ではなくサリエル。長年執事として屋敷を管理してくれる、私が契約した悪魔の一人だ。
絹の様な黒髪を綺麗に纏め、血の様な赤い目。美しい顔に似合う黒の燕尾服。もうその姿には慣れたものだが、昔は顔が近づく度に顔が赤くなったものだ。
そんな奴が、何故突然口付けしているのか?其れはつい先日、この脳筋執事が公言夜這いをしに来た所から始まる。
あの日サリエルは、第四の契約を使わず、かつ第三の契約に引っかからないギリギリのラインを調べに来た。結果は私の長年の欲求不満が原因なのか、ちょっとガッつく口付けまでならセーフだった。流石に舌しゃぶるまではアウトだった様だが。
そして不幸は続き、なんとレヴィスの気持ちまで奴は知ってしまったのだ。脳筋はもちろん脳筋らしくキレ散らかした。皮膚は蛇の様に変質し、怒り狂いすぎて尻尾も隠さず、猫の様にバシバシ床を叩き始める。今からレヴィスを殺しに行くとまで言い始めるものだから、私は必死になって止めた。なんかこう、屋敷が潰れる所じゃすまない気配がした。
半泣きで止める私に何か思う所があったのか、もしくは鼻息が荒かったので興奮しているのか定かではないが、結果サリエルは思い留まってくれた。奇跡だ。
……が、その翌日からだ。奴は他の悪魔がいない隙を見ては、私に契約違反ギリギリセーフの口付けをするようになったのだ。あぁ、やっぱり事細かく危害の内容を決めておけばよかった。
今日も今日とてサリエルくんは、寝起きの私の酸素を奪っていく。暫くすれば、私のお陰で温まった唇を少し離した。漸く吸える酸素が美味しい。
「ご主人様、もう少しいいですか?」
「だめ」
首を横にゆるく振り、顎に触れる手を叩く。すると舌打ちされた。ひどい。
最後に名残惜しそうにひと舐めすれば、漸くしつこい蛇舌が離れた。……この口付けに、慣れてしまっている私が怖い。その内これ以上もセーフになりそうな気がする。こ、興奮してる場合じゃねぇ、心を強く持たなくては。
サリエルは手際良く準備をすれば、輪切りの檸檬入りの白湯を差し出した。お礼を伝えて受け取れば、口元べしょべしょのまま一口飲む。うまい。
「今日の舞踏会、夕方にクソ伝書鳩が迎えに来るそうです」
「ウィンター公ね。分かった、それまでに準備しておかないと」
今日の予定に素直に頷けば、サリエルは眉間に皺を寄せた。
「ご主人様、本当に行かれるのですか?」
「うん、行くよ」
「本当に?」
「何度目だこの会話?」
呆れたようにため息を吐けば、サリエルは目線を下に向けた。
今日はルドニア国王、アレクの誕生日だ。白百合勲章を得た私は強制参加で、今日の舞踏会は妄想癖アホ天使、ゲイブ・ウィンター公爵にエスコートを頼んでいる。
あの天使は非常に楽しみなのか、この前贈られて来たドレスは最高級の生地を使った、それはそれは見事なものだった。私がいつも着るドレスが何着、いや何百着分の金がかかるだろう。我が屋敷の衣装担当ケリスさんが、そのドレスを見て何回も舌打ちしていた。どうやら非の打ち所がない様だ。そりゃそうだ、金に物言わせてるんだから。
白湯を全部飲み終われば、気合を入れるために背伸びをする。舞踏会は夕方、しかしレディたるもの準備が多いのだ。早く朝食を食べて支度をしなくては。
「さて、今日は頑張りますか!」
自分を鼓舞する為に吐いた言葉に、サリエルは更に不機嫌な表情になった。
◆◆◆
「母上、一緒に舞踏会へ行きませんか?」
ドレスの支度を終えた私に、既に準備を終えた息子が声を掛けに来てくれた。私はその方向へ体を向け、柔らかく微笑んだ。
「あら、珍しいお誘いね。いつも先に会場へ行く癖に」
弾んだ声で答えれば、息子アレキサンダーは苦笑しながら頬を掻く。何十回目の誕生日、もうすっかり年老いた姿になってしまったが、昔からの癖は変わらない。息子の態度と癖を見て、察した私は目を薄くした。
「アレキサンダー……もしかして、舞踏会に一人で行くのが怖いの?」
「はは、私を何歳だと思っているんですか?もう子供じゃありませんよ」
頬から首に手を移動させた、これは図星の時の癖ね。
「そうやって隠しても無駄よ。……ちょっと待って、考えるわね」
「ちょ、ちょっと母上?」
慌て始める息子を放って、私は顎に手を添え考え始める。去年はこんな事はなかったから、きっと今年になって変わった事だ。と言えば……。
考えた結果、案外簡単に答えが分かった。思わず手を一度叩く。
「ああ!分かったわ!イヴリンがウィンター公と一緒にいる姿を、一人で見たくないのね!」
「…………」
「もぉ……貴方もルークも、本当にあの子が好きね」
小さく笑えば、息子は目を逸らして口を閉ざした。少々拗ねているらしい、可愛らしい事だ。確かに姿はもう子供ではない、けれど私にとって、この子はどんな姿でも私の可愛い子供だ。
私が無事に産む事ができた、唯一の愛しい息子。その子が原因不明の病になって、あの時の恐怖を思い出せば、今でも手が震えてしまう。体の弱い私にはこれ以上は望めず、私だけを愛してくれていた王は、私以外の女と子供をつくるしかなかった。
絶望し、そして私も、息子と一緒に死のうと思った。
そんな時にあの子がやって来たのだ。
この国でも、他国でも珍しい容姿を持った、風変わりな服を纏う少女。彼女は自分に息子を診せて欲しいと願った。自分なら息子を助けれるかもしれないと。
どんな高明な医者も逃げたのだ。こんな少女に助けられる筈がない。……そう答えは出ているのに、あの暗闇の瞳を見ていると、何故かその答えが揺らいでしまう。渋る王へ私は願い、万が一助けれなかった場合は、少女を処刑する事でそれは叶った。
その結果、アレキサンダーは見る見るうちに病を癒し、そして体も動かせる様になった。久しぶりに息子が、か細い声で母を呼んでくれたのだ。
……そして、次にその紫の瞳を、私ではなくイヴリンへ向けた。まるで神を見た様に、驚きと崇拝の感情を込めて。
「イヴリンのお陰で病が癒えて、元気になった途端、貴方「イヴリンに会いたい」ばかり言ってたわね。あんまりにも言うものだから彼女を呼んだら……貴方ったら、天邪鬼になって揶揄う言葉しか彼女に言わないんだもの。我が息子ながら呆れたわ」
「母上、昔の話はよしてください……」
会場まで息子に車椅子を引いてもらいながら、束の間の昔話に花を開かせる。息子は恥ずかしいのか、何度もわざとらしく咳払いをしている。
「いいじゃない、こうやって貴方の誕生日を何度も祝えるのが嬉しいのよ」
軽く言葉を放ったつもりだが、息子は何か思う事があるのか無言だ。……昔も、この位人を思いやる気持ちでもあれば、イヴリンは息子と添い遂げる人生を考えたかもしれない。
……やがて、会場の賑わいが耳に届き始めた。イヴリンの事があって、息子は私の側に居たい様だが……もうすぐ息子は注目の的となり、それは難しいだろう。
「ねぇ、アレキサンダー」
「何ですか?」
「貴方とルークは、よく似てるわね」
会場の扉の前で止まった車椅子、後ろにいる息子からの返答はない。
……けれど、暫くすれば肩に大きな手が添えられる。
「ええそうです。だからこそ……」
話し終える前に扉が開かれ、沸き立つ来賓の声によって、息子の声は届かなくなった。