124 女性の趣味は変わらない【上】
しくじった、今の状況にふさわしい言葉だ。過去の自分の行動が腹立たしい。
人間の皮を被った違法悪魔は、サリエル達に見つかれば地獄の炎に焼かれ、奴らの上司の元へ堕ちる。だがそれは悪魔だけで、被られていた皮はそのまま焼死体として残る。まさか、その死体からここまで追い詰めてくるとは。
この世界は、私がいた世界より科学が進歩していない。かつての学校長、ロザリー・アルバスによる研究のお陰で、一部の地域には電気や水道は通っているがその程度だ。情報媒体は新聞に頼り切っているし、移動だって馬車だ。殺人事件の手がかりは現場への聞き込みと死体解剖のみ。指紋も足跡も採取できやしない。
……焦って忘れた訳ではない。骨から得た弾痕から、使った銃の種類が分かるなど思わなかったのだ。故に薬莢を回収しただけで終わらせた。
触れる彼の指が、やがて頬から唇へと移動する。
目線を上に向ければ、エドガーは欲情抱える目を細め微笑んでいた。さしずめ私はこの狼に狩られかけている、か弱い子うさぎだと思われているのだろうか?
唇に触れる手はそのままに、私はエドガーの指にため息を当てる。
「ええそうです。全て、貴方様がおっしゃる通りです」
「おや、もう負けを認めるのかい?殺害を犯したのには理由があるとか、弁解とか……てっきり、もう少しかかると思ったんだが」
「何を言っても変わらないでしょう?それに只の田舎の小娘が、中央区を支配する商人様に勝てる筈が有りませんから」
この男が使えて、それでいて厄介な存在な事はよく分かっている。今だってここまで調べられているのだ。私が反論しても、きっとそれ以上の言葉で言い負かしてくるだろう。
本当に、面倒な男に気に入られてしまったものだ。こんな女相手に、金と労力の無駄遣いだろ。
だが、どれだけエドガーが知恵と権力を持っていようとも、彼が「只の人間」な事には変わりない。
目線を後ろに受ければ、ステラは小さく笑い声を出す。少女の笑い声と此方へ向かってくる足取りに、エドガーは怪訝そうに眉を顰めた。
エドガーの目の前で立ち止まったステラは、可愛らしく首をかしげる。
「おにーさん、もっと近づいて?」
「……どうしたんだい?」
態度を不思議だと思っていても、子供がする事だと顔を近づけたエドガーに向けて、ステラは息を吹きかけた。
彼の髪が揺れ、黄金色の瞳も揺らぐ。体をふらつかせたが、反射でテーブルに手を付き支えた。
エドガーは声も出さずに呆然としていたが、暫くすれば静かに息を吐いた。私はそんな彼へ静かに声を掛ける。
「エドガー様、大丈夫ですか?」
「……あ、ああ……すまない、立ちくらみかな?」
何度か深呼吸をしてから、此方へ心配をかけまいと微笑んでいる。ステラは何事もなかったかの様に後ろへ戻り、私はエドガーへ心配するかのように眉を下げた。
「席に座って休んでください。もうすぐメインが来るでしょうし」
「そ、そうだね……えっと、何を……話していたかな?」
「最近中央区に出来た、エドガー様が紹介してくださったホテルの話です。この前泊まりに行きましたので、感想をお伝えしている所でしたよ」
「ああ、そうか……うん……あのホテルは客室も素晴らしいが、最上階のリストランテには行ったかい?肉料理が美味しいよ」
エドガーは声明るく、普段通りの言葉遣い、そして愛想が良い姿を見せた。先程までの狼の様な獰猛さはもうない。私は微笑みながら彼の話を聞く。
自分の席へ戻り、彼は私を楽しませる為に肉料理の話を広げていく。……その姿を見て、自然と安堵のため息を吐いた。
「ミス・イヴリン?」
「すいません、メインが楽しみで」
「タンシチューかい?味は保証するよ」
「ええ、楽しみです」
何もかもを忘れて、私へ笑いかけるエドガーへ微笑んだ。
……そう、どれだけエドガーが知っても、只の人間なら悪魔に記憶を消して貰えばいい。使用人悪魔達が従う「あの方」はこの世界の人間が真実に近づく事を良しとしない。今までだって、違法悪魔と関わった人間達の記憶を奴らは奪ってきたのだ。
今の所は私の犯した事実だけだが……私と使用人悪魔達とで結んだ契約には、契約者の保護の内容が含まれている。だからステラは万全を考え、エドガーの記憶を消したのだ。
だが記憶を消しただけだ。この男が再び真実へ辿り着く可能性は高い。私への執着も消せる術があればいいが、人間の感情部分を消す事は不可能らしい。……もう少し、エドガーとの距離感を考えた方がいいかもしれない。あまりにも面倒な事になれば、契約という建前により、悪魔達は必ず彼を殺してしまう。
暫くすれば、食欲をそそる酸味と肉の匂いが漂う。匂いの元を見れば、従業員がメインのタンシチューを持ってきていた。
野菜と共に長時間煮込んだのか、トマトの酸味の匂いがしても溶けて姿はない。手間をかけたソースに、柔らかそうな牛肉……匂いと見た目で、確実に美味しいと分かる。流石金持ちおすすめのメニューだ。
テーブルに置かれたメインに、エドガーも嬉しそうに顔を綻ばせた。
「さぁ、料理が冷めないうちに頂こうか」
「そうしましょう!」
牛肉は想像通り、スプーンで簡単に裂ける程に柔らかい。一口分スプーンですくえば、まだ湯気の出ているそれを口に入れた。……レヴィスのビーフシチューよりも更に繊細な肌触り、素晴らしい。とても美味しいじゃないか。
「とても美味しいです!」
素直に感想を述べ、エドガーの方へ顔を向けた。それと同時に、カチャリと食器が落ちる音が鳴り響く。
どうやらスプーンを落としたらしい。だが落とした本人は下を向いたまま固まっていた。……どうしたんだ?従業員は既にいないので、すぐに替えのスプーンを持ってきて貰う事は難しい。
ややマナー違反かもしれないが、私は立ち上がり彼の足下に落ちたスプーンを取ろうと手を伸ばす。
だが伸ばした手は突然、力強い手に握られ、阻止された。
容赦ない強さに、驚きと痛みで表情が険しくなる。
「っ!?」
「まさか、君は本当に魔女なのか?……嗚呼、でもいいよ。何にせよ、どうでもいい……」
力強い手とは反して、独り言の様に呟かれる声は震えていた。
弱々しい姿にもとれるのに、長年の私の経験が、本能が警告音を鳴らしている、エドガーから離れようとしても、男に握られた手は離れない。
男は、震える唇で言葉を囁く。
「初めて君を見た時から、強烈に惹かれたんだ。まるでずっと探し求めていた存在の様に、私の体の一部が見つかったかの様に」
「……エドガー、様?」
「女の趣味が変わらないんじゃない。私の女は、君だけだったんだ」
腕を引っ張られて、私はエドガーの胸の中に閉じ込められる。
心臓から聞こえる忙しない鼓動、彼から聞こえる興奮した呼吸。
私は、ゆっくりと顔を上げて、エドガーの表情を見た。
見上げた先には、獣の方がまだマシな程の、下品に歪んだ男がいた。
男は、私へ熱を込めたため息を溢す。
「………君は、私の運命の人だ。……イヴリン」
私の唇は、男に噛みつかれた。
次回、イヴリンが暴れます。